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深呼吸の森

 あてもなく街を彷徨っている。
 通ったことのない道。車の群れ。居酒屋、ラーメン屋、焼肉屋は賑わっていて、美味しそうな匂いが漂っている。マンション、一軒家、個人病院。八百屋、花屋、文房具屋、自転車屋はどれも閉まっている。コンビニの明かりが眩しい。
 足は、私の意思とはほとんど関係なく動き、思わぬところで方向転換し、知らない道へと進んでいく。私は移り行く風景を、夢でも見ているかのような心地で眺めていた。
 普段遅くなってからは通らないようにしている道にも、お構いなしで入っていく。街灯の少ない住宅街。細い道の両脇の古い家々やアパートが、闇の中でぼんやりと浮き上がって見える。まるで、光を外に逃すまいとしているかのようだ。
 静まり返った闇の中を歩く。ゆっくりと、リズムを刻みながら。
 ふと、自分以外の足音が混ざっているような気がした。
 角を右に折れ、リズムを崩さないようにしながら、振り返る。曲がり角のカーブミラー。円く切り取られた暗闇の中に、さらに濃い影が。角に近づいてくる。
 足音のリズムは崩れ、少しずつ速くなる。私の心臓もそれに合わせて速くなっていく。追ってくる足音も心なしか速くなっているように感じる。
 もっと速く。
 追ってくる。
 誰。
 逃げないと。追いつかれる。
 いつのまにか、私は、走って、いる、もっと、速く、角を、左に、追ってくる、すぐ次、右、行き止まり!? 違う、突き当たって、左、…………。
 何かを考える余裕もなく、ただ必死に暗闇の中を走る。足音を聞く余裕もない。本当に追われているのかどうかもわからない。とにかく逃げ続けることしかできない。
 私は暗闇の向こう、細い路地を抜けた角にオレンジ色の光を見つけると、迷わずドアを開けて飛び込んだ。

 バン!と、激しく閉まるドアの音。
「……いらっしゃい、ませー」と、戸惑い気味の声。
 私は息を切らしながら、あたりを見回す。
 木目調の壁と床。いくつかのテーブルと椅子。同じくらいの数の観葉植物。正面にカウンター。それらが温かい色の照明でで照らされている。カウンターの向こうに、背の高い男の人が一人立っている。白いシャツと黒のエプロン。手には皿と布巾。短めの髪。さっぱりとした印象を与える顔が、不審げな眼差しを向けてくる。
「お一人様ですか?」
「あ……はい」呼吸を整えながら答える。
「お好きな席にどうぞ」
 コーヒーの香りが遅れてやってきた。カウンターの奥には、キッチンも見える。どうやらここは喫茶店らしい。
 そっと振り返る。ドアのある面は全てガラス張りだ。ガラスの向こうの通りは先ほどよりは明るく、車も走っている。にもかかわらず、先ほどまで私を追ってきた影が、すぐそこに隠れているような感覚があった。
 客のいない店内を奥に進み、できるだけ窓から離れたところを選んだ。テーブルは木でできていて、ところどころごつごつしている。白い布製の椅子はふかふかで、座ると体が沈み込んだ。
 マスターなのだろう、男の人がおしぼりと水を出してくれる。私はメニューをざっと見て、「ストレートティー、ホットでお願いします」と言った。

 ゆっくりとキッチンへ入って行くマスターの足音。やかんに水を入れる音。コンロに火をつける音。食器を取り出す音。ここからはキッチンが見えないのに、マスターの一挙一動が目に浮かぶ。
 店内はとても静かだった。多分、BGMがかかっていないせいだろう。それでいて、外を走る車の排気音も聞こえない。ガラスを隔てた向こうとこちらが、違う世界であるかのように。
 ゆっくりと近づいてくる足音。マスターの持っているお盆の上に、ポットが一つと、カップが二つ載っているのが見える。
「お待たせしました」
 なめらかな動きでカップを置き、ポットから紅茶を注ぐ。お茶うけのクッキーがついてきた。
 もう一つのカップを気にしていると、マスターはおもむろにこう言った。「お隣、よろしいですか?」
「……え?」
「あ、いや、お隣といっても、隣の椅子ではなくて」マスターは隣のテーブルの椅子に手をかけた。「ここに座ってもいいですか? もしご迷惑でなければ」
「え、ええ……どうぞ」
 マスターは、自分用のだったらしいコーヒーの入ったカップをテーブルに置き、静かに椅子を引いて座った。
 店内でお茶するマスターってどうなんだろうか……。そんなふうに思いながら、私は目の前のカップを持ち、口を近づける。
 不思議な香りが鼻をくすぐった。
 一口。少し冷えていた唇が、とけるような感覚。口の中を温めながら、ふわりと味が広がり、消えるように喉の奥に流れていく。そしてもういちど、香りが鼻に抜ける。あまり紅茶を飲まない私でも、それが紅茶の香りでないことくらいはわかった。
「驚きましたか?」カップを持ったまま止まっていた私に、マスターが言う。
「これ……紅茶じゃないですよね? 緑茶みたいな……」
「フレーバーティーに近いんです。当店のオリジナルで、名前は“みどり”」
 私は目を閉じ、もう一度香りを確かめるようにして、紅茶を口に含む。木々の香りをのせたそよ風が鼻に抜ける。香りは一瞬で吹き抜けて、あとには心地良いさわやかさだけが残った。まるで、体内で葉をつけた枝が広がっていくような感覚。頭の中は澄んだ空気と静けさで満たされながら、体が温まっていくのが不思議だった。思わず、ふう、と息をつく。
「ちなみにこっちは、オリジナルブレンドの“土”です」
 マスターはそう言うと、コーヒーの入ったカップを傾けた。飲み終わると私と同じように、ふう、と息をついた。

「ところで、いいんですか?」紅茶を半分まで飲んだ私は、マスターに尋ねる。
「ええと、何がです?」
「マスターがこんなところでコーヒー飲んでて……お客さんとか来たら、どうするんです?」
「ああ……いや、実は……」
 マスターはそう言うと、親指でドアを差した。ガラスのドアの外側にプレートがぶら下がっているのが見える。プレートには「OPEN」の文字。
 ……あれ? こちら側がOPENということは……。
「えっ……あ、ごめんなさい、私……」と慌てる私に、「いいんですいいんです」とマスターは笑いながら、両手をひらひらと動かす。
「まだ照明も落としてなかったですし。それに……
  追われていたでしょう?」
「え?」
「いや、あまりにも切羽詰った顔で入ってきたから。ここには、そういう人がよく来るんです。時間に追われて、忙しさに追われて、自分で自分を追い詰めている顔をした人が」
 マスターの言葉を聞きながら、私は、カーブミラーに映る黒い影を思い出していた。あれは何だったのだろうか。私は何に追われていたのか。
「だから、そういう人には“みどり”の紅茶を出すんですよ。深呼吸してもらうために」
 私は黙って、再び紅茶を口に含んだ。包み込まれているような安心感で満たされる。自分の中に、とても優しい気持ちが生まれるのを感じた。

「ごちそう様でした」
 レジでお金を払う。横に置かれた店のカードを手に取る。「Cafe La Foret」と書かれていた。「“森”って意味です」とマスターが言う。
 ドアの前まで来て、外を見る。夜の通りは影だらけで、すぐそこにあの闇色の塊が潜んでいるような気がした。けれど、もう恐ろしくはない。
「ありがとうございました」とマスター。
「いえ、こちらこそ」
 私はドアを開ける。それまで遮られていた音が、店内に流れ込んできた。一歩、外に踏み出す。
「それでは」
「それでは、また、どこかで」
 私は、店のカードの地図を見てから歩き始める。店の前の通りを少し歩けば、知っている道に出そうだ。
 しばらく歩いてから振り返ると、もう店の明かりは消えていた。

 数日後、もう一度「Cafe La Foret」を訪ねた。深呼吸したとき私の中に生まれた優しい気持ちは、忙しい毎日の中であっという間に薄くなってしまったからだ。
 また“みどり”の紅茶を飲みたい。もし飲めなかったとしても、あの“森”の中で深呼吸するだけで十分だった。
 しかし、訪れた先に“森”はなかった。
 店があった場所は廃墟のようだった。明かりのない闇の中、カウンターだけが寂しげに残されている。テーブルも椅子も観葉植物もない。マスターもいない。ガラスのドアには、あのプレートもかかっていない。
 私はしばらくの間、その場に茫然と立ち尽くしていた。

 それから、私は探し続けている。“森”という名前の喫茶店を。“みどり”の紅茶と“土”のコーヒーを。
 日々は相変わらずせわしくて、時間に追われてばかりの毎日が続いている。
 そんな中で、妙な癖がついた。
 正体不明の影に追われて、暗闇に入り込みそうになったときには、
 息を吸って、深く、深く吸って、
 ゆっくりと吐く。
 そうすると、自分の中で、葉をつけた枝が少しだけ広がって、少しだけ優しい気持ちが湧いてくるのだった。
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    A and C

     雨の中、俺は一軒の家のドアの前に立っている。右手には傘、左手にはコンビニの袋。ドアに埋め込まれたカメラのレンズが、きゅいん、と小さく唸りながら俺に焦点を合わせる。
    「来たぞ」と言うと「ふーい、いま開けるー」とへろへろな声がマイクを通して返ってくる。がちゃり、と鍵のあく音。中に入り、玄関で靴を脱ぐと、薄暗い廊下を奥へと進んでいく。
    「うひひひー」
     奇声の主はリビングの床に座り込んでいた。茶色い髪が跳ねている小さな頭。目と耳を覆う、無骨なヘッドギア。だらしなく開いた口。体は長いコードでぐるぐる巻きになっていて、コードの一端はヘッドギアに、もう一端は黒い箱に繋がれていた。
     俺はそんな状態のこの家の主、シーの様子を見て、はあぁ、と深い溜め息を吐く。
    「おい、口閉じろ、みっともない」
    「あー、エーちゃん、来たのねー…………うへへ」
    「うへへ、じゃねーよ。人が来た時くらいこれ外せよ」
     彼女の頭からヘッドギアを引き剥がそうとする。
    「なっ、ちょっと、まっ……いやあー、だめー」
    「何が、だめー、だ! 脱がされてるみたいな声上げてんじゃねーよ」
    「脱がせてるじゃん」
    「服は脱がせてないだろうが! というかお前、そもそも服着てないだろ。服を着ろ、服を!」
    「えー、なんだよ今更ー。寝間着のままじゃだめなのかよー」
    「それは寝間着とは言わん。下着という」
    「いいじゃないかよー下着でもー」
    「……ええと、乙女の恥じらいとかそういう類のもの、ないんですか?」
    「そんなものは、とっくの昔に捨ててきた!!」
    「偉そうに言うな! 今からでも探して拾って来い!」
    「めんどくさい」
    「あんたそれでも女の子ですか!」
    「あーもーうるさいなー。いいじゃんよ、エーちゃんも乙女の下着姿が見れて嬉しいだろ? しかもコードまで絡まってるサービスつきだよ? 興奮するだろ?」
    「俺にそういう趣味はない。……ただ、正直……」
    「正直、興奮する?」
    「いつものことだから、なんとも思わなくなってきた」
    「見飽きてるーっ?」
     そういうところでショックは受けるらしい。シーはこっちを向いて、口を大きく開いた。「口閉じろって」と再度忠告するが、無駄。
     コンビニで買ってきた菓子類をテーブルの上に置く。匂いを嗅ぎつけたのか、ずるずると床を這いながら寄ってくるシー。「あー、キャラメルコーンだー。うれしいなー、うへへへー」と怪しげな笑みを浮かべる。お前は犬か。
     窓の外では雨がさらさらと降っている。庭木は葉の色を深くし、塀のコンクリートをかたつむりが這っている。ていうか、カーテンとか閉めないあたり、本気で恥じらいとか持ち合わせてないようだ。

    「それでその、下着姿の乙女は今、どこをハッキング中なわけ?」
    「ええときょうはー……ストーカーさんのとこを逆ファ○クする予定なのさ。今はそのじゅんびちゅー」
    「自称乙女がフ○ック言うな。……ストーカーですか。そりゃまたねちっこい仕事を引き受けたもんだな」
    「のんのん、仕事ぢゃないのよ今回は。あたしの友達の、かわいーいオンナノコが被害くらってんの」
    「身内か……恨み買って、逆探知されて、復讐されないようにお気をつけて」
    「大丈夫。変な気を起こさないよーに、バッサリ根元から断ち切ってやるつもり。テッテーテキにね」
     俺はその台詞にぞっとする。以前、俺と大喧嘩したときの記憶が蘇る。腹を立てたシーは、俺の端末および世間体および精神安定をまさしく「テッテーテキに」ぶち壊したのだ。
     その日、俺は何も知らずに自分のノート型端末を起動させた。すると画面上に現れたのは、AV、AV、AV、AVの嵐。10以上のビデオが、隣の隣の家まで聞こえるような爆音で繰り返し再生されやがった。しかも本体の電源ボタンがONのままロックされているというタチの悪さ。おかげで強制終了できず、コンセントを抜いてもバッテリで約三時間はそのままだ(そのときほど長時間持続バッテリを呪ったことはない)。さらには、スピーカーの端子はおろかヘッドフォンの差込口まで塞がれているという周到さ。結局、泣く泣く物理的に端末を強制停止させるまでの数十分間、喘ぎ声の大合唱は続いた。
     その後、俺は精神的に死に瀕しながらシーに謝った。彼女は微笑みながら言った。
    「こんなの、まだ序の口だから。やろうと思えば、もっとテッテーテキにできるんだからね」
     謝り倒してなんとか許してもらえたが、俺の心に刻まれたトラウマと、近所の人の白い目は、一年近く経った今でも残っている。

    「ただねー、やっかいなのがねー」シーがキャラメルコーンの包みを開けながら、言う。「相手も元は、ランクAなんだよね」
     ランクというは、ハッカーの格付けのことだ。基本的にS・A・B・C・Dの五段階。そっち方面に疎い俺は、誰が始めたのか、誰が更新しているのかまったく知らない。ただ、シーによれば、ある程度スキルのある人は知っていて、上位のやつらについては公的機関もチェックしているんだとか。
    「元は? じゃ、今は?」
    「一途な思いのあまりDさんになっちった」ぽりぽり。
     ちなみに、五段階のうち最もスキルが低いのはランクCらしい。ランクDには、クラッカーと呼ばれる者たち、オンラインオフライン関係なく犯罪に手を染めた、あるいは手を貸した者たちが属する。
    「何したんだ?」
    「ガイシャの家のシステムの乗っ取り」もしゃもしゃ。
    「……っていうと、つまり?」
    「つまりね」ぴっと人差し指を立てる。もぐもぐ。「ホームセキュリティを介して、彼女の日常を監視・盗聴してるってこと」
    「……スキルのあるストーカーって……やだな……」
    「“恋とは、他者に対する強烈な支配欲・独占欲の表れである”って、名言だよねえ」ぽりぽり。
    「俺はそんな一方的な恋は嫌いだ」
    「おー。言うじゃん、少年よ」もしゃもしゃ。もぐもぐ。
    「誰が少年だ。というかさっきから食べすぎだろ」
    「ほんとぉにうまぁいよねえ、キャラメルコーン。一度でいいからキャラメルコーンでお腹いっぱいになってみたい」
    「ついこの前、食べ過ぎて気持ち悪くなったくせに何を言う。そんなに食ってると、太るぞ」
    「おおっと少年、そんな台詞吐くと女に嫌われるぞー」
    「だから誰が少年だ」俺はそう言いながら、Cの体のラインを見てしまう。太っているわけでも痩せているわけでもない。バランスが取れていて健康的な印象がある。
    「それにねえ」とCが言う。「あたしは食ったら食った分だけ、ここを動かすから大丈夫っす」くるくる、と自分の頭に向けて人差し指を回す。「脳は一番エネルギーを消費するのさ」
    「そんなもんかね」
    「そうそう。そんな感じで、ストーカーのねぐらに侵入、およびシステムのっとり完了」
    「話しながらやってたのか」というか、ハッキングする片手間に話していたというのが本当のところだろう。
    「うん……さすが元Aだけあって、ちょっとひねくれた鍵つけてた。さーて、どうやって壊そうかな」ぽりぽり。
     俺はコーヒーを淹れるためにキッチンへ向かう。背後で、「くけけけ、あがけーもがけー」という悪魔の雄たけびが聞こえる。俺はもがき苦しむストーカーを想像して、文字通り4バイトだけ同情した。

     しかし、俺がコーヒーの入ったカップを片手に戻ってきたとき、それは起こった。
    「うっ……」
     小さく唸る声。さっきまで悪魔の笑みを浮かべていた口が、開かれたままで固まっている。
    「どうした?」
    「うそ」と呟くシーの、ヘッドギアの黒いグラスが透けて見える。そこにびっしりと並んだ英数字が、物凄い速度で書き換えられていく。「まさか……こいつは……ダミー?」
    「おい、どうしたんだ?」
    「ちょっと、黙ってて」シーの口調から余裕が消える。始めて見るシーの表情。額を伝う冷や汗。めまぐるしく動き回る、グラスの向こうの真剣な瞳。
     ヘッドギアに繋がれたコードの先の本体で、ファンが唸る。何が起こっているのか全くわからないが、言いようのない緊迫した雰囲気が伝わってくる。そんな中でも俺は、コーヒーを持ったままその場に立ち尽くすことしかできない。
    「あっ!」
    「え」
     突然、ガラス戸の向こうの景色が歪み始めた。ノイズが走り、時折ジジッという音を発する。
    「これ……まさか、スクリーンか?」場違いな俺の台詞と、
    「く……入って、くるな……」押しつぶされそうなシーの声。
     さらに室内灯までもが点滅する。ブザーが鳴る。タイマーが鳴る。レンジが回り始める。コンロのスイッチが入る。エアコンが熱風を吐き出す。自動掃除機が走り回る。
     突如として、家電製品たちの祭が開かれたかのような光景。喧騒。その中で、わけがわからず茫然と立ち尽くす俺。
    「どうなってるんだよ?!」
    「うるさ……い、だまっ……て……」

    「ああっ!」
     バチッ

     叫びと同時に、端末本体から大きな音が走る。見開かれたシーの目の前で、あっという間に消去されていく文字。ヘッドギアのディスプレイの光が消え、ガラス戸のスクリーンから光が消え、室内灯の光も消えた。さっきまで賑やかだった電化製品の音も消えていた。部屋が、暗闇と静寂で満たされていく。
    「停電……?」
    「違うよ」シーの刺々しい声が響く。「のっとられたんだ、この家のシステムを」心底悔しそうだ。
    「え? お前が?」
    「うるさいなー、あたしだって信じられないんだよ」そう言いながら、シーはぺったぺったと足音を立てた。どうやら移動しているらしい。「わかってるのは、ランクAのストーカーはダミーだってこと。相手は何から何まで、ランクAレベルに見せかけて罠を張ってた」
    「ってことは、鍵も?」
    「そう。侵入させて、カウンター食らわせるために。相手はたぶん、ランクAどころじゃなくて、SS級」
    「ダブルエス!? そんなランク、あったか?」
    「公式じゃないけど、ランクSの中で、よりスキルの高いひとたちを区別してるの」
    「で、どうするんだよ」
    「こうなっちゃったら、できることは……」
    「主電源を切る、とかですか?」
     どこからともなく発せられた声が、俺とシーの会話を切る。切り取られた空白を埋める、一瞬の沈黙。
    「だれだ?」
    「初めまして、エーさん。ぼくは、ランクAのストーカーです」
    「ふざけるな」
    「おっと……シーさんには、ずいぶん嫌われてしまったようですね。まあ、自分の城がのっとられては、仕方がないことかもしれませんが……」
    「くっ……」ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。「……何の用? わざわざスピーカーを起動させたのは、あたしを挑発するためじゃないんでしょ? どっちにしろ、さっさと消えて欲しいんだけど」口調は冷静でありながら、怒りを隠そうとしない。
    「ええ、もちろんです」謎の声はどこか嬉しそうな響きを帯びていた。「ただ、誤解を正して、忠告させて頂きたいと思っただけでして」
    「さっさと言えってば」
    「せっかちな方ですね……では……」
     声の主はそこで言葉を切った。
     目が少しずつ慣れてきたのか、スピーカーの起動ランプに照らされているからか、シーの輪郭がぼんやりと見える。彼女は微動だにせず、真っ直ぐスピーカーに向かっていた。
    「一つ、私はストーカーではありません。彼女……“ルマ”の訴えは、真っ赤な嘘です」
     “ルマ”というのが依頼人の名前――おそらくハンドルネーム――らしい。しばらくして、シーが「へえ」と気のない返事をした。「それで、忠告ってのは?」
    「私に関わるのはやめた方がいい」
    「ふん、誰がお前なんかに好き好んで関わるもんか」
    「いえ、ランクSの“チェイサー”は相当に執念深いですから、きっと仕返ししようとするはずです。違いますか?」
     シーは答えない。
    「仕返しなど考えないで頂きたい。私について調べることもしないで頂きたい。そして今後、ルマに協力しないで頂きたい」
    「それは忠告じゃなくて、脅しって言うんじゃないの?」
    「受け取り方は自由です」
    「彼女に何する気?」
    「何もしませんよ。今までだって何もしていません……というかむしろ、被害を受けたのはこちらなのですよ」ため息混じりに声が続ける。「彼女は私の素性を知りたがっていた。そして私のダミーを突き止めた。そこで、表向きあなたに依頼する形をとって、私に攻撃をしかけた」
     おい、ちょっと待て。「それって、つまり……」思わず声を上げる俺。
    「あなたは彼女に利用されてたんですよ。そして彼女はその様子を見ていた。私の出方をね。今は私が遮断しましたが、接続していたログもあります。必要なら……」
    「ふ……ふふ……」声を遮るように、笑い出すシー。「あははははっ」
    「……何がおかしいのですか?」
    「何がも何も……ルマがあたしを利用しようとしていたことくらい、最初から知ってるのに」くっくっ、と笑いながら言う。「そんなことを大げさに……バカみたいだね」
    「……なるほど……もともとそういう間柄でしたか」
    「悪いけどさ」シーの口調が弾む。またぺったぺったと足音が聞こえる。暗闇を歩く彼女の顔は、きっと悪魔的笑みを浮かべてるに違いない。「あんたが何を言おうと、あたしはあんたが何者か突き止めて、今日のお返しするから。テッテーテキにね。じゃ、そういうことで、消えて」
     ガチッ、と重くて硬い音が響く。シーが何かを動かしたらしい。
    「……やはり説得は無理ですか……」はあ、またもため息をつく声。
    「やっぱりダメか」シーが舌打ちする。
    「ああ……主電源を切ったんですか」
    「いつの間にうちの回線いじったのか知らないけど、やめてくれる?」
    「いじったなんてそんな人聞きの悪い……とか言いながら、いじったんですけどね。まあいいじゃないですか、それくらい。
     ただし、何らかの動きがあった場合は、今回のように甘くは行きませんよ。徹底的に壊させて頂きますので、そのつもりで」
    「人の台詞パクるなよ」
    「まあまあ。それでは……なかなか面白い時間をありがとうございました」
    「さっさと消えろ」
    「ふふ……二度とお会いしないことを願ってますよ」

     スピーカーの起動ランプが消える。同時に、室内灯がともり、ガラス戸のスクリーンに窓の外の風景が映される。
     シーは、部屋の隅にある配電盤の前に立っていた。ヘッドギアは外していて、どこか猫を思わせる鋭い目はじっと一点を睨んでいる。視線の先には、開かれたガラス戸と、一羽の鳥。
     鳥の頭に埋め込まれたカメラのレンズが、キュイ、と焦点を合わせる。
     一つ目の鳥はシーに向かって「チチチ」と鳴くと、空へと飛び立っていった。シーは黙ったまま、その姿を目で追っていた。
    「……ところで、エーちゃん」シーが緊張を解き、口調を戻して言う。
    「ん?」俺は少し安心しながら応じる。
    「あのさー……」そう言いながら、椅子の後ろにしゃがみこむ。なにやら様子が変だ。
     そして、とても言いにくそうに言う。
    「戸……閉めてくれないかなー、なんて」
    「は? 自分で閉めればいいじゃん」
    「や、だってさ、あたし、こんなかっこだし」
     なるほど。ぴんときた俺は、からかうように言ってやる。「なにもじもじしてんだよ。恥じらいは捨てたんだろ?」
    「……バカー! 閉めろったら、閉めろー!」
    「わははは、っておい! まて、物を投げるな!」
     飛んでくるクッションを避けながら俺は窓に近づく。「まったく……」と呟いて外を見ると、塀の向こうに蜂の巣型集合住宅の無数の窓が。塀のこちら側に庭はなかった。俺は、三回目の訪問にして初めてそのことを知った。

     窓を閉めた俺は、テーブルの上のコーヒーカップを手に取る。すっかり冷めてしまったコーヒーをすする。
     あれ、俺、ミルクなんて入れたっけ……何か、白く濁って……?
     と、「あ……エーちゃん」とシーの間の抜けた声。コーヒーを口に含んだまま、彼女の指差す先を見る。
     テーブルの上に、白い液体の落ちた後。どこか絵の具のような……いや、これは……。そして気づけば、カップのふちにもそれはこびりついていた。
    「ぶっ」と反射的に俺はコーヒーを吹く。
    「うわー! 何してんの、汚いなー!」
    「げえええええっ! あのアホ鳥!」

     こうして俺と彼女は、それぞれの理由で、謎の声の主への復讐を誓う。
     そのときの俺たちは、自分たちがある事件に巻き込まれていることなど、知る由もなかった。
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      | 一話完結 | comments(0) |

      なんとなく

      「あちー」
       彼女が言う。たしかに暑い。いくらなんでも最近、夏が暑すぎると思う。
       青い空、白い雲、燃える太陽。強すぎる日光は、歩いている僕らの肌だけでなく、地面に落ちた影まで焦げ付かせるようだ。太陽、お前、自己主張しすぎ。「俺だよ! 俺、太陽!!」そんなことは見れば分かるっての。
       ああ、あの雲がソフトクリームだったらいいのに。そう思って、以前も同じことを言い、彼女に「溶けるって」と突っ込まれたことを思い出した。溶ける前に食べればいいじゃないか。
       色々思ってから、僕も同じ台詞を口にする。
      「あちー」
      「寒いね」と言い合えば温かくなるかもしれないが、暑いと言い合っても涼しくはならない。マイナスかけるマイナスはプラスでも、プラスかけるプラスはうっとうしいほどのプラスなのだ。

      「あちー」
       懲りもせず繰り返す彼女。だから暑いって言っても暑くなるだけだって。そうは思えど既に言う気力なし。
       そんなに暑いなら外に出ずにクーラーの効いた部屋の中でごろごろしていればいい、と思われるかもしれない。少なくとも僕はそう思う。しかも外に出た理由が「なんとなく」ならなおさらだ。
       ことの発端は彼女のこの一言。
      「よし、外に行こう」
       よって現在、二人で汗だくになりながら灼熱の荒野を必死に歩く。特に目的地もなくぶらぶらと。「ぶらぶらと」なんて気楽なものじゃなく、むしろ「ふらふらと」の方が、朦朧とする意識でさまよってるようでふさわしいかもしれない。最初のうちは二人で色々と話しながら歩いていたけれど、この暑さによって会話も少なくなり、ついには「あちー」と言い合うだけになってしまった。
       しかし今思い出すと、ことの発端のあれは鬼のような一言だ。いやもうむしろ彼女が鬼だ。そもそもなにが「よし」なんだろーか。天気予報の最高気温が40℃近い日の午後2時に、外に行くことを「よし」とするなんて、どうかしてる。
      「なんか今、すごく失礼なことを思ってない?」
      「いやべつに……」
       目をそらす。恐るべし女の勘。まさか読心術?

      「喉かわいたー」
       悲鳴を上げるように彼女が言い、最寄の自販機の前で立ち止まって動かなくなった。「買わないの?」と聞くが、反応がない。どれにするか真剣に考えているらしい。この暑さの中でそんなふうに悩めることに敬意すら抱く。その半分は呆れでできているけれど。
       彼女の小さな指はレモン水とお茶で最後まで悩んだ挙句(交互に指差しながら歌まで歌った)、レモン水に落ち着いたらしい。僕は最初から決めていた、カラダバランス飲料を。ブタが歌いながら踊るCMのだ。
       建物の影でペットボトルのキャップをあける。口をつけて、飲む。ごくごくと喉がなる。
       飲み終わって「ふー」と息を吐くと、まだ隣でこくこくと飲んでいる。一度にたくさん飲むとおなか冷やすよ。
      「ふは」
       汗を拭く。拭いたそばから噴き出してきて、また拭く。持ってきたタオルがすぐにべたべたになってしまう。
       並んでペットボトルを傾ける僕らの前を、車が通り過ぎていく。
       蝉の鳴き声。
       どこかから、風鈴の音。

       思えば、僕と彼女で何かをするときはいつも「なんとなく」だ。
       昨日の夕飯でほうれん草のおひたしに和風ドレッシングをかけたときも(あれは失敗だった)、一週間前に少し怪しげな老舗の定食屋に入ったときも(あれも微妙だった)、真冬に海に行ったときも。特に理由も計画も目的もなく。彼女が言い出すこともあれば、僕が言い出すこともある。ただ決まって、実行するのは二人一緒だ。どちらか一方がおひたしに醤油をかけたりはしない。
       なんというかこれは遊びのようなものだと思う。ルールは簡単、どちらかが思いつきで提案して二人で実行する。改めて考えてみるとちょっと不思議だけれど、僕と彼女はあくまで自然に、日常的にこの遊びをしている。
       僕らはよく、同じ部屋にいながらにして、それぞれが好きなことをして過ごすことがある。例えば、僕は絵を描いて彼女は本を読む、みたいな。もともとお互いに個人主義で、好きなことをしている時は周りが見えなくなるほど熱中することもあって、三時間くらい全く会話がなかったりする。
       そういう関係の中で、この遊びには「二人でいることを意識する」みたいな意味があるのかもしれない。そう考えると「なんとなく」の行為も少し重要な気がしてくる。たかが「なんとなく」、されど「なんとなく」。
       そういえば、一緒にいるようになったのも「なんとなく」だったような。気づいたら一緒にいて、それが楽だから今も一緒にいる。

      「じゃ、行こっか」
       彼女の声に僕の思考は途切れる。
       僕は言う。
      「帰りはさ、川沿いの並木道を通ろうよ」
      「賛成」

       そして僕らはまた、なんとなく歩き始める。


      * * *
      初出:2007.9.4.
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        木を植える人々

         朝。
         家を出て地下鉄の駅まで急ぎ足で向かう。蝉の声。まだ8時だというのに気温は30℃近くある。いくらクールビズでも暑いものは暑い。今朝のニュースによれば、北極の氷が予測値を40年ほど上回る勢いで溶けているらしい。
         階段を下り、改札口でカードをかざす。流れるように行進していく人の群れに混ざる。確かに今年の夏は暑い。誰かが熱中症で亡くなったというニュースを何度も聞いた気がする。クーラーなしではやっていけない。
         扉が閉まります、次の電車をご利用ください、という駅員の声。隙間なく詰め込まれる人間たち。
        「悪循環の入り口だ」
         満員電車の中で彼の声が聞こえる。

         
        「クーラーをつけるだろ、そうするとCO2が排出される。それで温暖化が進んで、また夏が暑くなる。だからまたクーラーをつける。こうして夏は毎年暑くなっていくわけだ」
        「例えが極端じゃない?」
        「でも結局は、そういうもんじゃね?」
         日差しが骨まで焼きそうな夏の日、僕と彼は汗をかきながら歩いていた。場所は街中の国立大学、グラウンドの横の道だ。
         フェンスの向こうではラグビー部の部員たちが練習をしている。彼らには悪いが、見ているだけで体感温度と不快指数が上がりそうだった。
        「そうするともう、あとは悪化の一途をたどる。いったん悪循環に陥ると、抜け出すのが難しい」
         蝉の声。グラウンドの反対側の林から聞こえてくる。命が懸かっているとは言え、主張しすぎだ。
         話の発端は僕が「今度下宿先に遊びに行っていいか」と聞いたことだった。彼は下宿先で扇風機一台と団扇で頑張っているらしく、「暑くていいなら構わないけど」と答えたのだ。
        「だから俺はクーラーつけねえの。ま、部屋が北向きだから、南向きの部屋よりは涼しいんだけど」
        「でもこんだけ暑くてクーラーつけなかったら、死ぬぞ」
        「大丈夫だって、水分はとってるから」
         言いながらペットボトルのお茶を取り出して飲む。ついでにタオルで汗を拭く。
        「ただ、確かにそろそろやばいかもしれん。この前、夜中に起きたら眩暈して、“俺、死ぬかも”って思ったもん。今年は大丈夫でも、来年は駄目かもな」
        「死ぬかもしれないくらい辛いなら、クーラーつけろよ」

        「最近、“環境に優しい”みたいなテーマを掲げた番組、増えてきてる気がしね?」
        「そうか? N●Kとか?」
         うだる暑さの中、半ば朦朧とした意識で会話する。だんだんお互いに何を話してるかわからなくなってきた。
         彼はそれでもどんどん喋る。僕も答える。
        「いや、BS」
        「BSか、うちはBS入ってないよ」クーラーつけないのにBSは見れるというのは突っ込むところなのかもしれないが、暑いのでスルー。
        「俺、バラエティとか苦手でさ。静かな風景を映す番組とかばっか見るんだよ」
        「なんだ、『世界遺産』とかか」
        「あー確かにあれ好き。あと、『世界の車窓から』的な列車旅行番組とか」
        「渋いなー」
         渋いのかどうかよくわからないがとりあえず言ってみる。ハンカチを取り出して汗を拭く。タオル持って来ればよかった。
        「それでさ、最近、“ロハス”がどうのこうのって番組がやってんだよ」
        「ロハスってなに」
        「えーと、あれだ、あれ……ごくっごくっ」お茶。「……っふー……」タオルで汗を拭く。
        「確か、利益じゃなくて、環境とか健康とかを最優先するライフスタイルのこと、だったと思う」
        「へえ。いいじゃん」僕は軽い気持ちで言う。
        「まあな。その考え方自体は嫌いじゃないんだよ。ただ、それが流行っぽく取り上げられてるところが嫌なんだよ、俺は」
        「そうなのかー」もはや相槌にも覇気がない。
        「それにさ、車とか運転してるんだぜ。いくらハイブリッドカーでもよ、それで“私、環境に優しいことしてます”って顔してんの見てたら、だんだん腹立ってきてさ」
        「うんうん」
        「本当に環境に優しいことしたいなら、車乗るなよな。車乗るなら、それが環境に優しくないってことを自覚するべきだ、もっと申し訳なさそうに乗るべきだな」
        「うーん……」
         風が、汗で濡れた肌を撫でる。ゆでだこになっていた頭が少し冷える気がした。
        「でもさあ」と僕は言ってみる。「それ言い出したらきりないじゃん」
        「何が?」彼が少し意外そうな顔をする。
        「だってそんなこと言ったら、毎日使ってる電気も、毎日食べてる飯も、飲み水も、服も、何もかもが環境に影響を与えてるじゃんか。でも人間はそれがないと生きていけない。それを突き詰めてったら、人間がいなくなるのが一番いいってことになる」
        「そりゃ、妥協しなきゃいけないのはわかってるけどよ……。なんつーか、そういう矛盾があるってことを知らないで、ただ“環境を守るのはいいことだ”“環境に優しいのはいいことだ”みたいなことを言ってるのが、俺は嫌いなんだよ」
        「なるほど」

         蝉の声が大きくなってくる。僕ら二人はグラウンド脇を抜け、学内を東西に走る並木道に出た。青々と茂った葉が、黄緑色に光りながら風に揺れている。蝉の主張のあまりの激しさに辟易とするが、木陰に入るとさっきよりも断然涼しい。
        「おー、涼しい」
        「気持ちいいね」
        「木は偉大だよなー」大学設立当時から立っているらしい並木を見上げる。「俺、思うんだけどさ」
         風。木陰。蝉の声。笑いながら言う彼。
        「一人一人が、一本ずつ木を植えたら、今より少しはマシになるんじゃねーかな」


         満員電車の扉が開く。どっと降りる人の群れに混じり、僕も降りる。
         あの夏の日以来、何かにつけ彼の言葉を思い出す。
         だが当時の僕は彼の言葉を鼻で笑っていた。そんな夢のようなことはできっこない。実際、生活のために何人分もの木を切ったり焼いたりしている人もいるのだから。そう思っていた。
         だから彼の卒業後の進路を聞いて驚いた。
        「俺は、木を植えに行く」
         それからもう四年たつ。最近、彼からの連絡はあまりない。アフリカに飛んで砂漠の緑化運動に参加するという話は聞いた。今もどこかの空の下、灼熱の日差しに焼かれながら木を植えているのだろう。
         僕はと言えば、三年勤めた某IT企業を辞め、今の会社に転職した。ビルや工場の緑化、たまに並木や公園なんかの計画にも携わる会社だ。そこの営業として働いている。様々な企業を回って建物の屋上に木を植えていく時、僕は彼の言っていた「妥協」を思い出す。
         実際、木を植えることができるスペースは限られている。強度の問題から緑化が不可能なビルもある。そもそも、大都会の真ん中で猫の額ほどしかないビルの屋上を緑化しても、高が知れているんじゃないか。どちらかと言えば、彼のように広大な砂漠を緑化する方がよっぽど効果的だろう。(もちろんそれには莫大な労力がかかるのだが。)そんなふうに考えてしまうこともある。
         でも、やらないよりはやった方がいい。少しずつでも増やしていくことが大切なんだ。それぞれができることをやればいいんだ。

         立つ場所は違えど、僕らはお互いに自分のできることをやっている。そう思える。
         僕と彼は今日も、木を植えている。

         
        * * *
        初出:2007.8.27.
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          ユーレイとカキ氷

           少し蒸し暑い夏の夜、僕はTシャツと短パン、足にサンダルという格好で玄関を出た。タバコを吸う、ただそれだけのために。
           最近、僕と父は嫌煙家の母と妹によって迫害されている。今日は唯一の喫煙スペースであるベランダが洗濯物に占領されていた。そこで吸うとまたやかましく言われそうなので、外に出たのだ。
           階段を降りて集合ポストの前を過ぎ、道路に出る。蒸し暑い空気の中で時折吹く風が心地いい。マンションの前でもタバコは吸えるのだが、なんとなくそのまま歩くことにした。たまには散歩もいいかもしれない。

           しばらく歩いて川に出る。それなりに川幅があり、両岸の土手は桜並木と道が長く続いている。朝や夕方には犬を連れて散歩する人やウォーキングまたはランニングする人なんかで賑わっているのだが、さすがに夜11時ともなると人影はほとんどない。そういえば中学時代はよくここを歩いたなぁ、などと思いながら土手の上の道に入る。舗装されていない地面が足に優しい。
           川を右手にしばらく歩き、汗をかいてきたところで土手を降りる。斜面を覆う芝生の上に座る。タバコとライターと携帯灰皿を取り出す。一本出して、くわえて、火をつけて。
           ……ふう。
           ぼんやりと目の前の風景を眺める。
           川は、夜の底でさらさらと流れている。その向こうの土手には誰もいない。土手の向こうに立っている人家や8階建てくらいのマンションには、まだたくさんの明かりが灯っている。街はまだ明るい。
           かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。その隣の橋を車がいくつも走っている。曇っている空を見上げると、雲の切れ目にちらほらと星が覗いていた。夜空に向かって煙を吐く。
           すると、
          「タバコクサイ」
           すぐ近くで声がした。
          「え?」
           びっくりして声のした方を見ると、女の子が一人座っていた。ほとんど僕の隣と言ってもいいくらい近くに。さっきまで誰もいなかったはずなのに。
           さらに驚いたのは、その女の子の格好だった。赤い色の着物が白い肌に映えている。小さ目の足には下駄。……今日、近所で祭とかあったっけ?
          「おにーさん」
          「はい?」
          「タバコクサイってば」
          「あ、すんません」
           持っていた吸いかけのタバコを携帯灰皿でもみ消した。
          「でもまぁ、実はにおいとかわかんないんだけどね」
           彼女は僕が携帯灰皿を仕舞うのと同時に言った。なんだそりゃ。消さなくてもよかったってことかい。
          「鼻つまってるの? 夏風邪?」
           僕が少ししかめっ面で言うと、女の子はぷっと吹き出した。「あはは、まあ、そんなよーなもんかな」
           その様子が余りに楽しそうだったので、僕も軽く笑う。で、そのまま凍りつく。
          「というかね、私」
           彼女の透けるような白い肌が、本当に透けていた。
          「ユーレイなんだ」

          「……冗談? 今、そういうの流行ってるとか?」透けているのに冗談も何もない。
          「いやまじで」へらへら笑いながら普通に返す女の子。
          「……じゃ、どこらへんが“そんなよーなもん”なのさ」
          「え、いや、それはまあ、ノリで」
           ノリかよ!
          「それで、なんで僕の前に?」
          「いや、だって、そばでタバコ吸うから。タバコ嫌いなんだもん」
          「においわかんないのに?」
          「嫌いなものは嫌いなんだって」
           どうやら幽霊にも嫌煙家はいるらしい。世の中どこもかしこも禁煙スペースになってるけど、まさか死後の世界までそうなのか。喫煙者には死後の安らぎすら与えられないのか。
          「おにーさんは、ここにタバコ吸いにきたの?」
          「あー、うん、家の中で吸えなくてね。家族が君みたくタバコ嫌いだから」
          「じゃ、悪いことしちゃったねー」
          「いやいやこちらこそ……ところで、どこら辺まで禁煙なの?」
          「え? えーと……まぁ、この辺りじゃなけりゃいいよ」
           あ、そうなんだ。じゃあ、後でもう少し向こうに行って吸うか……などと思っていると、女の子が何気なく川岸を指差した。そして囁くような声で言う。
          「私の死に場所、そこだから」
           わあ、そうなんだ……。
           どんよりとした、気まずい空気があたりにのしかかる。どう答えていいものかわからずに、しばらく沈黙が続いた。川の流れる音と、車の走る音と、一度だけ犬がほえる声が聞こえた。
           沈黙を破ったのは女の子の方だった。
          「私ね、」
           女の子は軽く目を伏せて言う。
          「私ね、絶対にユーレイになんかなるもんかって思ってた。だってお父さんもお母さんもユーレイになって、すごくつまらなさそうだったから」
           女の子は生前も色々と大変だったようだ。
          「だから私、死ぬもんかって思ってた。死んでも絶対幽霊になんかなるもんかって」
           女の子はそう言いながら、下駄を履いた足で転がっていた石を蹴った。幽霊にも足はある。下駄が石に当たっても音はしないけれど。
          「でもね、結局ユーレイになっちゃった」
           風が吹く。汗で湿った肌に心地いい。目の前の女の子の髪は揺れない。
          「私、橋から落ちたの。事故だったんだけどね。で、溺れてる間に、死にたくない、ユーレイになりたくないってずっと思ってた。そしたら……その思いが強すぎてユーレイになっちゃった」
          「うそ」いくらなんでもそりゃないだろう。
          「いやまじで」
           女の子は僕に向かってへらへら、と笑ってから、また視線を落とした。
          「馬鹿だよねー。いくら死にたくないって思う人でも、最後には楽になってきて、後腐れなく逝けるらしいのに。“ユーレイになりたくない”って余計な思いがあったからユーレイになっちゃうなんてさ」
           そしてまた沈黙。
           かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。そろそろ終電だろうか。
           夜空を見上げる。
          「お」
          「え?」
          「晴れてる」
          「あ、星だー」
           女の子は白くて細い腕を伸ばして、星を指差す。
          「夏の大三角形」
          「どれが織姫と、彦星?」
          「青白いのと、赤っぽいの」
          「ってことは、その間に天の川が流れてるんだ?」
          「そう。ここら辺じゃ、明るくって見えないけど」
           二人で星空を見上げる。思わずタバコが吸いたくなるけれど、我慢する。
          「天の川って星でできてるんだよね」
          「うん」
          「……ってことはさ、落ちても溺れないよねー。私、天の川に行ってみたいな」
           風が吹く。さわさわさわ、と草が揺れる。それが僕の中で反響して、なんだか落ち着かない。さわさわの先端に小さな火がついて、もやもやと煙まで立ちこめ始めた。
          「あのさ」
           先端の火をもみ消すような思いで、声を出す。
          「たぶんあれだよ、心残りってやつだよ。よくあるじゃん。現世に心残りがあるから昇天できないとかなんとか。だから、何かしたいことをすればいいんだって」
           自分でもよくわからないまま、一気にまくし立てていた。女の子は少し驚いたような顔で僕を見ている。僕は構わず聞く。
          「今、何か、したいことは?」
          「えっ、えーと……」
           ……そういえば、幽霊の心残りが恋をすることって話があったなぁ……何の漫画だっけ。万が一そうなったらどうしたものか……願いを叶えてあげる流れだしなあ……などとくだらないことを考える。
          「あ、あれ」
           ぱっと顔を上げる女の子。
          「れん……」
           え、まじですか。吹き抜ける風、凍りつく笑顔。
          「練乳のかかったカキ氷が食べたい」
           …………。
          「……ぷっ……あははははは」
          「なんで笑うのー? ほんとに食べたいんだもん」
          「わかったわかった、買ってくるよ」
           まだいくらか笑いながら彼女を見る。
           しかし、そこにはもう誰もいなかった。透ける白い肌も、赤い着物も、下駄を履いた足もない。ただ、土手の草が風に揺られているだけだった。
           僕は不思議な気分のままで立ち上がった。狐につままれたような感じ、っていうのはこういう時に使うんだろうか。

           コンビニの袋を持って戻ってきても、女の子は現れなかった。仕方がないので、袋からカップ入りのカキ氷を取り出して、さっき女の子が座っていた辺りに置いた。ついでに買ってきていた僕の分を袋から取り出し、フタをあける。そこでふと思う。
          「つーか僕、なにやってんだろ……本人いないのに」
           僕はカキ氷を袋に戻し、ほとんど無意識のうちにタバコとライターと携帯灰皿を取り出した。一本出して、くわえて、火をつけて。
           ……ふう。
           すると、
           まだろくに吸ってもいないタバコの火が、ふっと消えた。
          「あ」
           僕は女の子が座っていた辺りを見る。いつの間にか、カキ氷がカップごとなくなっていた。
          「あいつ……」
           残されたのは、僕と、消えたタバコと、コンビニのビニール袋。袋の中は空っぽだ。
          「僕の分まで持って行きやがった」


           僕は空を見上げる。
           夏の大三角、織姫と彦星の間。さっきまで見えなかった天の川が、ぼんやりと見えたような気がした。


          * * *
          初出:2007.8.16
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