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缶詰の町

 町を歩いている。
 細い棒でできた人形たちは灰色の地面の上を忙しく歩き回っている。彼らは足音を立てることもなければ、声を発することもない。静寂に包まれた町の中で僕の足音だけが反響して、後ろから追いかけてくる。
 街路樹の枝の分かれ方は自然な美しさを保っているように見える、けれどもそこに植えられている時点でそれは歪んでしまっている。
 たくさんの柱が天井を支えるように伸びている。柱の中にもたくさんの人形たちが暮らしている。天井は薄っぺらい水色で塗られ、ご丁寧に少しぼかしの効果を入れた雲まで描かれている。「太陽」という名前のつけられた強力な電灯の光はどこか青みがかっていて、とても「母なる」という形容がつきそうにない。
 僕は歩きながら友人のことを思う。
 俺には行きたい場所があるんだ、と彼は言った。呼吸をするみたいに言って、その言葉を最後にいなくなったのだった。
 僕は右の胸ポケットから細長く丸められた紙を取り出した。彼からもらったものだ。「タバコかよ」と僕は聞いた。彼は「違うけど、似たようなもんだ」と言った。「気が向いたら吸ってみろ」
 僕はそれをぎこちないやり方で口にくわえると、マッチを擦って先端に火をつける。そしてやっぱりぎこちないやり方で吸ってみる。「似合わねえな」彼がそう言って笑っているような気がした。
 ミントの香りのような清涼感が鼻腔を満たす。煙を吸い込んでいるようには全く感じられず、むしろ森の中の清浄な空気を吸っているようだった。
 僕は目を閉じた。

 空がある。塗りたくられた天井ではなく、雲が浮かんでいて、拡散する光に満ちた空間がある。暖かい太陽の光。空の下、草原の草木が一身に光を浴びている。さらにその下では、暖められた土壌が静かに微笑むように、深い呼吸を繰り返している。
 もう一度空を見上げる。太陽の光の向こう側に、暗く、延々と続く宇宙を感じる。気の遠くなるような空間と時間を感じる。それを貫くように光り輝く星々を感じる。

「あつっ」
 指が反射的に紙を投げ捨てる。紙につけられた火が指の近くに到達したのだ。一瞬にして灰色の町に帰ってくる。
 路上に落ちた紙は、細い煙を上げながら燃え尽きてしまった。煙はなかなか消えないであたりに漂っている。僕はじっとそれを見つめていた。やがてゆっくりと移動し、外壁についた空気清浄機に吸い込まれて、跡形もなく消えた。その様子は町を出て行った彼の後姿に似ていた。
 彼は行ってしまった。
 天井を見上げる。彼が突き抜けたときに開いた穴は跡形もなく塞がれてしまった。外壁はさらに強固になり、これ以上の脱走者を出すまいとする町の意思が表れていた。
 残された僕は、少しずつ人形になっていく。彼に対する羨望と、後悔と、それらが薄れていく空虚さに身を委ねながら。


* * *
初出:2007.5.2.
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    けいにる と ひふら

    1. けいにるについて
     けいにるは生きている。
     けいにるは動物である。
     けいにるには五本の足があり、五足歩行する。
     けいにるの体は薄茶色の毛で覆われていて、くすぐったいと感じた時、毛を逆立てる。
     けいにるは耳があまりよくないが、代わりに優れた目を持っている。
     けいにるの口は五本の足の間にあり、獲物を足で閉じ込め、足を曲げて捕食する。
     けいにるの鼻は、五本の足のくるぶしに、それぞれ二つずつついている。
     けいにるは、最高時速40kmで疾走することができるが、持久力がないため1分しかもたない。
     けいにるは1日に約40分の睡眠をとる。
     けいにるは待ち合わせの時間に遅刻することが多い。
     けいにるはコーヒー牛乳を好んで摂取する。
     けいにるは僕の友達である。

    2. ひふらについて
     ひふらは生きているのかどうかよくわからない。
     ひふらは植物だと言う研究者もいる。
     ひふらは地面から約10m離れた空中に漂っており、風に揺られるようにひらひらと移動する。
     ひふらは空気のきれいなところに生息する。
     ひふらはクローバーの三枚の葉のような形をしているが、変形することもあるらしい。
     ひふらは内に太陽の光を蓄えることができ、常にぼんやりと発光している。
     ひふらの色は、天気の移り変わりと空気の清らかさと雰囲気の如何によって変化する。
     ひふらは周囲の雰囲気に非常に敏感で、優しい場所にしか現れない。
     ひふらを纏うようにして山奥で生きる「ひふら仙人」と呼ばれる人がいるらしい。
     ひふらを見た日から一週間ひふらについて話さなければ、願いが叶うというジンクスがある。
     ひふらは満月の夜になると「みよ〜ん」という小さな音を発する。
     ひふらはもう五年以上、僕の前に現れていない。


    3. けいにるとひふらと僕
     その日はけいにると遊ぶ約束をしていた。コーヒー牛乳の入ったビニール袋を片手に待ち合わせ場所の広場に向かうと、珍しくけいにるが先に来ていた。きっと明日は雨が降るに違いない。
     けいにるが「コーヒー牛乳だ!」と言って、きらきら輝く目を獲物から離さないので、僕は紙パックの口をあけてストローを入れて差し出した。けいにるはごくごく喉を鳴らしながら、嬉しそうにコーヒー牛乳を飲んでいた。
     けいにると森の中を歩く。けいにるは蝶を追いかけたり、妙な形をした植物に絡まったりして遊んでいた。僕はそれを見ながら深呼吸する。木々の吐息が体中を抜けていき、僕の中に蓄積した毒素を中和するような気がした。
     日が沈んで暗くなると、けいにるが「もう帰らなくちゃ」と言った。広場まで無言で歩く。広場の真ん中で空を見上げると、もう星が出ていた。「一番星見っけ」とけいにるが言う。それからまた沈黙が流れた。
    「それじゃあ、また」と僕が言うと、けいにるは「また今度なー」と言って、てけてけ歩いていった。僕はその後姿をずっと眺めていた。
     ふいに、上のほうでかすかな光が揺れた。見上げるとひふらが舞っていた。けいにるが歩いていった方向だ。ひふらは僕から遠ざかり、消えるように木々の影に隠れた。

     僕は五年ぶりに見たひふらの姿を思い返し、そっと箱の中に入れた。それから目を閉じて、青いプラスチック製のベンチから腰を上げると、ビルの合間に満ちた優しくない海の中へと飛び込んだ。


    * * *
    初出:2007.3.25.
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      トロンボーン

      「なんか、トロンボーンって、名前にしまりがないじゃんか」
       俺たちは屋上にいる。沈む夕陽を惜しむかのように、空がオレンジ色に染まっている。
       世界中のトロンボーン奏者に対して無礼きわまる発言をぶちかましたのは、俺の隣に立っているヤスだった。背が低く、いつもおどけているようなヤスは、クラスのみんなから「ピエロ」と呼ばれていた。
      「トランペットとか、クラリネットとか、なんていうか、歯切れがいいよな。それが、トロンボーン、だと、なんか間延びした感じがする」
      「おそらく“ボーン”が原因だな」
      「そうだ、“ボーン”がいけないんだよ。ジャズとかでも、ピアノ、ウッドベース、サックス、トロンボーーン」ヤスは、わざと“ボーン”を伸ばして言った。「ほらみろ、トロンボーンだけが間延びしてる。やっぱり“ボーン”がよくない」
      「まあまあ。落ち着けよ。他の楽器でも、間延びした名前の、あるだろ」
      「トロン“ボーーン”に、匹敵するやつがあるか?」
      「“オーーボエーー”なんか、どうだ」
       俺は世界中のオーボエ奏者に心の中で土下座しながら、ヤスを慰めようとする。クラシックとか全然聴かないから、一人として顔も名前も思い浮かばないけど。

       なんでこんな話になったのか。
       発端は、ヤスの放った一言だった。


      「オーエー、あのさ」
       放課後、俺が意味もなくブラブラしていると、ヤスが話しかけてきた。
       ちなみに「オーエー」というのは俺のあだ名だ。名字がオオエで、イニシャルがO.A.だから、という理由で付けられた。名字をのばして呼んでるから、ある意味これも間延びしてるのかもしれない。
      「なんだよ」
      「屋上行こうぜ」
      「どうしたんだよ」
      「別に、大したことじゃない」
       廊下を歩き、階段を登る。ヤスが小声で言う。
      「トロンボーンって、どう思う」
      「トロンボーン? 楽器の?」
      「オーエー、声がでかいぞ……そうだ、楽器の」
      「あれだろ、あの、手を前後に動かして吹くやつだろ」
      「そう、スライドさせて、音程を合わせるやつ」
      「スカとかで吹いてるやつだよな。かっこいいよなぁ」
      「かっこいい、か?」
       そこで俺たちは屋上へ出る扉の前に着く。
       扉には鍵がかかっている。大昔は開放されていたらしいが、ある生徒が飛び降りてから鍵がかけられるようになった。ふわふわした雰囲気のこの学校では、「飛び降り自殺」の単語は違う国の言葉のようで、にわかに信じがたい話だ。
       俺は制服の内ポケットに手を突っ込み、合鍵を取り出す。
       この合鍵は随分前に卒業した生徒が勝手に作ったもので、代々卒業生から在校生へと受け継がれてきたものらしい。そんな伝統があることを知ったのは、実際に先輩から鍵を渡された時だった。
       後ろに誰もいないことを確かめ、鍵をあけて中に入り、すぐに鍵を閉める。
       目の前に広がる、夕焼け色に包まれた景色を眺めながら、ヤスは言った。
      「オレ、トロンボーンを吹いてるんだ」


      「オーボエか、確かに間延びしてるかもな」とヤスは少し笑った。
       冷たくなってきた風が、俺たちの間を吹き抜けていった。グラウンドを周回するサッカー部員たちの掛け声が聞こえる。距離を置いたところにハードルを飛び越える陸上部員もいる。遠くのコートでテニス部員が素振りをしているのが見える。
      「ちょっと、聞いてくれ」
      「今、聞いてる」
      「いや、話じゃなくて、トロンボーンだ」
      「吹くのか」
      「吹く」
      「いつ、どこで」
      「もうすぐ文化祭だろ」
      「ああ、再来週だな」
      「一日目の二時半、倉庫がカラになる」
      「あの一階の、楽器が置いてあるところか」
      「そう。吹奏楽部が体育館のステージで発表するから、楽器を運び出すんだ」
      「そんな情報、どこから仕入れてくるんだ……でも、楽器を運び出すなら、トロンボーンだって運ぶだろ?」
      「トロンボーンは、俺のを持ってくる」
      「……? じゃあ、なんで倉庫なんだ?」
      「あんまり大勢に聞かれたくないんだ」
       ヤスは笑って言った。
       グラウンドのサッカー部員たちはドリブルの練習をしている。陸上部員は早々にハードルを片付け始めた。コートのテニス部員はラリーをしている。
       屋上を出た後で、俺は半ば強引に昨日の晩のTVの話をし始めた。帰る途中で別れるまで、ヤスのトロンボーンについては一切触れなかった。


       文化祭一日目、俺は喧騒を抜けて倉庫に向かった。倉庫は一階の階段の下にあった。人通りもそれなりにあって、忍び込むには不向きな気がした。
       錆びた金属性の扉に鍵はかかっていなかった。俺はすばやく中に入る。中では、ヤスが台に腰掛けて準備をしていた。
      「それ、買ったのか?」俺は、ヤスが持ってきたトロンボーンを指差して言う。
      「うちにあったんだ。誰が使ってたかは聞いてないけど、親父のか兄貴のか……」苦笑いを浮かべて言う。「さすがに、マウスピースだけは新しく買った」
       ヤスは立ち上がると、トロンボーンを構えて、吹いた。揺るぎのない単音が、かなり大きく響いた。
      「結構、音がでかいな……」
      「外にはそんなに漏れてないはず」
       ヤスはそう言うと、深呼吸した。
       そして、曲を吹き始めた。

       ヤスが曲を吹き終わった。
       俺は一人で拍手を送った。「すげーじゃん、かっこいい」と言って、自分の語彙の乏しさに恥ずかしくなる。
      「みんなの前でやればいいじゃんか」と言うと、ヤスは首を横に振った。
      「オレがトロンボーンなんか持ったら、みんなはオレがまたふざけてると思うだろ。それで多分、オレは期待通りにふざけちゃうと思うんだよ。それがオレの役割だから」ヤスの顔には、教室では決して見ないような寂しげな表情が浮かんでいた。「でもそれは嫌なんだ」
       俺はただ、「そうか」としか言えなかった。そして自分の中のもやもやした感情を無視して、できるだけ明るい声で言った。
      「俺にも貸してくれよ。吹いてみたい」
      「そこに、吹奏楽部の余りがあるぜ」
       ヤスが指差した先の棚にケースが置いてあった。俺はそれを引っ張り出し、机の上で開き、収められていた楽器を取り出す。ヤスに教えてもらいながら準備する。マウスピースは一応念入りに拭いた。
       構えて、息を吸って、吹く。
       ぽぇ〜、という間抜けな音が響いた。ヤスが思わず笑う。俺はちょっと悔しくなって、何度もぽぇ〜、ぽぇ〜、とやる。
       そのうちヤスが笑いながら構え、また吹き始めた。さっきとは違う曲だった。
       俺は吹くのをやめた。ヤスの奏でる曲を聴く。

       間延びした名前の楽器を吹くピエロは、そこにはいない。


      * * *
      初出:2007.01.29.
      1/23に見た夢に肉付けしたもの。
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        | 屋上の鍵 | comments(4) |

        ほとん

        暗い部屋でコードに絡まりながら横たわる。
        僕は画面を見ていた。画面には、砂嵐が映されている。左へ右へと流れる白と黒と灰色の光を浴びながら、僕は画面を見ていた。

        グレーの毛並みの美しい猫をお供に、延々と続く砂漠を歩いている。
        ある夜、突然の高波に飲み込まれた。泳げない僕はとにかく必死にもがく。そんな僕を尻目に、波の上をぴょんぴょん飛び跳ねている猫が視界の端に写る。だがそれもすぐに遠ざかっていく。流れてきた木の板にしがみついてようやく僕は息ができるようになった。海水を随分飲んでしまって、何度もむせる。
        落ち着いてから顔を上げると、上も下も深い穴のような闇色で、その中でたくさんの小さな星々が光り輝いている。ちっぽけな僕はその果てしない時空の中で板切れにしがみついてゆらり、ゆらりと揺れていた。どうしようもないので、一等綺麗な赤い星を見ていることにした。するとその星がどんどんこちらに近づき始めた。
        赤い星の中では胎児が静かに眠っていた。温かそうに目を閉じてうずくまっている。心臓が脈打つような音が聞こえ始め、それに合わせて赤い星の表面が爆発し、炎が蛇のように舞う。僕は星の引力に引き寄せられ、羊水の流れに飲み込まれるようにして、板切れごと胎児の口に入り込んだ。
        胎児の口の中は真っ白な正方形の部屋になっていた。部屋の中央で何か白い塊がもぞもぞと動いている。僕が近づくとその塊は激しく波打ち、黄色い粘液を辺りに撒き散らし始めた。
        突然、「ひーぐぃいいいいいいいいい」という金属質の悲鳴が音のない世界をえぐった。白い塊から顔のようなものが覗いており、その口が中途半端に開いている。
        僕は持っていた板切れを白い塊に向かって振り下ろす。すると口が「ぐぶふぇえええ」と悲鳴を上げ、黄色い粘液を溢れさせながら塊が割れる。
        粘液の泉から、慣れ親しんだ鳴き声が聞こえる。グレーの毛を粘液でべたべたにしながら猫が飛び出してくる。なんだこんなところにいたのか、さっきはよくも僕を見捨てたな、と言うと、猫は何も言わずにそっぽを向いた。そしてまっすぐ歩いていき、前足でぺしりと壁を叩く。
        近づいて壁に触れると、その部分が扉になって外に開いた。砂漠が広がっている。猫はしなやかな足取りで砂漠へと出て行った。僕もついて出て行く。どうやらまた延々と続く砂漠を歩いていくことになるらしい。
        背後でばたんと扉が閉まる音がした。しかし、振り返っても砂漠が広がっているだけだった。

        暗い部屋でコードに絡まりながら横たわる。
        僕は画面を見ていた。
        ふと右側を見ると、いつからあったのか窓が口をあけている。窓から光が差し込み、僕の体を照らしている。コードを引きずりながら這って窓の下まで行き、壁にもたれながら体を慎重に持ち上げる。ようやく窓枠の高さまで持ち上げ、外を見る。
        空は真っ黒で、大きな赤い星が燃えている。地面は真っ白で黄色い海が広がっている。遠くから「ひーぐぃいいいいいいいいい」という奇妙な音が聞こえる。
        もっと見ようとする僕を遮るようにして窓は消失し、視界は暗転する。

        僕はまた必死に這って画面の前に戻る。画面には、延々と砂嵐が映されている。左へ右へと流れる白と黒と灰色の光を浴びながら、僕は画面を見ていた。
        画面の砂嵐が一瞬途切れ、なにかの影のようなものが映る。大きくてとがった目、とがった耳が立っている。
        「……ほ……」
        ノイズの合間を縫うようにして、何か聞こえる。
        「……ほとん……」
        声だった。僕は画面に顔を近づける。
        しかし声はそれっきり発せられず、画面はまたもとの砂嵐に戻った。

        「……ほとん……」
        僕は横たわったまま、かすれた声で言う。
        「ほとん、ほとん」と、何度も繰り返す。

        * * *
        初出:2007.01.08.
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          | よくわからないもの | comments(0) |

          醜い鞄

          美しいものが好きだった。
          美しいものが好きだったので美しいものばかりを集めて、鞄の中に入れることにした。

          朝、見上げた空の色が綺麗だったので鞄に入れた。小鳥の囀りが可愛かったので鞄に入れた。緑の葉っぱが輝いていたので鞄に入れた。
          昼、パン屋さんでいい匂いがしたので鞄に入れた。川の水が澄んでいたので鞄に入れた。踊るようなピアノの音が聞こえてきたので鞄に入れた。
          夕、西日が切なさで溢れていたので鞄に入れた。トンボが寂しそうに飛んでいたので鞄に入れた。影法師の色が儚げだったので鞄に入れた。
          夜、晩御飯がとても美味しかったので鞄に入れた。窓の外に厳かな闇が佇んでいたので鞄に入れた。電気を消して、布団の暖かさを鞄に入れた。


          僕は毎日、いろいろなものを鞄に入れた。
          美しい物語を鞄に入れた。美しい絵を鞄に入れた。美しい歌を鞄に入れた。
          お母さんを鞄に入れた。お父さんを鞄に入れた。おじいちゃんを鞄に入れた。おばあちゃんを鞄に入れた。猫のクロを鞄に入れた。
          友達のコースケ君を鞄に入れた。トール君も鞄に入れた。カイ君も、ヒロタカ君も鞄に入れた。コンドウ先生と、サトウ先生も鞄に入れた。大好きなあのこを鞄に入れた。
          行きつけのお店を鞄に入れた。よく歩いた並木道を鞄に入れた。雨に濡れて、笑いながら走ったことを鞄に入れた。自転車に乗って感じる風を鞄に入れた。打ち寄せる波を鞄に入れた。山の上から見た景色を鞄に入れた。
          僕は毎日、いろいろなものを鞄に入れた。
          なのに、鞄はいつまでたってもいっぱいにならない。

          ある日、僕は暗いビルの間を歩いていた。道には生ゴミや吐瀉物や動物の糞がこびりついていて、空には沈むような色の雲が立ち込めている。辺りに充満する排気ガス。クラクションや叫び声やガラスを引っかくような音が、ひっきりなしに聞こえてくる。すれ違う人は歪んだ顔で僕をにらみつけ、悪態をつき、つばを吐きつける。
          遠くで歓声が上がったかと思うと、轟音と共に爆風が押し寄せる。人間の体の部分部分があたりに飛び散る。ビルが崩れる。道路に穴が開く。あちこちで火が燃えている。戦車がやってくる。兵隊がやってくる。銃を撃つ。ナイフで刺す。人がどんどん死ぬ。人がどんどん殺す。
          僕は足を撃たれる。倒れたところで誰かに押さえつけられ、頭を何度も殴られる。左手を吹き飛ばされる。腹を裂かれ、内臓を引っ張り出される。爪を剥がされる。足を先端から順に細切れにされる。右目をえぐられる。頬を裂かれ、耳をそがれる。

          僕は残った左目で自分の体を確認する。
          どす黒い血液にまみれ、黒や灰色の内臓をはみ出させて、手も足もなくなってしまった。
          なんて醜いんだろう。
          僕は爪の剥がれた右手で鞄を開ける。中では、僕が集めた美しいものがひしめきあっている。きらきらきらきらと光っている。壮大な物語を形作っている。極上の音楽を奏でている。暖かくていいにおいがする。優しい笑顔をこちらに向けている。
          鞄の中に入りたい。
          美しいものをもう一度見たい。
          美しいものをもう一度聞きたい。
          美しいものにもう一度触れたい。
          美しいものにもう一度会いたい。

          けれど僕は鞄の中に手を入れることができなかった。

          落ちてきた爆弾に吹き飛ばされて、僕は肉片に変わった。美しいものがたくさん詰まった鞄は跡形もなく消え去った。


          * * *
          初出:2006.12.29.
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            | 一話完結 | comments(0) |
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