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日食と天気雨

 朝の八時に起きた。夏休みに突入して二日で十二時起きの生活にシフトした身としては、かなりの早起きだと思った。
 両親はもう仕事に出ていた。私はテレビをつけ、パンを焼き、お湯を沸かして紅茶をいれる。やかましいワイドショーにうんざりしてチャンネルを変えると、地元テレビ局のニュースで今日の日食の特集が組まれていた。アナウンサーは「通常のサングラスでは目を傷める恐れがあります。必ず専用の日食グラスを使いましょう」と言った。マーガリンとイチゴジャムを塗ったトーストをかじる。気になる今日のお天気は、晴れ時々雨だった。
 朝食を終えると、制服に着替えて家を出た。一番近い駅へ。改札を抜けてホームに出るとちょうど電車が入ってきたので、そのまま乗り込む。
 いつもは人でいっぱいの電車も、この時間になると空いている。制服姿の学生はあまりいない。なんだか私一人だけ遅刻したみたいな気分だ。シートに腰掛けてぼんやりと電車に揺られていると、全てがゆっくり動いているように感じる。電車はゆっくり目的の駅に着いて、私もゆっくりホームに降りる。
 学校の近くまで来ると、さすがに制服姿率が高い。みんな、部活とか文化祭の準備とかで来ているんだろうか。
 正門を通り抜けて靴箱に向かう。スリッパに履き替えて、生徒指導室の前を通り過ぎ、階段を上がる。窓が閉まっているからだろう、空気がこもっていて蒸し暑い。
 一番上の四階まで来ると、廊下に誰もいないことを確認して、さらに上へ向かった。薄暗くてホコリっぽい階段。その先の行き止まりに、グレーに塗られた鉄製の扉がある。ノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。やっぱり来てた、とにんまり笑ってから、ぎい、と扉を開ける。

「よう」
 右を向くと、ハヤセが壁にもたれて座っていた。
「おはよ」
 下に敷いたゴザの端っこに陣取って、憎たらしいほど長い足を放り出している。「隣、いい?」と聞くと「どうぞ」とのことだったので、私はこちら側の端に腰を下ろした。近すぎず遠すぎない絶妙の距離。
「あんまりびっくりしてないね」
「なんとなく、来る気がしてた」
「私も、なんとなく、いる気がした」
 空を見上げる。青と白はだいたい半分ずつくらいだった。今は、太陽に薄い雲がかかっている。
「今日、日食なんだよ」
「ああ」
「それだけのために来ちゃった。ここならよく見えると思って」
 私は鞄から日食グラスを取り出し、太陽に向けてかざす。ぼんやりと丸い光が見える。まだ欠けてない。
「それ、なに?」
「え? 日食グラス、持ってないの?」
「俺はこれで」
 ハヤセが取り出したのは、黒い折り畳み傘だった。彼はそれをぱっと開くと、太陽にかざしてみせた。繊維の隙間を抜けて届く光が少しまぶしい。
「っていうか、光がぼやけて見えないよ」
 ハヤセは「そうだな」と言った。どうやら思いつきでやってみただけらしい。
「じゃ、下敷きにしよう。ちょうど黒いの持ってるし」
「それじゃ、目によくないんじゃない? ニュースでも言ってたよ、専用のグラスを使いましょうって」
「なんで? 見れればいいんじゃないの?」
「紫外線とか赤外線とかが遮断されないんだよ」
「ああ、よく言う、AVゲットってやつか」
「……UVカットね」
「冗談だよ」
「つまんないよ。オヤジくさいよ」
 私が心無い言葉の連続攻撃を食らわせると、ハヤセは「ぐはっ」と血を吐いてうずくまった。
 うな垂れて傘を畳むハヤセ。その隣で、もう一度日食グラスをかざして太陽を見る私。傘を畳み終わったハヤセが「どう? 欠けてる?」と聞いてくる。
「ほんの少しだけ」
「恐れ入りますが、その素晴らしい道具を私めに貸して頂けませんか」
 ハヤセが妙にへりくだって手を差し出したので、私も「よろしくってよ」と上から目線で言いながら日食グラスを渡す。ハヤセは「ありがたき幸せ」とうやうやしく受け取って、目の前にかざした。
「なんだ、ぜんぜん欠けてないじゃん。案外ちゃっちいな」
 私はその言葉に少しむっとして、「まだピークの時間じゃないからね」と言う。
「ピークっていつだっけ」
「十一時くらいだったかな」
「まだ一時間くらいあるし」
 ハヤセはそう言って日食グラスを返すと、鞄からiPod shuffleを取り出し、イヤフォンを耳に入れて再生ボタンを押した。少しだけ音が漏れる。私がなおも太陽を見続けていると、唐突に歌い始めた。
「オー、オー、オーピーキューアールエスティーユーヴイカーット♪」
「なにそれ、なんの歌?」と尋ねると、「リロンの『おはようオーパーツ』」という、なにやら呪文めいた答えが返ってきた。

 ハヤセが5曲目を聞き終わったころ、太陽は大きな雲にすっかり隠れてしまった。西から東へ流れる雲は、だんだん分厚くなっているように見える。私は日食グラスを目から離し、ふう、と溜息をついた。
「曇ったな」ハヤセはへらへらと笑った。
「そうだね」私は少しいらっとしながら答える。
 晴れるまで、と鞄から本を取り出す。ぺらりとページをめくる。ハヤセは何も言わない。ただ、イヤフォンからこぼれ出る音だけが聞こえる。屋上からの景色をぼんやりと眺めて、あくびをしたり、のびをしたりしている。なんか猫みたいだ。猫みたいなハヤセの隣にいると、自分の心が胸の中でゆっくり下りていって、ちょうどいい場所でぴったりと止まるのを感じることができた。
 穏やかな気分で本を読み、時々思い出して空を眺める。何度かそれを繰り返していると、突然ぽつりと音がした。本の余白に、さっきまではなかった染みができている。
「雨だ」
 私は慌てて本を鞄にしまった。そうしている間にも、ぽつぽつと水滴の落ちる音が聞こえる。ハヤセもイヤフォンを外して立ち上がり、敷いてあったゴザを丸め始めた。屋上の扉の前、屋根がついたところまで避難する。雨はあっという間に本降りになった。
 携帯で時間を見ると、十一時五分前だった。そろそろピークのはずだ。くそう、せっかくの日食なのに、晴れるどころか雨まで降ってきたじゃんか。そう思ったのを見透かされたのか、ハヤセが「通り雨だ。じきにやむよ」と言った。
 ハヤセの言う通り、しばらくすると雨脚が弱まってきた。しかもちょうど雲が切れたらしい。あたりが明るく照らされている。けれど、雨はまだ止んでいなかった。
「こういうのって、なんていうんだっけ」
「狐の嫁入り」
 とにかく今がチャンスとばかりに飛び出す。焼けるような強い日差し、頬に当たるぬるい雫。雨の匂いと、押し寄せる蒸し暑さ。きらきらと光る水たまり。私は思い切り天を仰ぐ。さっきまでの雲は、太陽の周りだけぽっかりと口を開けていた。
 日食グラスを構える。黒く染まった空の真ん中に、大きく欠けた太陽がくっきりと見えた。覗き込んだ窓の外、夜空にぽっかりと浮かぶ三日月のようだ。
「おー」と声を上げると、さっと視界が暗くなった。グラスを外してみると、目の前に黒い傘が広がっていた。
「俺にも見せて」
 いつの間にか、すぐそばにハヤセが立っていた。どきりと心臓が鳴る。無言で日食グラスを差し出し、代わりに折り畳み傘を受け取る。ハヤセは傘から少しだけ頭を出して、太陽を見た。
「おおっ! すげえ! 本当に欠けてる」
 ハヤセは興奮して傘からはみ出す。私は彼の肩口が濡れないように、小さな折り畳み傘を高く持ち上げる。まだ心臓がどきどきしていた。

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* 相対性理論『おはようオーパーツ』(YouTube)
未だに呪縛から逃れられません。好きすぎる。
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    だいだい

     放課後。
     賑やかな廊下を歩く。階段を下りて図書室へ。新刊コーナーからタイトルで選んだ一冊と、芥川の全集を借りる。先輩から『歯車』がオススメだと聞いたので、最後の巻を。
     カウンターに本を置く。本を見た図書委員のユウが、心なしか眉を寄せて言う。
    「それ、あんまり面白くないよ」
    「芥川?」
    「違う、新刊の方。私も読んだの、昨日」
    「そっか……まあでも、借りてみるよ」
     ユウの趣味は私とは微妙に違う。あなたが美味しくないって言っても僕には美味しいかもしれないじゃないか、ということ。……何で読んだ台詞だったっけ。
    「芥川は『歯車』と『或る阿呆の一生』が好きだな。それに入ってる」
    「そうなんだ」もしかしたら彼女と先輩は気が合うのかもしれない。「楽しみだな」

     図書室を出る。さらに階段を下り、第一校舎を出て、第三校舎の裏まで歩く。そこに文化部の部室があった。二階建ての古い建物で、扉が鉄の引き戸という、ほとんど倉庫のようなところだ。
     文芸部の部室は二階の一番奥にある。かんかんと硬い音を立てながら鉄製の階段を上ると、なにやら騒がしい声が聞こえてくる。天文部の部室からだ。相変わらず賑やかだな。
     部室の扉には鍵がつけられたままだった。まだ誰も来ていないらしい。購買で売っている三桁の数字の鍵を開ける。本来かけるべき南京錠は、鍵が一個しかなくて不便だからという理由で、部屋の中の机の上に放置されていた。
     椅子に腰掛け、カバンから先ほど借りた本を取り出す。
     部室は静寂で満たされている。文庫本のページを捲るかすかな音。椅子の背もたれが立てるきしっという音。外で風が吹くたびに、かたかたとどこかで何かが鳴っている。天文部のだろう賑やかな声。悲鳴が混ざっているような気もするが、よくあることなので気にしないでおく。吹奏楽部の練習だろう、管楽器の音色。耳を澄ますと、運動部の掛け声が聞こえた。あれは何部だろう……テニスかな?
     ぺらり、とまたページを捲る。

     本を読んでいても誰も来ない。今日はどうやらそういう日らしい。
     だめだ、と口の中で呟いた。このままこの静寂に満たされた部屋で芥川を読んでいたら、私も歯車の幻を見そうだった。もう帰ろう、と半ばふわふわした意識で立ち上がる。
     部室の外に出て、ドアを閉めて、鍵をかけて、賑やかな天文部の前を通り過ぎて、階段を下りて、中庭を歩いて。
     彼を見つけたのは、その途中だった。
     何気なく見上げた空。クリームが混ざったような色をしていて、私のぼんやりとした気持ちにどこか似ているような気がした。
     その空を背に、誰かの頭が見えた。そしてすぐに、校舎の壁の向こうに見えなくなった。
     ……屋上?
     下駄箱へと向かっていた足を反転させ、階段を上る。三階建ての第一校舎の三階からさらに階段を上ると、そこに屋上への扉がある。けれど、私が入学する前に飛び降りた人がいたとかで、扉には鍵がかけられている。生徒が入れるはずがないのだ。
     まさかさっきのは、飛び降りた生徒の幽霊……とか。それはそれで面白いかもしれない。そんなことを思いながら扉の前に立つ。少し切れた息が落ち着くまで待つ。人があまり通らないせいか、辺りの空気がホコリっぽい気がする。ドアノブに手をかけると、ひやりと冷たい。
     これでドアには鍵がかかっていて、さっきのは見間違えでした、ってオチかな。まあ大概そんなもんだよね。
     けど、ドアは意外にも簡単に開いて、「大概そんなもん」は吹き飛ばされてしまったのだった。

     屋上は少し風が強かった。スカートを軽く押さえて歩く。校舎の屋根は緑色に塗られていて、白いフェンスで囲まれている。その向こうに広がる町。心なしか空が近くにあるような気がする。日差しが暖かい。
    「あ」
     とぼけたような声が背後から上がる。振り向くと、入り口の扉の上にある給水タンクの横に、男子生徒が一人座っていた。長くてぼさぼさの髪が目にかかっていて、風が吹くたびに揺れる。その頭が中庭から見上げたものと同じかどうかはよくわからない。
     もし幽霊に足がないのなら(そんなこと誰が言い出したんだろう)、足がある彼は幽霊じゃない。制服を着ているから、間違いなく生徒なんだろう。けれど、まるで地球外生命体と相対しているような得体の知れなさを感じる。地球外生命体に会ったことなんかないんだけど。
     しばらく黙って向かい合った後、ふいに「見えた?」と彼が言った。その声は、少しかれていた。
    「え?」
    「俺が。下から」
    「ああ、うん」
    「そっか。気をつけてたんだけど」
    「ここで何してるんですか?」
    「とくに、なにも」
     とくに、なにも、か。
    「……しばらく、ここにいていいですか」
     どうしてそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。ただ、初めて上った屋上は気持ちよかったし、普段入れない場所にいることが面白かった。
     彼は私の台詞を聞いて少し笑い、「いいよ」と言った。「別に俺の場所ってわけじゃないしね」
     そしてそれっきり口を閉ざした。髪で見え隠れする瞳が気だるそうに細められ、組んだ腕に顔をうずめる。もしかしたら彼はここに寝に来ていて、今も少し眠いのかもしれない。
     私は強い風を避けるために、屋上の扉の隣、コンクリの壁に近づいた。給水タンクまで上るための鉄製の梯子がある。ここを上るとなるとさすがに目立ちそうだ。
     階段の隣に少し出っ張りがあった。何のためかはよくわからないけれど、特に汚れているわけでもなく高さも丁度いいのでとりあえず座ってみる。ずっと日が当たっていたせいか、温かい。そういえば、彼も日なたに座っていた。猫みたいだな、と思って少し笑う。
     おもむろにカバンから本を取り出す。新刊の方だ。
     ぱらり、とページを捲ると、上から「ふあ」と大きな欠伸声が聞こえた。

     本を半分くらいまで読み進んだとき、ページに橙色の光が差していることに気づいた。
     ふっと顔を上げると、辺りが夕焼け色に染まっている。西の空に夕日。夕日に向かって伸びる、一筋の飛行機雲。
     夕焼け色に染まる屋上で、私もまた夕焼け色に染まっている。さっきまでの暖かさは消えて、風が冷たく吹いていた。
     本を閉じる。中身は、一人ぼっちの少年の物語だった。少年は、薄暗い世界で歪んだ生き物たちに脅かされながらも、時折見える暖かい影と声の主を探して生き続けていた。うら寂しい雰囲気の文章が淡々と続いていて、刺激に飢えているユウにとっては退屈以外の何物でもなかっただろう。けれど私は、闇の中を手探りで生きていく少年がどうなっていくのか、気になって仕方がなかった。
     本を仕舞う。ぼんやりと夕日を眺めながら、物語の続きを想像してみる。少年は影の主と出会うことができるのだろうか。暖かい影や声は単なる幻で、彼は最後にそれを知って絶望するんじゃないだろうか。
     そこまで考えて、私は、心の中まで夕焼け色に染まってしまっているような気がした。西の空は美しかったけれど、同時にどこか痛々しかった。
     どうして夕日は、孤独を想わせるんだろう。

     ふいに、歌が聞こえた。
     ハミングなのか、歌詞が聞き取れないだけなのかわからないけれど、その旋律は悲しみで溢れていた。懐かしい切なさ。幼いころ目の前にあった、とてつもなく広い世界。その寂しさ。
     少しかすれた声がとても儚げだった。どうやら上で彼が歌っているらしい。
     その歌声を聞きながら、夕日を眺める。そうして、直感した。
     ああ。
     彼は、夕焼けを歌っているんだ。
     すると、夕焼け色に染められた私の体が崩れ始めた。輪郭にゆっくりとヒビが入り、音もなく割れていく。破片は赤や黄色の枯葉に変わり、紅茶の中で溶ける角砂糖のように分解していく。
     何かが頬を伝う感触。どうやら私は涙を流しているらしい。どうしたんだろう、しかも、止まらない。
     彼はきっと、給水タンクの横で夕焼けを見ているんだろう。夕焼け色に染まった体で、夕焼け色の歌を歌っている。
     私は目を閉じて、その歌声が頭の中でこだまするのを聞き続けた。

    「まもなく、下校時刻です。下校の準備をして下さい。まもなく……」
     下校時刻15分前の放送が校内に響き渡り、彼の歌が終わる。辺りは暗くなり始め、風もさっきより冷たい。
     私は流れっぱなしだった涙を拭いて、立ち上がる。
    「そろそろ閉めるよ」と、梯子を降りてきた彼が言う。
    「誰の曲?」
    「え?」
    「さっき。歌ってた」
    「ああ、聞こえた?」ぽりぽりと頭をかく。
    「うん。誰の、なんていう曲?」
    「俺の。俺が書いた曲」そこで少し間をおいて、微笑みながら言う。「曲名は……」
    「いい曲だね」
     彼は少し照れたのか、くるりと背を向けて扉の方へ歩いていく。その途中で小さく、「さんきゅー」と言う声が聞こえた。
    「あの」
    「ん?」
     扉の前で振り返る彼に尋ねる。
    「また、来てもいい?」
     彼は屋上で聞いたときと同じように、「いいよ。別に俺の場所ってわけじゃないしね」と言った。影の中でよくわからなかったけれど、その顔は多分笑っていた。

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      | 屋上の鍵 | comments(0) |

      トロンボーン

      「なんか、トロンボーンって、名前にしまりがないじゃんか」
       俺たちは屋上にいる。沈む夕陽を惜しむかのように、空がオレンジ色に染まっている。
       世界中のトロンボーン奏者に対して無礼きわまる発言をぶちかましたのは、俺の隣に立っているヤスだった。背が低く、いつもおどけているようなヤスは、クラスのみんなから「ピエロ」と呼ばれていた。
      「トランペットとか、クラリネットとか、なんていうか、歯切れがいいよな。それが、トロンボーン、だと、なんか間延びした感じがする」
      「おそらく“ボーン”が原因だな」
      「そうだ、“ボーン”がいけないんだよ。ジャズとかでも、ピアノ、ウッドベース、サックス、トロンボーーン」ヤスは、わざと“ボーン”を伸ばして言った。「ほらみろ、トロンボーンだけが間延びしてる。やっぱり“ボーン”がよくない」
      「まあまあ。落ち着けよ。他の楽器でも、間延びした名前の、あるだろ」
      「トロン“ボーーン”に、匹敵するやつがあるか?」
      「“オーーボエーー”なんか、どうだ」
       俺は世界中のオーボエ奏者に心の中で土下座しながら、ヤスを慰めようとする。クラシックとか全然聴かないから、一人として顔も名前も思い浮かばないけど。

       なんでこんな話になったのか。
       発端は、ヤスの放った一言だった。


      「オーエー、あのさ」
       放課後、俺が意味もなくブラブラしていると、ヤスが話しかけてきた。
       ちなみに「オーエー」というのは俺のあだ名だ。名字がオオエで、イニシャルがO.A.だから、という理由で付けられた。名字をのばして呼んでるから、ある意味これも間延びしてるのかもしれない。
      「なんだよ」
      「屋上行こうぜ」
      「どうしたんだよ」
      「別に、大したことじゃない」
       廊下を歩き、階段を登る。ヤスが小声で言う。
      「トロンボーンって、どう思う」
      「トロンボーン? 楽器の?」
      「オーエー、声がでかいぞ……そうだ、楽器の」
      「あれだろ、あの、手を前後に動かして吹くやつだろ」
      「そう、スライドさせて、音程を合わせるやつ」
      「スカとかで吹いてるやつだよな。かっこいいよなぁ」
      「かっこいい、か?」
       そこで俺たちは屋上へ出る扉の前に着く。
       扉には鍵がかかっている。大昔は開放されていたらしいが、ある生徒が飛び降りてから鍵がかけられるようになった。ふわふわした雰囲気のこの学校では、「飛び降り自殺」の単語は違う国の言葉のようで、にわかに信じがたい話だ。
       俺は制服の内ポケットに手を突っ込み、合鍵を取り出す。
       この合鍵は随分前に卒業した生徒が勝手に作ったもので、代々卒業生から在校生へと受け継がれてきたものらしい。そんな伝統があることを知ったのは、実際に先輩から鍵を渡された時だった。
       後ろに誰もいないことを確かめ、鍵をあけて中に入り、すぐに鍵を閉める。
       目の前に広がる、夕焼け色に包まれた景色を眺めながら、ヤスは言った。
      「オレ、トロンボーンを吹いてるんだ」


      「オーボエか、確かに間延びしてるかもな」とヤスは少し笑った。
       冷たくなってきた風が、俺たちの間を吹き抜けていった。グラウンドを周回するサッカー部員たちの掛け声が聞こえる。距離を置いたところにハードルを飛び越える陸上部員もいる。遠くのコートでテニス部員が素振りをしているのが見える。
      「ちょっと、聞いてくれ」
      「今、聞いてる」
      「いや、話じゃなくて、トロンボーンだ」
      「吹くのか」
      「吹く」
      「いつ、どこで」
      「もうすぐ文化祭だろ」
      「ああ、再来週だな」
      「一日目の二時半、倉庫がカラになる」
      「あの一階の、楽器が置いてあるところか」
      「そう。吹奏楽部が体育館のステージで発表するから、楽器を運び出すんだ」
      「そんな情報、どこから仕入れてくるんだ……でも、楽器を運び出すなら、トロンボーンだって運ぶだろ?」
      「トロンボーンは、俺のを持ってくる」
      「……? じゃあ、なんで倉庫なんだ?」
      「あんまり大勢に聞かれたくないんだ」
       ヤスは笑って言った。
       グラウンドのサッカー部員たちはドリブルの練習をしている。陸上部員は早々にハードルを片付け始めた。コートのテニス部員はラリーをしている。
       屋上を出た後で、俺は半ば強引に昨日の晩のTVの話をし始めた。帰る途中で別れるまで、ヤスのトロンボーンについては一切触れなかった。


       文化祭一日目、俺は喧騒を抜けて倉庫に向かった。倉庫は一階の階段の下にあった。人通りもそれなりにあって、忍び込むには不向きな気がした。
       錆びた金属性の扉に鍵はかかっていなかった。俺はすばやく中に入る。中では、ヤスが台に腰掛けて準備をしていた。
      「それ、買ったのか?」俺は、ヤスが持ってきたトロンボーンを指差して言う。
      「うちにあったんだ。誰が使ってたかは聞いてないけど、親父のか兄貴のか……」苦笑いを浮かべて言う。「さすがに、マウスピースだけは新しく買った」
       ヤスは立ち上がると、トロンボーンを構えて、吹いた。揺るぎのない単音が、かなり大きく響いた。
      「結構、音がでかいな……」
      「外にはそんなに漏れてないはず」
       ヤスはそう言うと、深呼吸した。
       そして、曲を吹き始めた。

       ヤスが曲を吹き終わった。
       俺は一人で拍手を送った。「すげーじゃん、かっこいい」と言って、自分の語彙の乏しさに恥ずかしくなる。
      「みんなの前でやればいいじゃんか」と言うと、ヤスは首を横に振った。
      「オレがトロンボーンなんか持ったら、みんなはオレがまたふざけてると思うだろ。それで多分、オレは期待通りにふざけちゃうと思うんだよ。それがオレの役割だから」ヤスの顔には、教室では決して見ないような寂しげな表情が浮かんでいた。「でもそれは嫌なんだ」
       俺はただ、「そうか」としか言えなかった。そして自分の中のもやもやした感情を無視して、できるだけ明るい声で言った。
      「俺にも貸してくれよ。吹いてみたい」
      「そこに、吹奏楽部の余りがあるぜ」
       ヤスが指差した先の棚にケースが置いてあった。俺はそれを引っ張り出し、机の上で開き、収められていた楽器を取り出す。ヤスに教えてもらいながら準備する。マウスピースは一応念入りに拭いた。
       構えて、息を吸って、吹く。
       ぽぇ〜、という間抜けな音が響いた。ヤスが思わず笑う。俺はちょっと悔しくなって、何度もぽぇ〜、ぽぇ〜、とやる。
       そのうちヤスが笑いながら構え、また吹き始めた。さっきとは違う曲だった。
       俺は吹くのをやめた。ヤスの奏でる曲を聴く。

       間延びした名前の楽器を吹くピエロは、そこにはいない。


      * * *
      初出:2007.01.29.
      1/23に見た夢に肉付けしたもの。
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