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    シナモン、ダメ、ゼッタイ

    「それ、シナモン?」
     Tさんがドーナツを指差して言った。
     私はTさんの下宿先に遊びに来ている。目の前の小さなテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ、お皿が二つ、それから私がミスドで買ってきたドーナツの箱が置かれていた。箱の中にはポン・デ・リングとフレンチクルーラーとハニーチュロ、それからたっぷりとシナモンが振りかけられたシナモンクルーラー。
     箱を開けたその瞬間から、Tさんの様子がどこかおかしい。背が高くて声が大きめの彼女は、頼りになるお姉さんタイプで、大学のサークルでもみんなのまとめ役になることが多い。いつも明るくて、ついさっきまでだって豪快に笑っていた。それが、今や見事に顔が固まっている。
    「まさかTさん、シナモンだめなの?」
    「う、ううん、別に、そんなことないけど」
     ふるふるふるふる、と必要以上に首を振ったあと、困ったように目をそらす。そんな彼女を見て、私のドSアンテナがぴんと反応した。ほほう左様でございますか。別にだめなわけじゃないと、そうおっしゃるわけですね。
    「そっか、よかった、苦手だったらどうしようかと思った」胸に手を当て、わざとらしく安堵の息をついてみる。Tさんの肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
     するとTさんは突然、開いた左手をぶんぶんと左右に振り始めた。それから早口でまくし立てる。「でも、Mちゃんシナモン好きでしょ? だからシナモンはMちゃんにあげるよ。私、フレンチクルーラーとハニーチュロが食べたいな」
     いやまてそこ。逃げようとしたって、そうは問屋が卸しません。
    「そんな、遠慮しなくてもいいじゃない」素早く紙ナプをかけて、ドーナツをつまむ。用意してあったお皿の上にフレンチクルーラーとシナモンを並べて、Tさんの前にすすっと寄せる。
    「ほら、どうぞ召し上がれ」
     Tさんはシナモンをにらんだまま硬直していた。もしもこれがマンガだったら、頭に青い縦線引いて、影濃い目、冷や汗だらだらに違いない。私は自分の分をお皿に載せて、箱をテーブルの端に置いた。まだ動かないTさんに、「どうしたの? 食べないの?」と追い討ちをかけてみる。すると彼女は「ご……」と呻いてうつむいた。
    「ご?」
    「ごめん、無理! 嘘つきましたシナモンは無理です、においだけでもダメなのに食べるとかぜったい無理!」
     涙目で訴えてくる。いつもの朗らかな笑顔とのギャップもあって、なんとも嗜虐心をそそる。思っていたことが顔に出たのか、「Mちゃん、なんでニヤニヤしてるの」と恨めしそうに見られた。「ニヤニヤなんてしてないよ。気のせいだよ」とごまかす。
    「仕方ないなぁ」と言いながらシナモンを私のお皿に移す。ハニーチュロをTさんのお皿に置こうとしたら、こぼれたシナモンが気になるのか「置かないで!」と叫ばれた。
    「そんなにだめなの?」
    「うん」
    「ってことは、あれも? あの、京都の」
    「八ツ橋? だめ、ぜったいだめ。売ってるとこの前通るだけでも頭痛がする」
    「え、そんなに?」
    「うん」
     私がシナモンクルーラーをつまむと、Tさんは目を見開き、口をカッと開けて、威嚇する猫みたいな顔をした。構わず一口かじる。あとずさるTさん。じっと見つめてみる。
    「こっち見てニヤニヤしながら食べるの、怖いって!」
    「そんな、怖いなんて、ひどい! 別に何も企んでなんていないのに!」
    「ちょ、な、何を企んでるの」
    「だから企んでなんていないってば。ふふふふ」
    「嘘つけー! 笑いが怪しすぎるわー!」
     からかいながらドーナツを食べ終わる。Tさんは少し離れたところでこちらをガン見して、フーフーと息を吐いている。「ほら、もう怖いのはなくなったから、フレンチクルーラー食べなよ」と言うと、まだ警戒しながらも、こくりと頷いて近づいてくる。小さい犬か猫みたいだ。私の中で「可愛い!」という思いと「いじめたい!」という思いが絡まりながら暴走する。口元が緩みそうになるのを必死にこらえる。
     すると、ふいに人差し指を突きつけられた。びっくりして、思わず後ろにのけぞる。まさか、悟られた?
    「な、なに?」
    「唇の端、ついてる」
     指で拭うと、指の腹に茶色い粉がついた。
     チェック厳しいよTさん。そう言いかけたとき、私の脳内で渦巻いていた感情やら欲望やらが高く打ち上げられ、空中で弾け、光り輝いた。
     目の前では、Tさんが安心してフレンチクルーラーにかぶりついている。目を細めてドーナツを食む姿もまた愛らしい。Tさんと、自分の人差し指を交互に見る。私の口はもう、にんまりとした笑みを隠していなかった。彼女はそのことに気づかない。私は無駄のない動作で、光り輝いた思いつきを実行に移す。
     ぴと。
     Tさんの唇に触れる、私の人差し指を中心にして、時間が止まる。ゆっくり、ゆっくり、くるり、くるりと、世界が回る。にんまりと笑みを浮かべる私。何が起こったかわからなくて、食べかけのフレンチクルーラーをつまんだまま、とぼけたような表情の彼女。つながっている人差し指と唇、見つめ合う二人の瞳。くるり、くるり。私はさらに人差し指を突き出す。ゆっくり、ゆっくりと。半開きになっていたTさんの口に、するりと差し込まれる。かたい歯のさらに奥、やわらかく濡れた舌。その感触にうっとりする。
    「にゃああ!」
     Tさんの上げた叫び声で我に返る。永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。崩れ落ちるTさん。私はそれを見てようやく、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。
     そばアレルギーの人はそばを食べると呼吸困難に陥ってしまうというのを聞いたことがある。Tさんもそうなってしまったのかもしれない。私は思わず呼吸と脈拍を確かめた。幸い、息はしていた。脈は少し速いような気がする。
    「ごめんね、Tさん、ごめんね」
     私はTさんのそばに座ると、膝の上に彼女の頭をのせた。Tさんは「ううー」と苦しそうに唸っている。
     下唇にまだ少しシナモンが残っていたので、紙ナプで拭う。唇は、押し付けられた紙に引っ張られてから、ぷるんと震えた。私の人差し指に、さっきまでの感触が蘇る。私の中で、悪魔が再び目をさます。
     この状態なら唇奪えるんじゃない?
     顔がほてっていくのを感じる。でも、それってTさんに止めを刺す行為に他ならないのでは? そうなったら、きっと私は歯止めが効かなくなっちゃうだろう。理性は抵抗する。そんなことは関係ないでしょ、だって見てよこのぷるぷるの美味しそうな唇を。これを目の前にして口にしないなんておかしいんじゃないの。悪魔が囁く。
     でも、でも、ともじもじしていたら、いつの間にか意識を取り戻していたTさんに白い目で見られた。
    「Mちゃん、今、なに考えてたの」
    「ううん、なにも考えてなんかいないよ、ふふふふふ」
    「だからその怪しい笑いをやめれー!」
     もうやだ、と半泣きになっているTさんに、私は悶絶する。

    JUGEMテーマ:小説/詩
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