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「滑り落ちていくならこういう夜が良い」と君が言う。「明日の訪れる隙もない闇夜が」
 故障した時計の進み具合が気になる。三歩進んで一歩戻り、四歩進んで一歩戻り、五歩進んで六歩戻り、という具合で法則性が見出せない。頭痛と、眩暈と、絡みつく憂鬱。悪趣味な色の錠剤はそれらを脳の底へ沈殿させ、私は上澄みを掬って口へ運び、穏やかに意識を失う。
「私はね」透き通る甘い声。「外に出る時にかかった負荷で裂けて、そこから少しずつ崩れているの」
 片目を閉じた猫が月にぶら下がっている。私は笑う。漂うような浮遊感、指先を撫でるくすぐったさ、押し寄せる心地よさ。見えない岸に君が立っている、生前と変わらぬ微笑を浮かべて立っている。そこに何が? ここには何も。死? 死など在りはしない、生が在りはしないのと同様に。あなたは忘れてしまった? 私は、何を忘れているんだろう。苦しそうな顔をしている、何も苦しむことなどないというのに。君は私に手を差し伸べる。
 手を繋ぐ。瞬間、先に進んだ秒針が、物凄いスピードで逆回転していく。私は流され、君から遠ざかる。君の口から、目じりから、鼻から赤い液体がどろりと溢れ出す。逆再生された君の名前が喉で渦を巻く。変わらない微笑が真っ赤に溶けてなくなり、私は叫び声を飲み込んだ。
 目が覚めると寝間着がびっしょりと濡れていて、ひどい頭痛と嘔吐感に襲われた。急いでトイレに駆け込んで吐く。黄色い胃液に混じって、長い髪の毛の束が出てきた。胃の中の全てを吐き終えた後で、私は自分の体を呪い、涙ながらに水を流すレバーを引いた。トイレを出て洗面台の前に立つ。鏡に映った自分の顔は、涙と鼻水と吐瀉物でどろどろになっていて汚らしい。それをみて私は自分が生きていることを再確認した。

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    土曜日

     そういえば今日は土曜日だった。正午近く、蒸し暑さで目を覚ます。のっぺりとした意識で牛乳をコップに注ぎ、昨日の夜コンビニで買ったコロッケパンをかじる。素朴な味。案外、すきだ。
     梅雨の中休みらしく、久々に太陽の顔を拝めたので、ここぞとばかり溜まり溜まった洗濯物を洗濯機に食わせる。そのまま部屋の掃除をする。掃除機をかけ終わったところで、洗濯機が「ごふっ」と苦しそうな声を発した。さすがに無理をさせたか、すまん。と謝りながら洗濯物を取り出し、干す。干す。干す。
     それが終ったら、溜まりに溜まった食器類を洗う。いつも片付けようと思いながらできない、流しのゴミも片付ける。
     それも終って、ばふ、とベッドの上に倒れこむ。妙な達成感と、窓を抜ける風が心地よい。布団もそろそろ干さなきゃあ……まあいっか今週は。
     ふと思い立って起き上がる。コンポの再生ボタンを押して、静かな水面に雫が落ちて、波紋が広がっていくのを聞く。「梅」と書いてあるけど、どうしてもお寺をイメージしてしまうお香をたく。くらりくらり流れる煙を眺めていたら、チャイムが鳴った。インターホンについているカメラが相方の姿を映し出す。なぜか横揺れしていた。
    「ちょっと待って」と言って、慌てて着替える。すっぴんだけど、化粧する時間もない、仕方ない。ばたばたと玄関に向かい、鍵を開ける。こちらがノブに手を伸ばす前にドアが開かれた。
    「や」
     寝癖が直ってないのか、少しぼさっとした髪の相方が立っていた。右手には本屋のビニール袋、左手にはきれいな白い箱。美味しそうな予感がする。
    「ぐっどたいみんぐ」
    「あ、片付け終わった?」
    「そういうことは来る前に聞いてよ」
    「まあまあ。みやげ持ってきたから、これで許してくださいな」

     また紅茶をいれて、相方が買ってきたレモンケーキをつつく。酸っぱすぎず甘すぎず、この繊細なバランスと柔らかな舌触りが……なんて語る暇もないくらい、美味しい。堪能する。
     無邪気な笑顔を浮かべてプレステ2のコントローラを握る相方。そのまま、得体の知れない塊を転がして周囲のものを巻き込むのに熱中し始めた。私はベッドにもたれ、ビニール袋からマンガを勝手に取り出す。浅野いにおの『ソラニン』。
     ほのかに「梅」の香りが鼻をくすぐる。「かたまりだまっしー♪」という耳につくBGMの中、巻き込まれる人々の悲鳴。相方の「けけけけけけ」という危ない笑い声がかぶさる。見ると、十数メートルの塊に家が巻き込まれていた。昔、『AKIRA』の大友さんがこんなアニメ作ってなかったっけ。もちろんもっと触手っぽかったけど。
     しばしマンガを読みふける。
    『ソラニン』の2巻を泣きかけながら読み終え、『おやすみプンプン』に突入。どうやら相方の中で浅野いにおブームが到来しているらしい。

    「んあ」
    『プンプン』3巻を読み終え、私はのびをした。
    「ああ今日もよく巻き込み、よく転がした」
     相方が満足そうに息をつく。そんなにストレスが溜まってたんだろうか。
    「……って、マンガ勝手に読んでるし」
    「気づくの遅いっすよ」
    「そうっすか。まあいいけど」
     そして私の隣に腰掛け、『ソラニン』を手に取る。「『プンプン』の4巻はないの?」と聞くと、「まだ出てないよ」とのことだった。
    「そっかあ」と言って、ぼんやりする。読み終えて満足しているんだけど、一度に詰め込んだせいか、ぼんやりしてしまう。
     こぽこぽと水の湧く音が聞こえる。そういえばコンポをつけっぱなしにしていた。少しだけ散る飛沫と、柔らかい波紋。ころころとこぼれる雫。窓の外からは子供たちの笑い声が飛び込んでくる。車の通り過ぎる音。
     空は、晴れ。涼しい風が吹いた。傍らの相方の髪が揺れる。染めてないけど少しだけ茶色くて、つやがある。ぼさぼさのままにしておくのはもったいない。ということで髪をすく。特に嫌がる様子もないので、許しを得たと思っておく。
     相方が『ソラニン』の2巻に移ったあたりで、本格的に暇になってきた。
     相方の体温を感じる。午後の気だるさに身を任せて、頭を肩に置いてみる。反応はない。じーっと見ていると、目が合った。
    「なに」
    「なんでもないよ。見てるだけ」
    「気になるじゃん」
    「気にするなー」
     なんだかんだ言いながら、結局マンガに視線を戻す相方。許しを得たと思って、横顔を眺める。普段はぱっちりとした目が、マンガを読むために伏せられている。長いまつげ。小さめの鼻と口。可愛らしく膨らんだほっぺた。いいなー。堪能する。
     視線を横にずらすと、オレンジ色のマニキュアが目に止まった。顔色を伺いながら、そっと手を伸ばす。と、足に触れた瞬間、ぱっと逃げ、返しで蹴られた。
    「くすぐったい」
    「なんでもないよ」
    「なんでもなくないよ。くすぐったいんだっての」
     なんだかんだ言いながら、またマンガに戻った。足の甲を撫で続けても反応はない。許しを得たと思っておく。そのまま少しずつ、足首から、ふくらはぎへ。白いワンピースのすそをひらひらと弄んでから、こっそり侵入。ひざをとばして、ももに触れる。布の感触。ちぇー、おじさんがっかりだー。スパッツは嫌いなのです、やっぱり足は生だよ生足最高。それにしても羨ましいくらい細いなあ。その細さを分けてくれ。
     目が合った。
     しばらく見つめ合う。まっすぐに見つめられていたら、なんかよくわからないけど恥ずかしくなった。
    「なに照れてんの」
    「いや、あはは」と笑った隙に、手を掴まれて、ぽいされた。
    「エロイの禁止!」
    「ええ〜」
    「ええ〜じゃない」
    「ひまー」
    「暇ならエロイことしていいんかい」
    「うん」
     すばやく抱きつき、体重をかけて横に倒れこむ。
    「ちょっと……」
    「押し倒しちゃった」
     にや、と笑ってから、ゆっくり顔を近づける。
     と、そのとき、ぴっと相方の人差し指が私の唇に押し付けられた。
    「めっ!」
     強い口調に、思わず退いてしまう。
     きっ、と鋭い視線を向けてくる。『ソラニン』のライブシーンで感動したんだろう、少し涙で濡れていた。その表情と「めっ!」にやられてしまったので、とりあえず今日はそこまでにしておいた。その動画をお気に入りに保存して、脳内でエンドレスリピートする。

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      | 一話完結 | comments(0) |

       よく晴れた昼間、僕は車で出かけていた。行き先は自宅の裏にある寺だ。徒歩5分かからない距離を車で行く必要があるとは思えないが、僕は全く気にしていなかった。門の横の道に車を停めて敷地に足を踏み入れる。
       幼いころのことを思い出す。よく、お寺の姉弟と近所の子たちで集まって遊んだ。どろけい、色おに、ポコペン、缶けり……お寺の家で遊んだこともあったが、外で遊んだ記憶の方が鮮明に残っている。それにしても、子供のころはどうしてあんなに怖いもの知らずだったのだろう。お寺の敷地内を、それこそ門の裏や生け垣の裏、墓場からさらにその奥の森まで、なんの躊躇もなく走り回っていた。今の僕には到底不可能だ。そんなことを思いながら敷地内を歩く。
       一体、ここに何をしに来たのだろうか。
       寺の奥、通用門がある場所まで来た。通用門のくせに普段は戸が開かないため、単なる行き止まりと化している。
       かすかに唸るような音。戸の上の柱を中心に、何匹もの蜂が弧を描いて飛んでいる。そういえば、僕が車を停めたのはちょうどこの戸の向こうではなかったか。車に乗るときには気をつけなければ。

       もう帰ろう、と思って踵を返す。結局、何をしに来たのかは最後までわからなかった。途中、お寺の入口に立つ石垣に目が止まった。粗く削り出した花崗岩が組み合わさってできていて、手触りはごつごつしている。今の僕の背丈と同じくらいの高さで、昔はよじ登ったり上から飛び下りたりして遊んだ。
       あれはいつのことだったか、遊びに飽きた僕はこの石垣にもたれて空を眺めていた。ゆっくりと流れていく雲。Tシャツ越しの、ひやりとした石の温度。からだを冷やしながら少しずつ内部に入り込み、こころまでも冷えて固まっていく。彩度を失う視界。僕はまるで、何万年という時を旅してきた石のようにそこにあった。
       モノクロの視界の中、ふいにオレンジ色がちらついた。石の呪縛から解き放たれ、少しだけ首を曲げる。視線の先にいたものを見て、思わず声を上げそうになった。
       アシナガバチだった。Tシャツの胸のあたりにとまっている。僕を石だと思ったのだろうか。だが、僕のからだはもう熱を取り戻し始めていた。彼は怪訝そうに首を上げて、自分がいる場所を確認するかのように僕を見た。黒い複眼と目が合う。じっとこちらを見据え、ぴくりとも動かない。僕も動くことができなかった。風が僕の髪の毛を揺らし、彼の羽を少しだけ震わせる。
       石と同化していたときよりもはるかに長い時間が流れた。やがて僕は緊張感に耐え切れなくなり、ふっと息を吐いた。するとアシナガバチはそっとシャツから飛び立った。見捨てられたような絶望と、別れを告げた後のような寂しさが、少しずつ残った。

       車に戻ると、なぜか車内で大量のハチが飛び回っていた。窓を開けていたわけでもないのに、どうしたことだろう。このままでは車に乗ることもできない。どうしようか。
       車の周りにはハチは飛んでいないようだ。僕は思い切って車に近づき、少しだけドアを開けて、すばやく後ずさった。ハチたちが唸りながら次々に外へ飛び出す。ミツバチのような小さいものから、おそらくスズメバチだろう大きいものまで、様々な種類のハチたちが一団となっている。それらは煙のように車のドアから立ち上ると、先ほど見た巣のほうへ飛んでいった。
       そろそろ全て出ていっただろうか。恐る恐る車に近づく。ドアノブに手をかけ、思い切り開く。ハチは一匹も見当たらない。
       よし、と思ってさらに近づいたときだった。車の奥のほうから、大きなオレンジ色の物体が物凄いスピードで僕の頭めがけて飛んできたのだ。
       ビキン!
       こめかみに何かかたいものが当たった感触があり、ノイズの混じった金属音のようなものが鳴った。からだから力が抜けていき、車のそばに倒れる。痛みは全くない。それなのに、全身が言うことをきかない。さらに、目の前が白く霞み出した。
       輪郭も色も曖昧になっていく中で、オレンジ色と黒の縞模様がゆっくりと宙を舞った。

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        | 一話完結 | comments(0) |

         うしなわれる。
         実感の錯覚は遠のき、ゼリー状の日々をかき分けてさまよう。線香花火の明日など、どこにあるというのか。論理的思考を放棄して、感覚とか感性とかいうあやふやなものに追いすがる。「ほら、海だ」。ビルの海底に移ろう季節などありはしない。足掻け、という声が耳もとで。片道切符を手のひらで強く握り締め、誰もいない場所まで行く。右腕が五本と左腕が四本、足が三本と尻尾が二本、なのに頭は一つだけ。いくらあなたが醜い姿でも日の目を見なければ恐怖ではない。さあ、足掻け。さあ。

        *

         どこにでもいる。
         君は彼を引きずりながら歩く。歪んだ腕、折れた脚、傾いだ首。肌は青黒いあざと擦り傷と赤く腫れ上がった打撲傷で埋め尽くされ、血と胃液と汚物と、そういったものの混ざり合ったどす黒い液体が地面にこすり付けられる。君は彼を引きずりながら、はきはきと元気よく歩く。誰かと楽しいそうに笑い合う。美味いものを食べ、安らかに眠る。君は気づいていないつもりでいるのか。振り向け。足元を見ろ。苦痛に呻く声を聞け。君はそこに平べったい感情しか抱かないつもりか。

        *

         ここにはない。
         緑色の草の海上を滑りゆく白い綿毛、人気無き夜の灯の下で照らされ降る雨線、金色の憂鬱と橙の安堵、そういう美味なるものを片端から喰らう。飲み込んで吐き飲み込んでは吐き、美味なるものは唾液に溶け、なおも止まず新たな味覚探し徘徊。飽いてばかりで満ちることなく、喰らう行為を顧みぬため過ちに気づくこともなく。この怪物に色は無い。形も無ければ音も無い。

         
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          布団カバーといくじなし

           インターホンが鳴る。Kだった。左手に近所のホームセンターのビニール袋を提げている。
          「よう」と不機嫌そうな顔で言うK。
          「や」と無理に笑顔を作る僕。「とりあえず、上がってよ」
          「……部屋は大丈夫なんだろうな」
          「大丈夫って、何が?」
          「片付けてあるんだろうな」
          「あー……ほとんど、できてない」
          「おい。さっきメールで今から片付けるって言っただろーが」
          「うん。いや、実を言うと昨日、くたくたで帰って布団の上で力尽きたんだ」
          「それがどうした」
          「風呂に入る気力もなかった」
          「ほお、それで?」
          「で、メールで起こされた」
          「“起こしてもらった”だろ」
          「……起こしてもらって、メール返して、風呂に入ってないこと思い出して、まず風呂に」
           バシッ! 袋が顔に当たる。けっこう痛い。
          「片付けるために時間くれって言ったのは誰だ。俺がどれだけ待ったと思ってやがる」
          「えーと、三十分くらい?」
           ぶん! 間一髪、空を切る右ストレート。速さがしゃれになってない。
          「わかった、悪かった、ほんとにごめん」必死に頭を下げる。
          「わかればいい」と言いながら、目が怒ったままだ。
           Kはブーツを脱ぎ、低姿勢の僕を押しのけるようにして部屋に向かう。入り口の戸を開けて立ち止まる。
          「……掃除機出せ」
          「へい」
           なんだか毎回恒例になりそうだな、と自分のだらしなさを棚に上げながら、畳の上を埋め尽くすCDやら本やらを踏まないようにして進み、押入れから掃除機を取り出す。

           CDと本の山に立ち向かおうとしたまさにその時、
          「おい」とKの声。
          「はい?」
          「まずこれ片付けろ」布団を指差す。どうやら、手っ取り早く足場を作りたいらしい。
          「ってか、まだカバー破れたままなのかよ」
          「あー、うん。買いに行くの面倒くさくて」
          「……ほれ」Kが、持っていた袋を僕に投げた。驚きながらもキャッチする。
          「え?」
          「あけてみろ」
           そこには、布団カバーが入っていた。
          「……なにこれ」
          「新しい布団カバーだ」
          「それは見ればわかる」
          「待ってる間に買った。やるよ」
          「そういうことじゃなくて……なんで、よりによってピンクで花柄なんだ」
          「なんか文句があるのか? 待たされてた間にわざわざ買ってきてやって、しかもタダでやると言ってるのに」
          「……いえ、ないです」
           これからずっと可愛らしい布団で眠れというのか。これが寝坊した罰だというのか。なんて恐ろしい罰だ。
          「じゃあほら、さっさと換えろよ。破れてるの取るぞ」
          「いや、あとで自分でやるよ」遠まわしに拒否してみる。
          「なんでだ。せっかく買ったんだから、つけたとこを見たい」無駄だった。頑固だった。
           てきぱきと破れたカバーをはがしていく。さっきまでのむすっとした表情から一変して、明らかにニヤニヤしている。なんて奴だ。
          「にしても、ほんとにぼろぼろだな、これ。どういう使い方したんだよ」
          「戸で何回か挟んだんだ」
          「ひでー奴だな。もっと大切にしろよ」
          「それでもずいぶん長かったぞ。十年以上は使ったはずだ」
          「ふーん」カバーをはがし終わって、たたみ始めるK。だが、すぐに手を止めて顔をしかめた。
          「このカバー、なんか臭いぞ」
          「あー……最近洗濯してなかったからなあ」
          「げっ、どれくらい洗ってないんだよ」
          「かれこれ……半年以上」
           ばふっ、と顔面に布団カバーが飛んできた。
          「あとはお前がやれ」
           たしかに臭い。さっきまでこれにくるまっていた自分も同じにおいを放ってないか、少し不安になった。

           とりあえず後で捨てるということで、カバーを邪魔にならないところに置く。そのまま布団をたたもうと前かがみになる。
           かしゃ、という音と共に、こめかみに何かが当たった。強く押し付けられるそれを横目で確認する。なんでKがこんなものを持ってるんだ。
          「……おい、何の真似だ」
          「見ての通りだ。動けば撃つ」
           嘘だ。このままだと、動かなくても撃たれる。Kの人差し指が、引き金を引きたくてうずうずしているのが分かった。なすすべもなく、ゆっくり両手を上げる。なかなかつらい体勢だ。
          「冗談だろ? 俺たちは仲間じゃなかったのか」軽くひきつった笑みを浮かべながら言う。
          「はっ! 寝坊しておいてよく言う」どうやらまだ根に持っているらしい。
          「……お前は丸腰の人間を撃つのか」
          「まあ、運がなかったと思え」
           情け容赦ない言葉。冷酷極まりない眼差しで僕を見下すK。うーん、こいつ本当にこういうの似合うよな、などと考えた矢先、
           ブシュッ
           飛沫が散った。
          「うっわ! 本当にかけるし!」慌てて服の袖で顔を拭う。「普通かけるか? しかも顔に」
          「除菌と消臭してやったんだ、ありがたく思え」
          「思えるか! 消臭するのは布だろ。ほら、ちゃんと“顔にかけないで下さい”って書いてあるし。目に入ったらどうするんだ」
          「“目に入った場合は、水で十分洗い流して下さい”」
          「読むな!」
          「うるさいな……。寝坊したくせに偉そうに。何様のつもりだ」
           くっ……いつまで責められなければいけないんだ。全面的に僕が悪いとはいえ、そろそろしつこいだろう。
           ところで、と僕はKが持っているファブリーズを指差しながら言う。
          「それ、どこから出したんだ?」
          「転がってた」
           しまった、僕としたことが。こういった凶器は、Kの手の届かないところにしまっておかなければ。

           結局、布団カバーはつけずに掃除を再開した。「掃除する前につけたら、せっかくの新品がホコリを被っちゃうだろ」という説得が功を奏したのだ。内心ほっとしつつ、花柄のカバーは封印しようと決心する。Kには悪いが、あとでもっとシンプルなものを買ってこよう。薄い緑とかいいかもしれない。
           布団を片付け、部屋の中の物を隅にまとめ、軽く掃除機をかける。
          「ふう……ま、こんなとこでいいだろ」
           掃除機をかけ終わったKが、前にも聞いたような台詞を言った。掃除機を片付ける。換気のために開けた窓から冷たい風が入り込んできて、少し寒い。
          「悪かったな、また掃除してもらっちゃって」
          「まったくだ。来るたびに掃除してるぞ」苦笑いしつつ言うK。
          「さて……どうしようか。そもそも、どうしてうちに来るって話になったんだっけ?」
          「暇だったからだ」
          「暇つぶしかよ……」それなら寝坊しても大目に見てくれればいいのに、と思っても言わない。代わりに、「ま、とりあえず茶でも飲むか」と言って部屋を出た。後ろから「コーヒーがいい。ブラックで」と声が追ってきた。
           やかんを火にかける。カップ二つにインスタントコーヒーを入れて湯が沸くのを待つ。そういえばココナッツサブレがあったな。沸いたお湯をカップに注ぐ。一つはブラック、もう一つは砂糖2杯とミルクを入れて。カップ二つとココナッツサブレを持って部屋に戻る。
           戸を開けると、目の前にピンクのお花畑が、いや、花柄の布団が現れた。
           ショックでひざが折れ、危うくコーヒーをこぼしかける。なんだ、僕の部屋で何が起こっているんだ。女の子の部屋ならともかく、成人男子の部屋にあってはいけないものがあるぞ。カバーで見るのと実際布団につけて見るのとでは衝撃が段違いだ。瀕死状態になりつつも、机を目指す。指が震える。落ち着け自分。なんとか机にたどり着き、ゆっくりとコーヒーを置く。
           おそるおそる振り返ると、Kが布団にくるまって寝息を立てていた。
           なんなんだ、この状況は。なんでこいつここで寝てるんだ? それからこれ、今や全く以前の面影を残してないけど、僕の布団だよな? 僕がコーヒーをいれている間に、気づかれないよう布団カバーを替えたのか。おそるべき手際。ああもう何を感心してるんだ僕は。
           ……とりあえず、起こすか。
           少しためらいながらも、「おーい」と声をかけてみる。
          「ん……」Kの口から声がこぼれる。起きるか?「んん……」
           ごろん。寝返り。
           起きない。それどころか、寝息が少し大きくなった。どうやら熟睡しているようだ。思わず、じいっと非難の目を向ける。
           そうしていて、ふと、Kの寝顔を初めて見ていることに気づいた。どこか子供っぽくて可愛らしく見えるのは、無防備だからだろうか。いつも少し鋭い目が、閉じられているからだろうか。それとも布団カバーのせいだろうか。ピンク色も花柄も意外なほど似合っている。普段は黒っぽい服ばかり着ているけど、こんなに似合うんだし、もっと明るい色の服を着たらいいのに。そんなことを考えて、なぜか落ち着かない気分になった。なんか、脈が速い。
           ごまかすように、もう一度「おーい」と声をかけてみる。
          「コーヒー冷めるぞー」
          「ん……」起きない。
          「起きろー」彼女の顔に人差し指を近づける。ふに、と柔らかいほっぺたの感触。
          「んんー……」眉が寄る。お、起きるか?
           ごろん。やはり起きない。
           ああもう。どうしろっていうんだ。
           ゆっくり顔を近づける。彼女がもぞもぞと動く。長い髪の毛が揺れ、ふわ、といい匂いが鼻をくすぐった。頭がぼうっとする。閉じられたまぶた、長いまつげ。吐息。小さめの唇。
           髪のかかった耳に、口を寄せてささやく。
          「起きないと、襲うぞー」




          「できるもんならやってみろ」

          「!」
           思わず顔を離す。目を薄く開いてみせるK。固まっている僕に向かって、「ふっ」と笑う。
          「起きてたのかよ、ってか、鼻で笑うんじゃ……」
          「いくじなし」
           ぼっと何かに火がついた、ような気がした。
           彼女は、上目づかいでぺろっと舌を出して、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そしてまた目を閉じる。本当に眠っているのか、眠った振りをしているのかわからない。
           顔が熱い。頬も耳も見えないのに、赤くなっているのがわかる。どうやらさっきから燃えているのは僕の顔面らしい。
           彼女から視線を外す。テーブルに置いたコーヒーに行き着く。口に含むと、甘ったるい味が広がった。もうすっかり冷めてしまっていた。

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