Page: /
少し蒸し暑い夏の夜、僕はTシャツと短パン、足にサンダルという格好で玄関を出た。タバコを吸う、ただそれだけのために。
最近、僕と父は嫌煙家の母と妹によって迫害されている。今日は唯一の喫煙スペースであるベランダが洗濯物に占領されていた。そこで吸うとまたやかましく言われそうなので、外に出たのだ。
階段を降りて集合ポストの前を過ぎ、道路に出る。蒸し暑い空気の中で時折吹く風が心地いい。マンションの前でもタバコは吸えるのだが、なんとなくそのまま歩くことにした。たまには散歩もいいかもしれない。
しばらく歩いて川に出る。それなりに川幅があり、両岸の土手は桜並木と道が長く続いている。朝や夕方には犬を連れて散歩する人やウォーキングまたはランニングする人なんかで賑わっているのだが、さすがに夜11時ともなると人影はほとんどない。そういえば中学時代はよくここを歩いたなぁ、などと思いながら土手の上の道に入る。舗装されていない地面が足に優しい。
川を右手にしばらく歩き、汗をかいてきたところで土手を降りる。斜面を覆う芝生の上に座る。タバコとライターと携帯灰皿を取り出す。一本出して、くわえて、火をつけて。
……ふう。
ぼんやりと目の前の風景を眺める。
川は、夜の底でさらさらと流れている。その向こうの土手には誰もいない。土手の向こうに立っている人家や8階建てくらいのマンションには、まだたくさんの明かりが灯っている。街はまだ明るい。
かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。その隣の橋を車がいくつも走っている。曇っている空を見上げると、雲の切れ目にちらほらと星が覗いていた。夜空に向かって煙を吐く。
すると、
「タバコクサイ」
すぐ近くで声がした。
「え?」
びっくりして声のした方を見ると、女の子が一人座っていた。ほとんど僕の隣と言ってもいいくらい近くに。さっきまで誰もいなかったはずなのに。
さらに驚いたのは、その女の子の格好だった。赤い色の着物が白い肌に映えている。小さ目の足には下駄。……今日、近所で祭とかあったっけ?
「おにーさん」
「はい?」
「タバコクサイってば」
「あ、すんません」
持っていた吸いかけのタバコを携帯灰皿でもみ消した。
「でもまぁ、実はにおいとかわかんないんだけどね」
彼女は僕が携帯灰皿を仕舞うのと同時に言った。なんだそりゃ。消さなくてもよかったってことかい。
「鼻つまってるの? 夏風邪?」
僕が少ししかめっ面で言うと、女の子はぷっと吹き出した。「あはは、まあ、そんなよーなもんかな」
その様子が余りに楽しそうだったので、僕も軽く笑う。で、そのまま凍りつく。
「というかね、私」
彼女の透けるような白い肌が、本当に透けていた。
「ユーレイなんだ」
「……冗談? 今、そういうの流行ってるとか?」透けているのに冗談も何もない。
「いやまじで」へらへら笑いながら普通に返す女の子。
「……じゃ、どこらへんが“そんなよーなもん”なのさ」
「え、いや、それはまあ、ノリで」
ノリかよ!
「それで、なんで僕の前に?」
「いや、だって、そばでタバコ吸うから。タバコ嫌いなんだもん」
「においわかんないのに?」
「嫌いなものは嫌いなんだって」
どうやら幽霊にも嫌煙家はいるらしい。世の中どこもかしこも禁煙スペースになってるけど、まさか死後の世界までそうなのか。喫煙者には死後の安らぎすら与えられないのか。
「おにーさんは、ここにタバコ吸いにきたの?」
「あー、うん、家の中で吸えなくてね。家族が君みたくタバコ嫌いだから」
「じゃ、悪いことしちゃったねー」
「いやいやこちらこそ……ところで、どこら辺まで禁煙なの?」
「え? えーと……まぁ、この辺りじゃなけりゃいいよ」
あ、そうなんだ。じゃあ、後でもう少し向こうに行って吸うか……などと思っていると、女の子が何気なく川岸を指差した。そして囁くような声で言う。
「私の死に場所、そこだから」
わあ、そうなんだ……。
どんよりとした、気まずい空気があたりにのしかかる。どう答えていいものかわからずに、しばらく沈黙が続いた。川の流れる音と、車の走る音と、一度だけ犬がほえる声が聞こえた。
沈黙を破ったのは女の子の方だった。
「私ね、」
女の子は軽く目を伏せて言う。
「私ね、絶対にユーレイになんかなるもんかって思ってた。だってお父さんもお母さんもユーレイになって、すごくつまらなさそうだったから」
女の子は生前も色々と大変だったようだ。
「だから私、死ぬもんかって思ってた。死んでも絶対幽霊になんかなるもんかって」
女の子はそう言いながら、下駄を履いた足で転がっていた石を蹴った。幽霊にも足はある。下駄が石に当たっても音はしないけれど。
「でもね、結局ユーレイになっちゃった」
風が吹く。汗で湿った肌に心地いい。目の前の女の子の髪は揺れない。
「私、橋から落ちたの。事故だったんだけどね。で、溺れてる間に、死にたくない、ユーレイになりたくないってずっと思ってた。そしたら……その思いが強すぎてユーレイになっちゃった」
「うそ」いくらなんでもそりゃないだろう。
「いやまじで」
女の子は僕に向かってへらへら、と笑ってから、また視線を落とした。
「馬鹿だよねー。いくら死にたくないって思う人でも、最後には楽になってきて、後腐れなく逝けるらしいのに。“ユーレイになりたくない”って余計な思いがあったからユーレイになっちゃうなんてさ」
そしてまた沈黙。
かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。そろそろ終電だろうか。
夜空を見上げる。
「お」
「え?」
「晴れてる」
「あ、星だー」
女の子は白くて細い腕を伸ばして、星を指差す。
「夏の大三角形」
「どれが織姫と、彦星?」
「青白いのと、赤っぽいの」
「ってことは、その間に天の川が流れてるんだ?」
「そう。ここら辺じゃ、明るくって見えないけど」
二人で星空を見上げる。思わずタバコが吸いたくなるけれど、我慢する。
「天の川って星でできてるんだよね」
「うん」
「……ってことはさ、落ちても溺れないよねー。私、天の川に行ってみたいな」
風が吹く。さわさわさわ、と草が揺れる。それが僕の中で反響して、なんだか落ち着かない。さわさわの先端に小さな火がついて、もやもやと煙まで立ちこめ始めた。
「あのさ」
先端の火をもみ消すような思いで、声を出す。
「たぶんあれだよ、心残りってやつだよ。よくあるじゃん。現世に心残りがあるから昇天できないとかなんとか。だから、何かしたいことをすればいいんだって」
自分でもよくわからないまま、一気にまくし立てていた。女の子は少し驚いたような顔で僕を見ている。僕は構わず聞く。
「今、何か、したいことは?」
「えっ、えーと……」
……そういえば、幽霊の心残りが恋をすることって話があったなぁ……何の漫画だっけ。万が一そうなったらどうしたものか……願いを叶えてあげる流れだしなあ……などとくだらないことを考える。
「あ、あれ」
ぱっと顔を上げる女の子。
「れん……」
え、まじですか。吹き抜ける風、凍りつく笑顔。
「練乳のかかったカキ氷が食べたい」
…………。
「……ぷっ……あははははは」
「なんで笑うのー? ほんとに食べたいんだもん」
「わかったわかった、買ってくるよ」
まだいくらか笑いながら彼女を見る。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。透ける白い肌も、赤い着物も、下駄を履いた足もない。ただ、土手の草が風に揺られているだけだった。
僕は不思議な気分のままで立ち上がった。狐につままれたような感じ、っていうのはこういう時に使うんだろうか。
コンビニの袋を持って戻ってきても、女の子は現れなかった。仕方がないので、袋からカップ入りのカキ氷を取り出して、さっき女の子が座っていた辺りに置いた。ついでに買ってきていた僕の分を袋から取り出し、フタをあける。そこでふと思う。
「つーか僕、なにやってんだろ……本人いないのに」
僕はカキ氷を袋に戻し、ほとんど無意識のうちにタバコとライターと携帯灰皿を取り出した。一本出して、くわえて、火をつけて。
……ふう。
すると、
まだろくに吸ってもいないタバコの火が、ふっと消えた。
「あ」
僕は女の子が座っていた辺りを見る。いつの間にか、カキ氷がカップごとなくなっていた。
「あいつ……」
残されたのは、僕と、消えたタバコと、コンビニのビニール袋。袋の中は空っぽだ。
「僕の分まで持って行きやがった」
僕は空を見上げる。
夏の大三角、織姫と彦星の間。さっきまで見えなかった天の川が、ぼんやりと見えたような気がした。
* * *
初出:2007.8.16
最近、僕と父は嫌煙家の母と妹によって迫害されている。今日は唯一の喫煙スペースであるベランダが洗濯物に占領されていた。そこで吸うとまたやかましく言われそうなので、外に出たのだ。
階段を降りて集合ポストの前を過ぎ、道路に出る。蒸し暑い空気の中で時折吹く風が心地いい。マンションの前でもタバコは吸えるのだが、なんとなくそのまま歩くことにした。たまには散歩もいいかもしれない。
しばらく歩いて川に出る。それなりに川幅があり、両岸の土手は桜並木と道が長く続いている。朝や夕方には犬を連れて散歩する人やウォーキングまたはランニングする人なんかで賑わっているのだが、さすがに夜11時ともなると人影はほとんどない。そういえば中学時代はよくここを歩いたなぁ、などと思いながら土手の上の道に入る。舗装されていない地面が足に優しい。
川を右手にしばらく歩き、汗をかいてきたところで土手を降りる。斜面を覆う芝生の上に座る。タバコとライターと携帯灰皿を取り出す。一本出して、くわえて、火をつけて。
……ふう。
ぼんやりと目の前の風景を眺める。
川は、夜の底でさらさらと流れている。その向こうの土手には誰もいない。土手の向こうに立っている人家や8階建てくらいのマンションには、まだたくさんの明かりが灯っている。街はまだ明るい。
かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。その隣の橋を車がいくつも走っている。曇っている空を見上げると、雲の切れ目にちらほらと星が覗いていた。夜空に向かって煙を吐く。
すると、
「タバコクサイ」
すぐ近くで声がした。
「え?」
びっくりして声のした方を見ると、女の子が一人座っていた。ほとんど僕の隣と言ってもいいくらい近くに。さっきまで誰もいなかったはずなのに。
さらに驚いたのは、その女の子の格好だった。赤い色の着物が白い肌に映えている。小さ目の足には下駄。……今日、近所で祭とかあったっけ?
「おにーさん」
「はい?」
「タバコクサイってば」
「あ、すんません」
持っていた吸いかけのタバコを携帯灰皿でもみ消した。
「でもまぁ、実はにおいとかわかんないんだけどね」
彼女は僕が携帯灰皿を仕舞うのと同時に言った。なんだそりゃ。消さなくてもよかったってことかい。
「鼻つまってるの? 夏風邪?」
僕が少ししかめっ面で言うと、女の子はぷっと吹き出した。「あはは、まあ、そんなよーなもんかな」
その様子が余りに楽しそうだったので、僕も軽く笑う。で、そのまま凍りつく。
「というかね、私」
彼女の透けるような白い肌が、本当に透けていた。
「ユーレイなんだ」
「……冗談? 今、そういうの流行ってるとか?」透けているのに冗談も何もない。
「いやまじで」へらへら笑いながら普通に返す女の子。
「……じゃ、どこらへんが“そんなよーなもん”なのさ」
「え、いや、それはまあ、ノリで」
ノリかよ!
「それで、なんで僕の前に?」
「いや、だって、そばでタバコ吸うから。タバコ嫌いなんだもん」
「においわかんないのに?」
「嫌いなものは嫌いなんだって」
どうやら幽霊にも嫌煙家はいるらしい。世の中どこもかしこも禁煙スペースになってるけど、まさか死後の世界までそうなのか。喫煙者には死後の安らぎすら与えられないのか。
「おにーさんは、ここにタバコ吸いにきたの?」
「あー、うん、家の中で吸えなくてね。家族が君みたくタバコ嫌いだから」
「じゃ、悪いことしちゃったねー」
「いやいやこちらこそ……ところで、どこら辺まで禁煙なの?」
「え? えーと……まぁ、この辺りじゃなけりゃいいよ」
あ、そうなんだ。じゃあ、後でもう少し向こうに行って吸うか……などと思っていると、女の子が何気なく川岸を指差した。そして囁くような声で言う。
「私の死に場所、そこだから」
わあ、そうなんだ……。
どんよりとした、気まずい空気があたりにのしかかる。どう答えていいものかわからずに、しばらく沈黙が続いた。川の流れる音と、車の走る音と、一度だけ犬がほえる声が聞こえた。
沈黙を破ったのは女の子の方だった。
「私ね、」
女の子は軽く目を伏せて言う。
「私ね、絶対にユーレイになんかなるもんかって思ってた。だってお父さんもお母さんもユーレイになって、すごくつまらなさそうだったから」
女の子は生前も色々と大変だったようだ。
「だから私、死ぬもんかって思ってた。死んでも絶対幽霊になんかなるもんかって」
女の子はそう言いながら、下駄を履いた足で転がっていた石を蹴った。幽霊にも足はある。下駄が石に当たっても音はしないけれど。
「でもね、結局ユーレイになっちゃった」
風が吹く。汗で湿った肌に心地いい。目の前の女の子の髪は揺れない。
「私、橋から落ちたの。事故だったんだけどね。で、溺れてる間に、死にたくない、ユーレイになりたくないってずっと思ってた。そしたら……その思いが強すぎてユーレイになっちゃった」
「うそ」いくらなんでもそりゃないだろう。
「いやまじで」
女の子は僕に向かってへらへら、と笑ってから、また視線を落とした。
「馬鹿だよねー。いくら死にたくないって思う人でも、最後には楽になってきて、後腐れなく逝けるらしいのに。“ユーレイになりたくない”って余計な思いがあったからユーレイになっちゃうなんてさ」
そしてまた沈黙。
かたたんたたんたたんかたたん。列車が少し離れたところにある橋を渡っている。そろそろ終電だろうか。
夜空を見上げる。
「お」
「え?」
「晴れてる」
「あ、星だー」
女の子は白くて細い腕を伸ばして、星を指差す。
「夏の大三角形」
「どれが織姫と、彦星?」
「青白いのと、赤っぽいの」
「ってことは、その間に天の川が流れてるんだ?」
「そう。ここら辺じゃ、明るくって見えないけど」
二人で星空を見上げる。思わずタバコが吸いたくなるけれど、我慢する。
「天の川って星でできてるんだよね」
「うん」
「……ってことはさ、落ちても溺れないよねー。私、天の川に行ってみたいな」
風が吹く。さわさわさわ、と草が揺れる。それが僕の中で反響して、なんだか落ち着かない。さわさわの先端に小さな火がついて、もやもやと煙まで立ちこめ始めた。
「あのさ」
先端の火をもみ消すような思いで、声を出す。
「たぶんあれだよ、心残りってやつだよ。よくあるじゃん。現世に心残りがあるから昇天できないとかなんとか。だから、何かしたいことをすればいいんだって」
自分でもよくわからないまま、一気にまくし立てていた。女の子は少し驚いたような顔で僕を見ている。僕は構わず聞く。
「今、何か、したいことは?」
「えっ、えーと……」
……そういえば、幽霊の心残りが恋をすることって話があったなぁ……何の漫画だっけ。万が一そうなったらどうしたものか……願いを叶えてあげる流れだしなあ……などとくだらないことを考える。
「あ、あれ」
ぱっと顔を上げる女の子。
「れん……」
え、まじですか。吹き抜ける風、凍りつく笑顔。
「練乳のかかったカキ氷が食べたい」
…………。
「……ぷっ……あははははは」
「なんで笑うのー? ほんとに食べたいんだもん」
「わかったわかった、買ってくるよ」
まだいくらか笑いながら彼女を見る。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。透ける白い肌も、赤い着物も、下駄を履いた足もない。ただ、土手の草が風に揺られているだけだった。
僕は不思議な気分のままで立ち上がった。狐につままれたような感じ、っていうのはこういう時に使うんだろうか。
コンビニの袋を持って戻ってきても、女の子は現れなかった。仕方がないので、袋からカップ入りのカキ氷を取り出して、さっき女の子が座っていた辺りに置いた。ついでに買ってきていた僕の分を袋から取り出し、フタをあける。そこでふと思う。
「つーか僕、なにやってんだろ……本人いないのに」
僕はカキ氷を袋に戻し、ほとんど無意識のうちにタバコとライターと携帯灰皿を取り出した。一本出して、くわえて、火をつけて。
……ふう。
すると、
まだろくに吸ってもいないタバコの火が、ふっと消えた。
「あ」
僕は女の子が座っていた辺りを見る。いつの間にか、カキ氷がカップごとなくなっていた。
「あいつ……」
残されたのは、僕と、消えたタバコと、コンビニのビニール袋。袋の中は空っぽだ。
「僕の分まで持って行きやがった」
僕は空を見上げる。
夏の大三角、織姫と彦星の間。さっきまで見えなかった天の川が、ぼんやりと見えたような気がした。
* * *
初出:2007.8.16
2007.09.26 | ふたり | comments(0) | ↑
<< 缶詰の町 | | main | | 木を植える人々 >> |