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    付箋 三枚目

    付箋 二枚目 <<

     どこか遠くで音楽が鳴り響いている。色取り取りに輝きながらあちらこちら飛び跳ねる音色。子供達の楽しげな笑い声。何かが勢い良く通り過ぎるような轟音と、叫び声。それらの音が混ざり合って大きな波になり押し寄せる。オレは瞼を開いた。
     そこは遊園地だった。小さなロケットの形を模したジェットコースターが行ったり来たりしている。大人向けの絶叫マシンと比較すればちゃちな代物だが、物が小さい方が隙間を縫うようなコースを走る分、妙に迫力があって楽しめたりするから不思議だ。
    「弟が乗りたがってたの。あれに」
     女の子の声が聞こえた。オレは、自分の目線が普段より低いことに気付いた。また夢か。それとも記憶か。
    「違うだろ。乗りたがってたのは、お前の方だろ」
     幼いわたしが息を飲む。
    「お前はそれを言い出せなかった。口にすれば、聞き入れられないどころか、危ないだの女の子らしくだの、しょうも無い小言を散々ぶつけられるからな。それでお前は黙って家族から離れた」
     一度瞬きをすると目の高さが戻る。オレは黄緑色に塗られた木製のベンチに腰掛けていた。隣を見ると六歳のわたしと目が合う。柔い布がふんだんに織り込まれたピンク色のスカートは傍から見ても全く似合っていなかったし、遊園地という場所にそぐわないように思われた。オレの視線に気付いたのか、わたしは不満げに唇を噛み、スカートの裾を握り締めて何度も引っ張った。
     その情けない顔の向こうに、現在のわたしが座っていた。
    「意外と普通の顔してるのね」口を開くなり失礼なことを言う。「でもその下品な笑い顔は想像通り」
    「お前は夢の中でも変わらず貧相だな」
    「夢じゃないわよ」
    「なら記憶か? 思い出すのに一々こんな手順を踏むなんざ、非効率極まりないな」
    「記憶でもない、かもしれない」
    「じゃあ何だ」
    「さあね。わたしが知る筈無いでしょ? 単なる付箋のわたしが」
     現実には存在しない筈の自分の顔から、笑みが剥がれ落ちるのを感じる。何で、と殆ど意味を持たない問いが漏れた。ジェットコースターが勢い良く通り過ぎ、在り得ない程強い風が吹いて六歳のわたしの長い髪が舞い上がった。
     髪の毛の合間で、大人のわたしが嘲笑うように繰り返す。
    「わたしが知る筈無いでしょ?」
     オレは目の前のそいつを睨み付ける。
    「お前は誰だ」
    「わたしは単なる付箋」
    「そんな答えは要らん。お前はオレの生み出した夢幻か。それとも現実に存在するお前か」
    「そもそもわたしは現実に存在しているのかしら」
    「はぐらかすな。質問に答えろ」
    「わたしは知らない。あんたは知ってるんでしょ? さあ答えて、わたしは存在しているの?」
    「質問に質問を返すんじゃねえよ」
    「何をそんなに焦ってるの? わたしがあんたに何かするとでも思ってる? 何かするのはいつもあんたじゃない。好きなように、貼ったり剥がしたりすれば良い」
     わたしはそっぽを向いた。拗ねた子供のような動作で、しかし全てを見透かすような表情の無い顔で。ベンチは灰色に、ジェットコースターは列車に、辺りを包んでいた賑わいは街のざわめきと駅員のアナウンスに取って代わる。
     そしてわたしはチカに姿を変える。
     彼女がこちらを見ずに言う。
    「貴方は何をしたいの? 人を食べたいの? 誰を食べたいの? 心の底から食べたいと思う相手は一体誰?」
     止めろ。お前は、誰だ。
    「貴方は知っている。知らない振りをしている」
     チカの首が、まるで人形のように緩慢に動き、少しずつこちらを向く。これは彼女ではない。オレは知っている。目を逸らそうとするが叶わない。
    「人を食べるってどんな気分なの?」
     不気味な笑顔を浮かべたチカが、静かに、大きく口を開く。
    「私も、食べてみたいな」
     上下の唇が離れていく。その間で透明な唾が糸を引き、真っ赤な舌が蛞蝓のように蠢いて、口の端から溢れかけた粘液を舐め取る。
    「食わせろよ」
     そいつが、機械的な甲高い声で笑う。
     繊維の断裂する音。頬が割れる。血液を噴き出しながら次から次へと生える無数の牙。鰐のように伸びた巨大な顎が勢いよく閉じ、乱杭歯がオレの右肘から先を噛み千切った。激痛。存在していた肉体が失われる痛み。迸る血潮、焼けるような熱。叫ぶ。
     何故オレは今笑っているのだろう?
     目の前の捕食者は暫くオレの腕を咀嚼していたが、嚥下することなく吐き出し、その場で嘔吐いた。
    「不味い。お前よくこんな物が食えるな。それともお前だからこんなに不味いのか?」
     心底楽しいとでも言うように、目を細める。牙の塊を携えた口以外はチカのパーツのままだ。
    「なあ。もっと美味い物食わせろよ」
     見開いて剥き出しになった目玉が左右別々に動き、傍らに立つ幼いわたしを補足する。開かれた口の端、尖った牙の林から唾液が零れ落ちる。
    「こっちの方が美味いのか?」
     止めろ。
     それは、オレのだ。
     オレが食うんだよ。
     自我が膨張するのを感じる。ベンチのあるホーム、ホームのある駅、駅のある街、街の景色の外側へ。口を大きく開き、上顎と下顎でその景色を挟む。地平線の向こうから早回しで夜が訪れるように、オレの口が光を飲み込んでいく。
    「やっぱり」
     噛み砕く寸前、わたしの声が聞こえた。
    「食べたかったんじゃない」
     どこか嬉しそうに聞こえたのは、オレの思い込みだろうか。
     口を閉じる。
     口腔に蜜のような柔らかい感触が広がる。それは甘味、塩味、酸味、苦味と徐々に変化しながら、喉の奥へゆっくり滑り降りていく。



     気が付くとオレは駅のベンチに横になっていた。
    「大丈夫?」
     チカの心配そうな顔が覗き込み、思わずびくりと体を震わせる。睨む俺に怖気付いたのか、そっと顔を離す。目は放さない。
     彼女の顎に異常がないことを確認すると、オレは警戒を解いて大きく息を吐いた。どうやら膝に枕しているらしい。力を抜いて身を任せる。
    「なあ」
    「何?」僅かに怯えを含んだ声。
    「食われる身ってのは確かに嫌だな」
     ふ、と今までになく近い距離でチカが微笑む。
    「怖い夢でも見たの?」
    「まあ、そんなもんだ」
     ベンチで電車を待っていたら、オレが心ここに在らずの状態で現れ、崩れるように横になったのだと彼女は説明した。礼を言って体を起こす。確認するように右腕を動かし、手を開いたり閉じたりする。掌をじっと見つめる。
     見えない右腕が、無くなっていた。
     ああ、と声を上げて伸びをする。駅のホームの見慣れた光景が鮮やかで、ひどく眩しく感じられた。屋根の下から見上げる空は濃い青色に染まっている。冷え始めた秋風が軽薄な音を立てながら、抉り取られた右肩を舐めて行った。乾いた土のような香ばしい匂いが微かに漂ってきて鼻を擽る。
    「泣いてるの?」とチカが遠慮がちに訊ねる。オレは、まさか、と肩を竦めた。
     ふと思い出したようにチカに向き直り、笑い掛ける。
    「オレは蛾だったのかもしれない」
     彼女は訝しげな表情を浮かべた。暫くして視線を逸らし、真っ直ぐ前を向いて言った。
    「蛾は誘蛾灯を食べたりしないと思うけど」
    「ライオンは誘蛾灯に引き寄せられると思うか?」
    「ライオンは肉に引き寄せられるんでしょ。どうして目の前にあるのに食べないの?」
    「腹が減ってないんじゃないか?」
     間もなく列車が参ります、黄色い線の内側でお待ち下さい、とアナウンスが告げた。遠くから車輪がレールを叩く音が聞こえる。
    「どちらにせよ」チカは静かに言った。「私はライオンとは一緒にいられない」
     一瞬、彼女が震えているように感じられ、オレはその顔を注視した。そこにあったのは、いつもと同じ感情を窺わせない表情と、毅然とした眼差しだけだった。
    「そうだろうな」
    「あとそのライオン、笑顔がいやらしい」
    「ははっ、酷い言われ様だな」
     声を上げて笑う。チカも少しだけ笑った。轟音が近づいてくる。オレはジェットコースターを思い出している。警笛。
    「それじゃ、唾付けた分だけ貰っとくわ」
    「えっ」
     チカがこちらを向く動作が、ひどく緩慢に感じられた。不意を打たれて、ぽかんと口を開け、目を丸くした彼女の顔。オレはそれを自分の奥深くに仕舞い込んで、僅かに口を開く。
     背後を、先頭の列車が通り過ぎる。速度を落とし所定の位置で停止すると同時に、オレは踵を返す。自動扉が開く。誰も降りないのを確認して乗り込み、ホームの見える席に腰掛ける。
     冬用の制服を身に着けた女子高生が一人、ベンチに座って不思議そうに辺りを見回していた。つい先刻まで自分が何をしていたのか分からないとでも言いたげな表情を浮かべている。やがて思い出すのを諦めたのか、鞄から参考書を取り出して頁を捲った。
     ベルが鳴り、扉が閉まる。オレはそこにはいないし、あんたはもうここにはいない。電車が動き出し、女子高生はホームと一緒に右へ流れて行く。

     ぼんやりと車中を眺める。サラリーマンが扉の傍に立ってスマホを弄っている。その疲れの滲む顔の頬の辺りが、コの字に割れて剥がれた。「今から行く客が」と書かれているのが見える。
     向かいのシートに目を遣る。馬鹿騒ぎする男子高校生の一人の後頭部が「wwwwww」、一人の胸が「塾だりいな帰りてえ」、一人の太腿が「セックスセックスセックス」、その隣に座る老女の腕が「うるさいわね静かにしなさいよ」、隅の席で虚空を見つめて微笑む中年男の首が「神は私たちを」。それらは現れては剥がれ、列車の床に振り落ちて積み重なり、やがて消えていく。
     オレは徐に鞄を開き、入れっ放しだったペンギンの付箋を取り出した。一枚剥がして自分の額に貼り付ける。
     ペンギンに成りたいアピールか。ライオンを辞めてペンギンに成ろうとでも言うのかよ。
     笑いが込み上げてきて、堪え切れずにその場で爆笑する。周囲にいる人間達は、目を逸らすでも、不快を露わにするでもなく、ただ列車に揺られている。その様子はまるで影絵の背景のようだった。
     これからどうしようか。
     列車が次の駅に到着する、というアナウンスが流れた。不意に舌に苦味を覚える。わたしの欠片が、奥歯にでも引っ掛かっていたのだろう。
     オレはその余韻を味わいながら、そうだ、美味いコーヒーでも飲みに行くか、と立ち上がった。

    JUGEMテーマ:小説/詩


    * 夜の茶会シリーズ(キョウコの場合 side B)
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      | 夜の茶会 | comments(0) |

      付箋 二枚目

      付箋 一枚目 <<

       決まった時間の電車が到着すると、オレは立ち上がってチカと別れた。挨拶は無い。車両に乗り込んでシートに座り、そこで初めてチカを見遣る。大抵チカもこちらを見ている。別れを惜しむどころか殆ど温度を持たぬ眼差しで、ただ確認するかのように。私はここにいる、貴方はそこにいる。オレも同じような無機質な目をしているのだろう。オレはここにいる、あんたはそこにいる。お互いにただ確認し合うだけの関係。そんなことを考えているのはオレだけかもしれないが。
       電車が動き出し、ホームと一緒にチカが右へ流れて行った。オレはわたしを起こす。
      「ん……何、また? 何してるのよ、いつもいつも」
      「ゆっくり寝てやがった癖してよく言うぜ。こちとらお前の代わりに出勤してやってるってのによ」
      「また隠れて食べてるんじゃないでしょうね」
      「買い食いも拾い食いもしてねえよ。下校途中の小学生かよ」
      「誤魔化すのは止めて」
      「許可を得なきゃ食わねえって、約束しただろ?」
      「信用できないのよ」
      「お前の生活に迷惑掛けるようなことはしねえよ……と言っても信じちゃ貰えないだろうが」
       普段通り軽口を叩き合う内に、列車が都心の駅に到着する。ホームに降り立ち、人の流れに沿って所謂ファッションビルに向かう。わたしはそこに密集する若者向けアパレルショップの一つで働いている。
       オレは瞼を閉じる。わたしの職場が、というかこの建物自体が苦手だった。それにこれでも一応気を遣っているのだ。約半年前、ショップの先輩店員を齧ってしまった身としては。

       初めて人を食ったのがいつだったかは判然としない。自覚している内で一番古い記憶は小学校五年の担任だが、それ以前にも無自覚で齧っていた可能性がある。特に母親についてはその線が濃厚だ。わたしが思春期真っ只中だった頃と比較して大分落ち着いたとは言え、あの女は現在も軽度の神経症を患っている。
       件の小学校教諭は当時三十台半ばの眼鏡を掛けたおっさんで、これが筋金入りの変態だった。お気に入りの女子生徒を特定するとクラス全体を言葉巧みに誘導して孤立させ、悪戯をでっち上げ無実の罪を着せて全員の前で晒し者にし、生徒相談の名目で放課後の特別活動室に呼び出して性的暴行を加える。そんなの安い十八禁漫画の中だけだろう、と言いたくなるような行為を実際に行っていたのだから驚きだ。
       何を隠そう、その年の奴の標的はわたしだった。四十人弱のクラスメートが奴の思惑通りに動いてわたしを除け者にするのを、オレだけが冷静に見ていた。何故周囲はかくも容易く流されるのか、何故周囲は奴の下卑た笑みに気付かないのか、オレには皆目解らなかったが、成程これが子供騙しというやつかと子供ながらに結論付けた。事態は奴の台本通り至極スムーズに進み、わたしは特別活動室(今思えば何が特別活動か)に呼び出された。扉に鍵の掛けられあわや汚物と接触の危機というところで選手交代、オレが奴を食い千切ってやった。何分にも意識的な食事は初めてだったから、今みたいに綺麗に噛み切れる筈も無く、奴は意識を失って崩れ落ちた。オレは暫く肩で息をしながら奴を見下していた。嚥下した奴の塊が臓腑にこびり付くようで、心底不快だったのを覚えている。オレは渋々脈拍と呼吸を確認し、命に別状は無さそうだと知れると鍵を開けて教室を出た。
       奴は翌日から学校に来なくなった。特別活動室にてあられもない姿で倒れているところを、運悪く若い女教師に見つかったという噂を耳にした。その後の行方は知れないし知りたくもないが、オレの噛みどころが間違っていなければ、恐らくあれ以来性的不能に陥っている筈だ。未だ生きていればの話だが。性が生に繋がるという一節はどこで読んだのか忘れたが、まあ一理あると思う。



       いつだったか、食事についてチカと話したことがあった。
      「怪獣映画ってあるじゃない。太古の恐竜が蘇ったっていうのでも、人食いザメでも、何でも良いんだけど」
      「何だ唐突に」
      「ああいうのを観ると、生態系について考えるの。ヒトは二足歩行と文明でピラミッドの頂点に立ったとか何とか。厳密には、未知の病原菌とかで一掃される可能性もあるけど、取り敢えず普段生活してて、自分よりも大きくて強い生き物に食べられる危険性は殆ど無い」
      「それを娯楽にしちまう位にか?」
      「まあ、そういうことなんだけど」
       チカが両足を伸ばし、交互に動かした。彼女にしては珍しく子供っぽい所作だ。そういうところもあるんだな、等と和んでいたら、続く言葉に不意打ちを食らった。
      「それで貴方のことを考える」
      「ドキッとさせんじゃねーよ」オレは表情を変えずに言う。
      「なに? ドキッとさせちゃった?」悪戯っぽく笑うが、こちらは見ない。
      「これは推測だけど、貴方は他人の精神を食べる、新しいタイプの捕食者なんじゃない?」
       へえ、と思わず声が漏れた。
      「ほぼ妄想でしかないけどね。ピラミッドのてっぺんで踏ん反り返ってる人類の、新たな脅威って訳」
      「人間の進化形ってことか? なんか無駄に格好良いな」
      「進化かどうかはまだ判らないけど。多分、突然変異とかじゃないかな……正直、そう願いたいところ。ライオンがそこら中をうろついてたら、安心して暮らせないじゃない」
      「いつ何時食われるか分からないからな。新人類に乗っ取られるってか」
      「しかも食べたかどうかがぱっと見では判らない」
      「最強だな」
      「でも対抗手段が無い訳じゃない」
      「ほほう。してその手段とは」
      「分かってるでしょ? 数に物を言わせて、物理的に駆逐する」
      「確かにな。幾ら鋭い牙があったって、囲まれて銃で撃たれちゃ一溜まりもねえや」
      「あとは繁殖で増えないかどうかが問題……まあ、その形質が子に遺伝するかどうかは確実じゃないけどね」
      「女子高生が繁殖とか言うとそこはかとなくエロいな」
      「生物学を専攻する女子は全員エロいってこと? 趣味の問題じゃない?」
      「生物学専攻萌え! どんな趣味だそりゃ」
      「貴方に子を産む積りがあるのかどうかはさて置き、何の変哲もない二十ウン歳女子を演じてるのは、排除されないようにでしょ。現代の魔女は火炙りに処されず病院送りで社会的に抹殺される」
      「病院ならまだしも、動物園やら研究機関やらにぶち込まれちゃ堪んねえな」
      「戦時中なら暗殺兵器として活躍できたかも」
      「それは今でもできるだろ。リスクがでか過ぎるから御免だけどな。生物として生まれた以上、それなりに死にたくないんでね」
      「生きるために人を殺すの?」
      「厳密には殺してない。人間、齧られた位じゃ死なねえよ」
      「殺してないけど傷付けてはいる。それでも貴方は罪に問われない。罪悪感は?」
      「無いね。あんたは豚や牛の肉を食いながら罪悪感を抱くか? 別に豚や牛に限らなくても良い、あんたは人を食ってないと断言できるのか? 誰かの犠牲の元であんたは生きている、それはオレが人を食うのとどう違うんだ? 程度の問題か?」
      「程度の問題ね。他者から過剰に搾取した者は罰せられる」
      「……で、あんたはオレを罰したいのか?」
      「別に。何となく、どういう気分なのかなって思っただけ」
       嘯くチカの顔を横目で盗み見る。その表情は心なしか険しいように思えた。



       オレはまた駅のホームに立っている。
       ベンチの指定席にチカが座って参考書を開いていた。彼女はまだ夏服で、わたしの格好も紺の横縞のTシャツにデニムの短パン、麦藁帽という夏仕様だ。マリンスタイルとか何とか言っていたが服のことはオレにはよく解らない。
       今日は何月何日だろうとオレは思う。これは夢か? それとも単なる記憶の反芻か?
      「こんなこと言うのは何か可笑しいけど」チカが言う。「最近気になる人がいる」
      「誰だよ」オレも指定席に座る。返事は無い。「もしかして、オレか?」
      「ふっ、まさか」
      「鼻で笑うなよ、結構傷つく」と心にも無いことを言う。「ストーカーか? 根暗でDVなオタク系男子か?」
      「だから、この前のあいつとは何でもないって。一方的に付き纏われてただけで。今度は違うから」
      「やめとけやめとけ。お前、誘蛾灯みたいな女だから、ちゃんと電流流しとかねえとまた怪我するぞ」
      「そう言う貴方は? 誘き寄せられた蛾なんじゃないの?」
      「ハハッ、そういうところが危ねえんだよ」
       事実チカは男の目を引くようで、この駅でも何気ない風を装って遠巻きに眺める奴らがいることをオレは知っている。会話している最中、溶けかけた発泡スチロールみたいな男達に声を掛けられたことも一度や二度ではない。
      「あの人は、そういうんじゃないよ。多分だけど」
       左から風を伴って、列車がホームに入ってくる。その長い鉄の蛇は、側面についた幾つもの口を開けると、オレ達の目の前で沢山の人間を吐き出し、再び口を閉じて去っていく。顔の無い人間共はベンチに座ったままのオレ達に無遠慮な眼差しを向け、一瞬後には何事も無かったかのように各々の目指す場所へ歩いていく。その間、黙っているオレの中では、チカが発した「あのひと」が幾度となく反響していた。その余りにも優しい響きに、オレは狼狽えた。
      「図書館で、大抵窓際の席に座って、いつも本を読んでる。何か海外の作家の本」
       オレはチカに目を遣る。やや伏せられた睫毛の下で、黄色い点字ブロックの辺りに視線を落とす瞳が、静かに喜びを湛えていた。薄らと笑んでいる口元。会って一月余りだと言うのに、昔の知人に何年か振りに偶然出くわしたような感覚があった。初めて出会ったあの時以来、オレはこの女と会っていなかったのではないか。

      JUGEMテーマ:小説/詩


      * 三枚目に続くみたいですよ。
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        付箋 一枚目

         付箋の癖に。

         オレはわたしの独り言に気付いていない振りをした。
        「それにしてもあいつ不味過ぎるだろ……食いながら死ぬかと思った」
         関係の無い愚痴を零す。実際、先刻から胃凭れが酷い。色艶や美学の無い烏賊臭く塩辛いだけの性欲と、汚泥さながらの脂に塗れた充足代替物は、宛らジャンク・フードのようにオレの消化器官を痛め付ける。旨味などある筈も無い。化学調味料という名の毒に漬かったこれを文化だと言い張るか。下劣。吐き気を催し口を押える。
         石炭袋で見たギター弾きは本当に美味そうだったな、と思い返し、腹の中で暴れ回る汚物から意識を逸らす。深く暗い洞穴の奥深くから響く澄んだ音色。幾層も重なった岩の襞で結晶化する、宝石のような悲哀や金属鉱石のような苦悩。彼は一体どんな味がするのだろう。甘味だろうか苦味だろうか辛味だろうか、凝縮されたその旨味はどれ程か。想像しただけで涎が溢れる。
        「なんて顔してんの」
         湯気の立ち込める風呂場。泡の付いたスポンジで腕を擦りながらわたしが言う。
        「いやらしい目で見ないでよ。気持ち悪い」
        「お前こそ何を気色悪いこと言ってやがる。お前の貧相な裸体に欲情なんかする訳ないだろう」
        「失礼ね!」
        「事実だ」
         鏡の向こうで仏頂面のわたしがシャワーを浴びている。オレは存在しない肩を竦めた。
        「当分あのお店行かないから」
        「なっ、おいい! おかしいだろ! 不味い飯で我慢したってのに褒美の一つ、いや一杯も無いのかよ! その仕打ちは酷い! 酷過ぎるぞ!」
        「五月蠅いわよ。夜なんだから静かにして」
         誰に聞こえる訳でも無いだろう。そう思ったが、思うに留めた。白々しくならない程度に舌打ちをする。そうだ、オレはお前に貼り付いた付箋だ、そしてお前は付箋ではない、と宥めるかのように。喫茶店にはわたしが眠っている隙にでも行けば良い。

         柔い寝間着に身を包み、ベッドに潜り込んで暫くするとわたしは眠りに落ちる。肉体が弛緩する。しかしオレの意識は保たれている。
         それが他の人間にとって珍しい状況であり、金縛り等と呼ばれ心霊現象と結び付けられていることを知ったのは、小学校低学年の頃だったと思う。今もあるのか知らないが、当時は我が母校にも七不思議が存在した程に怪談が流行しており、お化けやら幽霊やらといった話題に事欠かなかった。クラスに一人飛び抜けて怪談に詳しい女子がいて、「金縛り」という単語は彼女の話で聞いて知った。それだったら自分もほぼ毎日遭っている、と漏らした直後、周囲の好奇と疑念の入り混じった眼差しを受け、失言であったことを悟った。その場は曖昧に濁して事無きを得たが、自分の脳裡にあったのは、母親から与えられ続けた「お前は変だ」というレッテルを回避することだけだった。思えば家族以外で自己と他者の間に走る深い亀裂を垣間見たのは、あれが初めてだったのかもしれない。帰宅して、弟と兼用だった子供部屋の学習机に肘を突き、今後は無闇矢鱈に自分を曝け出さぬよう細心の注意を払おうと決意した。
         だから未だ打ち明けられずにいる。サキを始めとするわたしの友人は勿論、恋人と成り得た男や、恩師、家族でさえもオレを知らない。
         ただ一人、彼女を除いては。
         意識の末端が黒く霞み始め、眠気を認識する。存在しない瞼をゆっくりと閉じ、開き、再び閉じ、繰り返している内に瞼という境界が消失し、オレは先刻まで見ていた物に、部屋に、世界に滲むようにして溶けていく。オレは自分が眠ったことを知った。



        「自分で死ぬなんて、勿体無いですよね」とチカは言った。
         駅のホームに備え付けられたベンチ、五席あるそれに俺とチカは二つ隔てて座る。彼女は現役女子高生でいつも参考書を読んでいる。オレはオレでスマホを突っつきながら、どこの誰だか判らない小説家志望の青年の書いたブログ記事を目で追う。お互いに視線を合わせることは殆ど無い。
        「明日交通事故で死ぬかもしれないし、一時間後に地震で死ぬかもしれないし、一秒後に隕石が落ちてきて消えて無くなるかもしれないじゃないですか」
        「取り敢えず一秒後には死ななかったな。重畳、重畳」
        「人を小馬鹿にするのは止めて下さい。……兎に角、自殺は勿体無い。いつか分からないけど必ず死ぬんだから、ゆっくり待ってれば良いじゃないですか。何でそんなに死に急ぐ必要があるんですか」
        「放棄したい位、生存が苦痛なんだろ。或いは苦痛と錯覚して、自分は不幸だと思い込んでいるんだろ」
        「生きることが苦痛を伴うのは当たり前じゃないですか」
        「あんたにとっては自明でも、多くの人にとっては自明でないかもしれない。それに苦痛は本人にしか測れない。あんたの苦痛と、誰某の苦痛は比較できない」
        「それくらい知ってます」
        「知ってても、解ってねえんだよ」
         眉を寄せる気配がした。オレは夏のことを思い出した。

         今年に入った頃から、日増しに募る飢餓感に堪え切れず「外食」するようになっていた。その内わたしが知っているのは三分の一程度だ。
         あの夏の晩も、オレはわたしに隠れて出掛けた。
         川沿いにある広い公園を徘徊し、目を付けたのは何やら思い詰めた顔をした苦そうな男だった。人気の無い場所で食らい付いてやろうと後を追っていると、思わぬ誤算があった。男が一人の女に声を掛け、並んで歩き始めたのだ。
         二人は多い。一人食ってる隙に、もう一人に逃げられるだろう。オレは二人が橋の影に入り込んだところで舌を打ち、新たな獲物を探そうとした。その時、突然男が女の腕を掴んだ。抵抗する女を無理矢理川へ引っ張って行く。助けて、と叫ぶ女の口を押え、殴り掛かる。
         オレは少し離れた土手の上で茫然とそれを眺めていた。どうしたもんかな、等と思っていると、不意に女と目が合った。その眼差しは助けを乞うでも、傍観者を非難するでもなく、ただ真っ直ぐにオレを見ていた。オレが助けることを確信しているようでもあったし、全てを諦め降り掛かる不条理な暴力を受け入れているようにも感じられた。
         結局オレは男を食って、女を助けた。目の前で男が生ける屍と化しても、女は驚かなかった。口に溜まっていたらしい血を吐き捨て、目の下にできた痣に触れて眉を寄せると、有難う、と小さく呟いた。次いで、「どうやったの?」と訊ねてきた。オレはそこで生まれて初めて自己紹介したのだった。
         オレ達は二言三言交わして別れた。二度と話すことは無いだろうと思っていたが、数日後、駅のホームで再会した。わたしがベンチに座って電車を待っていると、頬に大きめのガーゼを貼った女子高生が一番端の席に腰掛けた。慌ててわたしを眠らせるオレに、真っ直ぐ前を見たままでこう言った。
        「まさか謎の生命体さんが同じ駅を使ってるとは思いませんでした」
        「人をUMAみたいに言うんじゃねえよ」
        「違うんですか?」
         こうしてオレはチカと知り合った。
         今思い出しても不思議なのだが、初めて会った時、何故オレはチカを食わなかったのだろう。男を食った時点では、取り敢えず両方食っちまえば良いかと思っていた。余りの空腹に判断能力が鈍っていたとは言え、負傷した彼女を食うのは簡単だった筈だ。オレの身の安全を確保するためにも、食っておいた方が良かった。しかし、オレはそうしなかった。
         何故だろう。あの日から繰り返し、殴られていた時のチカの眼差しを思い出す自分がいる。

        JUGEMテーマ:小説/詩


        * 続きます >> 付箋 二枚目
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          ふせん

          黒猫
          stationery

           わたしは黒猫を探していました。黒猫と言っても毛むくじゃらでにゃあにゃあ鳴く生きものではありません。パン屋さんの名前です。クロワッサンがおいしいと評判のお店です。彼もクロワッサンは嫌いじゃないらしく、一口くれと言ってきました。
          「いいけど、そのかわり」
           口癖になりつつある条件をつきつけます。彼もお決まりの返事をします。お前はこれから好きなだけ服を手に入れられるが、かわりに飯を食うな、と言われて頷けるのか? いつも通り、わたしは答えることができません。
          「ところでだいぶ前に、地図を読めない女、とかいう本がベストセラーになったよな。男と対になってて……男のほうは忘れたけどよ。あれもずいぶん偏見に満ちたタイトルじゃないか? 女だって地図を読めないやつもいれば、読めるやつだっているだろう、それを男は読めて女は読めないみたいな極端なことを言いやがる。そういう傾向がある、とかなんとか言ってな。多数決やってんじゃねえよって思うだろ? 少数派を切り捨ててまで主張する価値のある話かね」
           わたしは大股で歩いて、角を曲がりぎわ「うるさいな」と呟きました。
          「わたしが方向オンチだってことくらいわかってるから、だまって」
          「はは、なんだよなんだよつまんねえの。べつにオレは方向オンチが靴をはいて歩いてるなんて、ひとことも言ってないぜ。
           それともあれか、先輩のこと、まだ怒ってんのか?」
           わたしは答えません。ブーツでアスファルトをたたく音だけが乱暴に響きました。
          「いちおう、オレだって悪いとは思ってるんだぜ。だからほかのやつらに見えない場所を選んだわけだし、あれでも我慢したほうだ。もちろん欲求不満が解消されるレベルでだけどな。まあそれでも、ああいう結果になっちまったことは反省してるよ」
          「聞きあきた。口だけ」
          「本当に反省してるんだって。信じてくれよ。……なんて言ってもバレバレなんだよな。なんせそういうふうにできてるんだから。なあ、おい」
           わたしは大きな扉の前で足をとめました。看板には"stationery"と書かれています。
          「もうわかったから、黙りなさいよ」
           そして、扉を開けて中に入りました。
          「おいおい、探してるのはパン屋だろ? ここ文房具屋じゃん」
          「お店のひとに道を聞けばいいじゃない。あと、わたし三色ボールペンほしい」
           そのお店はそとから見た感じよりもひろびろとしていました。奥には棚がずらりと並んでいて、壁はどこかの雑貨屋さんみたいに天井まで文房具で埋めつくされています。迷路みたいにいりくんでいて全体が見渡せません。レジに立つ店員さんは、どこかキツネのお面に似た顔つきの女のひとでした。お客さんの姿は見えません。
           彼がとなりでにやりと笑う気配がしたけれど、わたしはムシして迷路に足を踏みいれました。

          迷路
          ノートのひと
          ペンギンのふせん

           三分後。わたしは店内で迷子になっていました。彼の笑い声がカンにさわります。
          「うるさいわね」
          「オレなんも言ってねえし」
          「思いっきり笑ってたじゃない」
          「あ、わりい無意識だった。失礼」
          「にやにやしながら謝ったって説得力ない」
          「いやーしかし本当迷路だなこりゃ」
          「……ホントは道わかってるんじゃないの?」
          「まさか。性格は真逆でもスペックは同じだっていつも言ってるだろ。ま、知ってても教えないけどな」
          「最低」
          「自業自得だろ。素直にペンのコーナーで選んで出ればよかったのによ」
          「あっ、誰かいる! 道聞こう」
           グレーのワンピに青いパーカーを羽織った女のひとが見え、思わず指でさしてしまいました。近づきながらなんて話しかけようか悩んで、けっきょく思いつかなくて「店員さん、じゃないですよね」と間の抜けたことを言いました。背後で彼のふき出す声が聞こえて、自分のほっぺたがひきつるのを感じました。
           道をたずねると、女のひとはどもりながら丁寧に説明してくれました。よく覚えてるなあ、と素直に感心します。お礼を言ったあと、いつものくせで「何を探してるんですか」と聞いてしまいました。そのひとはノートを探していて、でも見つからないんですと答えました。
           女のひとにもういちどお礼を言って、教えられた道を戻ります。
          「またよけいなことしちゃった」
          「まあ、べつに怒ってなかったし、いいんじゃないか」
           怒ってはいなかったけれど、不快にはさせたと思う。
          「それにしても、さっきの女、妙だったな」
          「なに? まさか、また?」
          「いや、ああいうタイプは趣味じゃない。そうじゃなくて、何度か目が合った気がするんだが」
           わたしは、ふうん、と適当なあいづちを打ちました。
           出口へ向かうとちゅう、山のようにふせんが並んだ棚がありました。わたしはそこで足を止めて、いろいろな動物をかたどったふせんを順番に見て、その中からペンギンの形のものを手に取りました。そして、ボールペンコーナーで選んだ三色ボールペンといっしょにレジに持っていきました。

          コールサック
          光の束
          サキとの会話

           次の日、わたしは大学時代の友だちのサキといっしょに喫茶店「コールサック」に来ていました。
           少し前に彼がこのへんをぶらついていて気まぐれで入ったお店らしいのですが、ここのコーヒーはとてもおいしいのです。彼いわく、クリアでいて軽すぎず、苦みの中にほのかな甘みを感じる、とのこと。ふだんあまりコーヒーを飲まないわたしも、ここのコーヒーはおいしいと思うのですが、今日はホットココアを頼みました。彼はとなりで、なんてやつだ、ありえない、とぶつくさつぶやいています。来るたびにわたしのぶんを横取りするほうがいけないのです。
          「しかしコーヒーほどの感動はないにせよ、ホットココアも絶妙な甘さでうまいときたから困ったもんだな」
          「ちょっと! 飲まないでって言ってるでしょ」
          「今までホットココアなんてどこで飲んでも同じだと思っていたが認識をあらためざるをえない」
          「認識よりも、ひとのを平気で横取りする精神をあらためなさいよ」
           彼はサキが飲んでいるコーヒーをうらやましげに見ています。わたしはココアをひとくちすすって、サキに話しかけました。
          「そういえばこのあいだ読んだ本にね、光の束って単語が出てきたんだけど」
          「なんかそれが頭に残ってて。最近お店にいるときとか、今みたいなとき急に思い出して、ずっと気になってるの。言葉がわたしのどこかに貼りついてるみたいな」
          「なんかそれって、ふせんみたいだなって思ったんだ」
          「そっか」とサキはそっけなく答えます。
          「お前らってよくわからんな」と彼は言いました。「お前はいつも、この女にいろいろなことをしゃべるだろ? でもこの女はしゃべらないし明らかに話を聞いてないときすらあるぜ。今だってそうだ」
          「知ってる。サキって聞いてるふりするのへただよね」
          「聞いてなくていいのかよ」
          「べつに、話せればいいよ」わたしは笑って言いました。「返事がほしいときは返事がもらえるように話すし、そうすればたいてい返してくれるから」
           彼は、聞かれない話をしゃべるなんて、ひとりごちているのと変わらねえじゃんか、とまだぶちぶち言っています。スペックが同じでも、共有できないところもあるのです。
           わたしはそれから、きのう文房具屋さんで会った女のひとのことを話しました。とちゅうでサキが黙りこくってしまったので「ね、聞いてる?」とたずねます。「もちろん」という返事はあきらかに嘘でした。「ならいいんだけど」と言いながら、たった今、わたしは何を聞いていてほしかったんだろう、と自問します。自分でもよくわかりませんでした。

          ギター弾きのひと
          遊園地
          あやつり人形

           紺色のコーデュロイのシャツを着た男のひとが、お店の奥でギターを弾きはじめました。もの悲しいメロディに聞き覚えがあり、何かの映画の曲だと思ったのですが、タイトルは出てきませんでした。サキがずっと男のひとを気にしているので、わたしも黙ってうしろから聞こえてくる曲に耳を傾けました。
           曲が終わってわたしたちは拍手をしました。男のひとは顔なじみらしい女のひとと何やら話をして、「明るいのを」といって次の曲を弾きはじめました。わたしはサキに小声で話しかけましたが、彼女はまっすぐ男のひとを見ていて、耳にはギターの音しか届いていないようでした。しかたなくわたしもふりむきました。
           ギターの音色を聞きながら、幼いころのことを思い出しました。
           六歳ぐらいのとき、遊園地で迷子になったことがありました。当時のわたしは、前の晩に眠れなかったくらい遊園地を楽しみにしていました。当日も嬉しくてはしゃぎすぎてしまい、気がついたらとなりにいたはずの両親と弟がいませんでした。今思えば、そのころから方向オンチだったのかもしれません。まわりの子どもたちは家族や友だちといっしょに楽しそうに笑っていて、わたしだけが無人島に置きざりにされたような気分でした。母親は、わたしが誰かの手をわずらわせることにひどく抵抗があったようで、何かにつけ「迷惑になるから」「迷惑をかけるんじゃないよ」とわたしに言いました。そのこともあって、まわりの大人に頼ることもできず、話しかけられたら走って逃げました。迷子センターの場所は知りませんでしたし、知っていても行かなかったでしょう。逆に両親が探しているというアナウンスもかかりませんでした。わたしは弟が乗りたいと言っていたアトラクションを思い出し、どうにかその場所にたどり着くと、人目につかないところでじっと待ちました。たくさんの知らないひとたちがいて、わたしとは無関係に生きているということを、おそらくそのとき初めてわたしは意識しました。そのあとけっきょく、閉園時間がきて係員さんにつかまり、遊園地の入り口に連れていかれて家族と再会しました。母親に大声で叱られ、ほっぺたをぶたれたような気がするのですが、あまり覚えていません。たぶんどうでもいいことだったんだと思います。
           そういえばあのころはまだ彼もいなかった、とわたしは思い、となりにいる彼を見やりました。すると彼も、サキと同じようにギター弾きの男のひとを見つめていました。ただ、その視線はサキのようにまっすぐではなく、おさえつけられた欲望にゆがんだものでした。
          「ああ」彼はこらえきれないというように声を上げました。「うまそうだな。本当にうまそうな音だ」
          「やめて」とわたしは反射的に言っていました。体の向きが変えられないことに気づき、強い寒気に襲われました。
          「わかってるって。言っただろ、場所は選ぶ」
           場所とか、そういうことではありませんでした。もちろん彼はそれも理解したうえで言っているのです。
          「とりあえずしばらく堪能させろよ」
           曲が終わると動けるようになりました。わたしは軽いめまいを覚えながら拍手をしました。ぼんやりとしているサキに、このあいだ見た映画のことを話しましたが、自分でも何を話しているのかよくわかりませんでした。もう帰ろう、と思いました。立ち上がれるか不安なくらい気分が悪かったので。
           でも、わたしの口から出た言葉はそれと正反対のものでした。わたしはギター弾きの男のひとを見てばかりいるサキに、こう言ったのです。
          「そんなに気になるなら、話を聞きに行こうよ」
           彼が下品な笑みを浮かべています。わたしは全身の力が抜けていくのを感じました。そうです、彼がやっているんです。人形をあやつるようにしてわたしを動かし、思ってもいない言葉を口にさせているのです。強引にサキの腕をつかんで、ギター弾きの男のひとに近づいていきます。これはわたしじゃない、映画のスクリーンを見ているような、わたしはそんなふうにしゃべらない、わたしはそんなことしない、わたしは、わたしは。
           わたしは目を閉じました。

          走り去る電灯
          音の球
          誰かいる。

           目を開くと、わたしは駅のホームに立っていて、笑顔でサキに向かって手を振っていました。電車のドアが閉まり、手を振りかえす彼女を見送ってから、あたりを見回します。ホームにはたくさんのひとが並んでいます。飲み会が終わったおじさんたちのグループ、水族館の魚みたいな目をしているラフな格好の男の子、疲れた顔の女のひと。
          「勝手に寝てんじゃねえよ」と彼が言いました。
          「あんたこそ、勝手に動かさないでよ」
          「びびりすぎなんだよ、お前は。あんなにおおぜい集まってる中で食えるわけないだろうが」
          「じゃあなんで」
          「探りだよ。サキが話したそうにしてたから、そのついでだ」
           まもなく列車がまいります、というアナウンスが流れました。ぷあん、と警笛が鳴って電車がホームに入ってきます。ドアが開くと降りるひとはほとんどいなくて、乗りこむとほぼ満員になりました。電車が動きはじめます。あちこちから話し声があふれて車内に溜まり、お酒のにおいが混ざって熱を帯びました。
           ふいに、「はずれだよ」と彼が言いました。わたしが首をかしげると、「あいつは食えん」と苦々しそうに吐き捨てました。
          「嬉しそうな顔するんじゃねえよ。いらいらする」
          「べつにしてない」
           彼と話していると、まわりのひとたちの話し声やその姿まで遠くなって、シルエットの中で一人電車に揺られているような気分になりました。等間隔にならんだ電灯が、右から左へ、びゅん、びゅんと走り去っていきます。カメラのフラッシュがたかれたみたいに、シルエットが一瞬だけ、明るく照らされます。車輪が線路の上を走る音と合わさって、誰かの曲のビデオクリップみたいだと思いました。
           最寄りの駅で電車を降りて、駅前のコンビニで明日の朝ごはんを買って、大通りを曲がってアパートまでの道を歩きます。住宅街は静まりかえっていて、靴が昨日のお昼よりも大きな音を立てて鳴りました。音の球が新築のきれいなおうちや高いマンションの壁でバウンドして、夜道をジグザグに走っていくような錯覚に襲われるのでした。
          「おい」と彼が言いました。「誰かいる」。路肩に停められた車のかげに人の気配を感じます。
          「食わせろよ」
           わたしは返事をするかわりに、小さくためいきをつきました。
          「あのなあ、おれだって我慢してるんだぜ、明らかにまずそうじゃねえか、ホントはもっとうまいやつを食いたいのに」
           まくしたてる彼をさえぎって、わたしは言いました。
          「あぶなくなったらね」
          「了解」
           車から少し離れたところを歩きながら、一瞬だけ横目でその相手を見やります。安っぽい黒い上着を着た、四十代か五十代くらいの男でした。ずっとこちらをうかがっていたのか、ぎらぎらと光る目と目が合い、すぐにそらしました。
           通りすぎるかすぎないかというところで、男が声をかけてきました。どもりながら、なあとねえのあいだみたいな中途半端な音で。それを合図にわたしは走りだしました。
           男が叫んで追いかけてきます。荒い息をはきながら、だんだん近づいてくるのがわかります。わたしの腕をつかもうと手を伸ばしています。
           わたしはあきらめて速度をゆるめました。
           目を閉じて、振り返ります。
           彼が大きく口を開くのがわかりました。









           まぶたを開くと、男は道のまんなかで立ちつくしていました。ねばっこい視線を投げていた目は、今はどこも見ていませんでした。
           わたしはしばらくようすを見てから、何もなかったみたいにアパートへ向かう道を歩きはじめました。念のため少し遠回りをしましたが、よく考えたらそうする意味はありませんでした。
           アパートの鍵を開けて中に入り、すばやく鍵をかけます。靴をぬいで、ベランダや窓の鍵はもちろん、部屋のすみからすみまで、おかしなところはないか確かめました。それから手洗いとうがいをして、お風呂の蛇口をひねります。お湯がどぼどぼと出て、ゆげがたちました。
           お湯がたまるのを待ちながらテレビを見ていたとき、ふと思いついて昨日買ったふせんを袋から出しました。ボールペンも出して、なんて書こうか少し悩んで、けっきょく何も書かずに一枚ぺろりとはがしました。ペンギン型のそれを、自分の額に貼りつけます。
          「何をしとるんだお前は」
           彼が言います。
          「べつに」と言ってわたしは笑いました。
          「わたしペンギンになりたいんですアピールか。どんだけイタイ子だ。それともついに頭の具合が悪くなったか」
          「うるさいな」
           ふせんのくせに。
           頭の中のひとりごとは届かなかったみたいで、彼は吐きだすようなしぐさをしながら「それにしてもあいつまずすぎるだろ……食いながら死ぬかと思った」と言いました。
           わたしは、ふうん、と適当なあいづちを打ちました。

          JUGEMテーマ:小説/詩


          * 夜の茶会シリーズ(キョウコの場合 Side A)
           Side Bはこちら→ 付箋 一枚目
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            遺書、あるいは交換日記 後編

            前編 <<

            □□□□□□□□

             それから彼女は、二日に一度くらいのペースで僕に遺書を渡してくるようになった。図書館で本を読んでいると、すぐ隣の席に座って僕をどぎまぎさせ、謎のメモ用紙を残して去っていく。三度目、四度目はまだ驚いていたが、五度目ともなると慣れてくる。隣に座られることには抵抗があるし気になってしょうがないけれど、表面上平静を取り繕い、本の内容も頭に入るようになってきた。
             彼女から受け取った遺書の文面は下記の通りだ。

            「私は死にます。太陽が眩しかったから。」
            『異邦人』か。中学の頃に読書感想文を書かされたっけ。

            「私は死にます。リピートアフターミー。」
             私は死にます。いや、殺すなよ。

            「私は死にます。私は死にます。」
             なぜ二回言った。そんなに大事か。

            「私は死にます。ご愛読ありがとうございました! 次回作にご期待ください!」
             打ち切り? もしかしたら今回は本気なのかと思ったら、二日後しれっとした顔で図書館に来て隣に座っていた。次の連載が始まったんだな、と思った。

            「私は死にます。だが私が死んでも第二、第三の私が現れ再び死んでいくでしょう。」
             悪役の捨て台詞かと思ったら、結局死ぬのかよ。

             そして今日、どういうわけかお気に入りの喫茶店に彼女が現れた。まさか尾行されていたんだろうか。僕は彼女の何を知っているわけでもないのに、うん、やりかねない、などと思った。彼女は僕からギリギリ見える席に座り、すました顔で本を読んだり何かを書いたりしているようだった。おかげで気になってコーヒーを飲んでも味がわからないし、また本の内容が頭に入ってこないし、ちっともリラックスできなかった。落ち着かないままトイレに立ち、今に至る。
             もう一度ノートを見る。とりあえず鞄から今までの七枚を取り出し、さっき拾った貸し出し許可書と一緒に表紙裏に挟んだ。一枚目から読み返しながら考える。いったい彼女は何がしたいんだろう。読み終わるとまた最初から読み返す。三回読んでもさっぱり見当がつかない。それどころか、このペンは水性だろうか油性だろうかとか、ころころしててかわいい字だなとか、思考が逸れ始めた。脳内で少年探偵がボイスチェンジャー越しに「ヒントは、それぞれのメモに含まれていたんですよ」とか言い出して、「まさか、全ての末尾の文字を繋げると文章が!?」出てこなかった。思いつく限りの暗号のパターンを当てはめてみても表れるのは謎の呪文ばかり。考えるのに疲れて、僕は単にからかわれてるんじゃないか、実は今も僕のうろたえる様子をどこかから覗き見てほくそ笑んでいるんじゃないかなどと疑心暗鬼になりだしたので、ノートを閉じてカウンターに伏せた。コーヒーを一口飲む。冷めてもおいしいコーヒーはいいコーヒーだ。読みかけだった本に手を伸ばす。
             本を開くと同時に、からんからんと音がして客が入ってきた。灰色の地味なワンピースに紺のパーカーを羽織った女の人だった。カウンター席に着くところまで視界の端で確認し、あとは読書に没頭していたのだが、ページを捲った時に目が合った。こちらをガン見していた。というかまるで親の仇を見るような目で睨んでくる。え、僕、何か気に障ることしましたか。
            「えっと、なんでしょう?」
             声をかけると女の人は彼女のノートを見せてほしいと言ってきた。借りものなのでと断ったがずっと探していた理想のノートかもしれないんだとか何とか、しつこく言い寄ってくる。女性からこんなに熱心に迫られたのは生まれて初めてだったが、なぜだろう全然嬉しくない。求められているのが僕ではなく彼女のノートで、しかも目の前の女の人も彼女に負けず劣らず変な人っぽいからだろうか。類は友を呼ぶというがノートでも呼ぶらしい。ラッキーアイテムは顔見知りの女の子のノート、持っているだけでいろんな人から声をかけられちゃいます! こんなモテ期は嫌だ。
             途中でマスターがカップを持って近寄ってきたので、僕は視線で「お願いです助けてください!」と訴えた。しかしマスターは女の人にカップを差し出し、二人を交互に見てから「君も大変だな、ま、がんばって」みたいな目をして去っていった。マスタアアアアアア嗚呼!
             しばらく女の人と小競り合いみたいなことをした後、中身を見せずに特徴だけ教えるということでなんとか納得してもらった。しかしなんと、ノートには伝えるべき特徴がどこにも記されていなかった。そう告げるとまたぎゃーぎゃー言い始めたので面倒くさくなって「自分で作ればいいじゃないですか」と言ったら、頭の上で豆電球がついたみたいな顔をして離れていった。本当に最近、何なんだろう。溜め息が出た。
             ただ一つ、その人の言葉が頭の中に引っかかっていた。ノートのことを交換日記かと訊ねられたのだ。
             交換日記。読書を再開しながら、僕の頭の中でその単語がぐるぐる回っていた。常連のお兄さんがギターを弾き始め、珍しいなと思いながら一曲聞いて店を出る。ドアに「夜の茶会やってます」と書かれたボードがかかっていた。そこでようやく、自分が三時間も喫茶店にいたことに気づいた。とっくに読み終わっていていいはずの本が、半分も読めていなかった。

             翌日、彼女は図書館に来なかった。
             二日目も来なかった。図書館で、本の内容が頭に入ってこないまま、二時間いっぱい待った。彼女に借りたノートを本と一緒に鞄に仕舞い、バイト先に向かう。道すがら思い返してみて、初めて会ってからまだ三週間ちょっとしか経っていないことに気づいた。少し意外だった。理由はわからないけれど、もっと長い期間、僕は彼女からメモ用紙を受け取り、ただ読むことを繰り返していたような気がした。ちょっと前まで隣に座られるたびにびくびくしていたのに、慣れたら今度は会わないと落ち着かないとか、どうかしている。まあいいや、明日になればきっといつものすました顔で隣に腰掛け、メモ用紙を置いていくに違いない。そう思うことにした。
             しかし三日目も彼女は来なかった。
             図書館を出ると外はすっかり暗くなっていた。風がやけに冷たい。街灯の下に積った枯葉のくすんだ赤や橙色、それらが風に揺れて立てるかさかさという音が、目や耳から飛び込んでくる。いつの間にか秋が来ていたんだな、と思った。どうして今まで気づかなかったんだろう。
             バイトの予定もそれ以外の予定もないがこのまま帰る気にはなれなかった。明かりに吸い寄せられる蛾のようにふらふら歩いて、喫茶店のドアを開ける。なんだか珍しく賑やかだ。スーツ姿の男女が六人くらいで騒いでいる。合コンとかいうやつだろうか、何にせよ僕には関係ないことだった。席に着く。ブレンドを頼む自分の声がやけに乾いて聞こえた。
             ノートを開く。繰り返し読みすぎて一字一句覚えてしまったメモ用紙を、もう一度読み返す。ドアチャイムが鳴ってギター弾きのお兄さんが俯き気味で入ってくる。両目にかかった髪の毛がじっとりと濡れているように見え、外で雨が降り出したのかと思った。メモ用紙に視線を戻す。ギターを調整する音。二枚目の裏に書かれた文字列が僕の目に引っかかる。
            「しかばねにへんじはない。」
             一方通行の文章。答えのない問いかけ。
             喧噪の中で、囁くようなかすかな音色が響いた。僕はおもむろに、授業で使っている安いシャーペンを取り出して構えた。手が震える。背後で美しい旋律が何度も繰り返され、徐々に大きくなっていく。

            □□□□□□□□■

             それからさらに三日が過ぎた。貸し出し期限は明日までだ。きっと図書館に来てくれるだろうと信じている。
             彼女はこれを見て、どんな顔をするだろうか。気持ち悪いと思われるかもしれない。それはしょうがないと思う、僕も自分でちょっと気持ち悪いし。ネタにマジレスですかとか、釣られてるしとか、そう言って嘲笑うかもしれない。そうならそうで構わない。しつこいし、気持ち悪いし、くそまじめだ。いらなかったら捨てればいい。なんで勝手に人のノート使ってるんですかって怒られたら僕の勝ちだ。何が勝ちなのかよくわからないけど。
             気づいてしまったら、忘れることはできないんだと思う。答えのない問いは問い続けるしかないんだと思う。しっくりくる答えを見つけたら儲けもんだし、一度見つけたとしても、いくらでも覆されるものだと思う。
             それは当たり前のことだ。当たり前すぎて、誰も口にしないことだ。耳にしたらそのまま困ったような顔で有耶無耶にされてしまうような、沈黙に吸い込まれていってしまうようなことだ。
             だからせめて、僕も当たり前のことを言おうと思う。これが彼女にとってしっくりくるものかどうかはわからない。少なくとも今の僕にとってはそうだけど、こういうのはやっぱり自分で探すしかないんだと思う。

             僕は死にます。意味はありません。
             きみも死にます。意味はありません、ときみは言うけれど、僕にとっては意味があるんだと思います。
             それから、きみも僕も、死ぬまでは生きています。

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            * 夜の茶会にて(メガネの学生の場合)
            * 月曜さんのある日の一言から
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              遺書、あるいは交換日記 前編

               行きつけの喫茶店でトイレから戻ると、ちょうど彼女が店を出て行くところだった。マスターからお釣りを受け取って「ごちそうさまでした」と微笑む。席に戻ろうとする僕が、出て行く彼女を追うような形になる。
               彼女が入口のドアのノブに手をかけた時、グレーのスカートの縁をなぞるように、ひらりと一枚の紙が舞い落ちた。チャイムが鳴ってドアが閉まる。ガラスの向こうの彼女が、口の端を持ち上げていたずらっぽく笑ったような気がした。見間違いかもしれない。彼女は紙を落としたことに全く気づいていないようで、すぐにその場を立ち去った。
               僕は紙を拾うと、席について覗きこんだ。見慣れたメモ用紙に、きれいな字で「貸し出し許可書」と書いてあった。その下には「お貸しします。貸し出し期限は一週間です。」とある。
               何のことだろう、と首をひねったところでマスターと目が合う。
              「お知り合いですか?」
              「えっ」
              「さっきの子。違いました?」
               マスターはにこにこ笑っている。
              「ええと」僕は少し考えてから答えた。「顔見知り、みたいな」
               口にしてみると妙な納得があった。顔見知り。僕と彼女の関係はおそらくそれ以上でもそれ以下でもなかった。
              「置いていかれましたよ、それ」
               マスターの指し示す先、さっきまで読んでいた本の上に、文庫本と同じくらいのサイズのノートが重ねられていた。白の油絵の具を塗り重ねたような、でこぼこした表紙。少し迷ってから手に取り、一枚捲る。何枚か破られた跡があり、左のページに文章が書かれていた。

              「私は死にます。思い残すことはありません。私がいなくなったらドラちゃん(犬です)の散歩を誰がするのかとか、そういえば中学のときのクラスメートに本を貸したまま返ってきてなくて早く返せよとか、夏の最終セールで買ったかわいいワンピけっきょく一度も着てないとか、まったく思ってないのです。」

              「思い残すことありまくりじゃねーか!」「死ぬ気ないだろお前!」「犬なのにドラちゃんかよ!」
               喉まで出かかった数多のツッコミをこらえ、グラスに口をつけて水で流しこむ。落ち着け、落ち着くんだ自分。
               何しろ、彼女の「遺書」はこれで通算八枚目なのだ。



               彼女とは図書館で出会った。
               僕はよく図書館を利用する。高校までは図書室に入り浸っていたが、今通っている専門学校の図書室にあるのは専門書がメイン。小説なんてほとんどない。なので暇さえあれば市の図書館に行く。お金がなくても本が読める。高いしかさばるしで買うのは憚られる新作単行本であっても読み放題だ。人気作家でも予約してちょっと待てば読める。しかも静かで読書にうってつけの空間。本の匂い。図書館は最高だ。
               九月の終わりくらいの水曜日だった。毎週水曜日は午後の授業が終わってからバイトに行くまで二時間も暇があるので、心ゆくまで本を読むことができる。机の窓際の席に座って、分厚い海外文学作品を読んでいた。ページを捲り、ときどき顔を上げて窓の外の風景を眺める。図書館の隣に大きめの公園があって、スーツ姿のサラリーマンが缶コーヒーを飲んでいたり、おじいさんおばあさんが並んでウォーキングしているのが見えた。今年の暑さは空気が読めないらしく、暦の上では夏が終わったというのにまだ居座っていて、半袖を着ている人が多い。
               一時間ほどたち、窓の外が夕焼け色に染まり始めた。本はちょうど真ん中くらい。ページを捲った瞬間、ふと視界の隅に何かが入りこんだ。手だった。細い指の、白くてきれいな左手。机の上で、メモ用紙を一枚つまんでいる。本越しにそれを見つけ、何気なく右隣を見た。
               すぐ近くに女の子が座っていた。というか、近すぎた。うわっ、と思わず退く。突然のハプニングにも場所をわきまえて声を上げなかった自分を褒めたいくらいだ。
               彼女はそのとき夏用の制服を着ていた。高校生か、髪の毛長くてつやつやだな、それにしても近くないですかと僕は思った。ちょっと強そうなつり目で、視線はまっすぐ前に注がれている。机に手を置いたまま微動だにしない。
               人にはパーソナルスペースというものがある。そこに入られると落ち着かないエリアのことだ。一般的には女性よりも男性の方が広いとか言われるけれど、僕の場合はどうやら平均よりさらに広いらしい。図書館の机は片側に椅子が四つ並んでいて、真ん中に仕切りがあって向かい側にも四つ並んでいる。誰かが座っていたら、たいてい一つか二つ開けて座る。真正面に人がいる席は避ける。僕は窓際の席が好きだけれど、その三つの条件を全て満たすことは稀だ。
               その日僕が座っていた席は、そんなシビアな条件をクリアした世にも貴重な席だった。しかも僕が訪れたとき、こちら側は四席全てが空いていたのだ。読書の秋などと嘯く人々が図書館に押し掛け始めるこの季節、これはほとんど奇跡と言ってよかった。そんな奇跡的な席が今、無遠慮に侵され壊されようとしている。こんな理不尽なことがあっていいだろうか(いや、ない)。
               パーソナルスペースを侵されたショックに暴走する僕の脳は、高速でそのようなことをつらつらと考えた挙句、現状への早急な対策が必要であるという結論に達した。しかしこの奇跡的な席を捨てて立ち去るのは惜しく、何よりも歯がゆかった。それすなわち敗北である。一方的な領域侵犯を許してはならぬ、今こそ立ち向かう時、などと奮い立った僕が取った手段は、割としょぼいものだった。回避、すなわち窓のある左側に椅子を寄せたのである。そうすることで暗に「近いですよ」という意思を示し、相手の良心に訴えかける、とか何とか言えば聞こえはいいが、要は面と向かってむこう行ってくださいと言えないチキンなだけだ。
               しかし彼女は僕の意に反し、そんな僕のしょぼい抵抗とチキンな内心を嘲笑うかのような行動に出た。
               椅子を寄せてきたのだ。
               その瞬間の衝撃たるや、筆舌に尽くしがたいものだった。それでもあえて言うならば、百ページを超えるのではないかと思しきありとあらゆる描写を駆使した叫びが僕の脳内で膨れ上がり爆発し、生じた強大な重力がその叫び自体を飲み込みブラックホール化して周りの理性とか常識とかの光を吸いこむほどだった。思考力を失った僕は硬直した。叫びださなかったのは不幸中の幸いであった。何しろそのときは図書館愛すらも見失っていたので。
               僕が顔を上げて口を開いてぽけーと固まっていると、彼女は満足したのか飽きたのか席を立ち、すたすたと歩いて行ってしまった。僕は急に寒気を覚え、いつの間にか汗だくになっていたことに気づいた。今のはいったい何だったのか、いや考えるのはよそう、もう今日は切り上げてバイトに行こう。そう思って本を閉じた時、かさりと手が何かに触れた。
               それは彼女のつまんでいたメモ用紙だった。僕はそうと認識するよりも早く手に取り、ひっくり返した。
               今思えば、どうしてあんな軽はずみなことをしてしまったのだろう。メモ用紙にはこう書いてあった。

              「私は死にます。意味はありません。」

               視線を感じ、彼女の歩いていった方を見やる。少し離れた本棚の陰からこちらを窺っていたが、目が合うとすっと隠れた。見えなくなる瞬間、彼女がいたずらっぽく笑ったような気がした。見間違いかもしれない。慌てて席を立ったけれど追いつくはずもなかった。

              □□

               二度目も図書館だった。
               衝撃的な領域争いの後にうっかりメモを手に入れてしまってから一週間が経っていた。図書館に行く時は必ずメモ用紙を鞄に入れて持っていった。もし彼女を見かけたら返して謝ろうと思ったのだ。他人の日記を勝手に覗いてしまったような後ろめたさを感じ、それは僕の中で日に日に膨らんでいった。記憶の中、本棚の陰に立つ彼女は軽蔑の眼差しを向け、私物と分かっていながら確認するのは人としてどうなんですかと追及してくる。胃が痛い。頭の片隅で気にしすぎだと分かっていても気にしてしまう性分なのだ。
               というわけで、一週間ぶりに図書館で座って本を読んでいる彼女を見つけたとき、僕は他の席が空いているにも関わらず二つ隣の椅子に腰を下ろした。
               そこからが長かった。どう切り出せばいいのかわからない。とりあえず持っていた本を開いて字面を追いながら考えるけれど、思いつくどの言葉も不自然な気がするしそもそも僕に話しかける資格があるのか、なんて思えてくる。当たり前だが本の内容はちっとも頭に入ってこない。
               そうこうしているうちに彼女が席を立ち、僕は慌てて彼女の方を向いて「あ、あの」と話しかけていた。「その、このあいだは」
               すると、彼女は左手を挙げて僕を止めた。無表情で見下ろし、人差し指を立てて唇に当てる。
               彼女が横を通り過ぎていっても、僕は動けずにいた。恥ずかしながら、彼女の仕草に見惚れて呆けていたんだと思う。
               やがて視線を本に戻して、ページの間に挟まれたメモ用紙に気づいた。そこにはこう書かれていた。

              「私は死にます。べ、別に止めてなんて言ってないんだから!」

              「ツンデレか!」
               思わず叫んでしまってから、逃げるように図書館を後にした。
               その日バイトを終えてもう一度メモを取り出してみると、裏に「しかばねにへんじはない。」と書かれていた。よくわからないが、黙っていろということだろうか。何よりも、彼女が元ネタを知ってるのか、知ってるとしたら本当に現代の女子高生なのか、非常に気になった。

              >> 後編

              JUGEMテーマ:小説/詩
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                | 夜の茶会 | comments(0) |

                ノートブック

                 大きさは文庫本くらいかそれより少し小さくてもいいです。
                 外見はシンプルで。柄は落ち着いたものであれば考えます。キャラクターものは論外、派手な色も受けつけられません。
                 ページは五十枚以上で上限はありませんが鞄に入れてかさばらないほうがいいです。
                 罫線の間隔は広めでいっそなくてもかまいません。スケジュール帳のおしつけがましいフォーマットがきらいです。

                 携帯をつかむと十一時だった。くそ。今日こそちゃんとした時間に起きてちゃんとごはんを食べてちゃんと外に出てちゃんとバイト探そうと思ったのに。はじめの一歩でつまづいてどうすんだもうやる気ないやる気ないやる気ないぞばかー。ばかばかばかばか。とお決まりの自己嫌悪ごろごろ体操第一をやって、四つんばいでトイレに向かう。あたしは動物、食って出して寝るだけの動物、おしっこのじょぼじょぼいう音を聞きながらあくびをする動物、トイレを使ったらちゃんと流せる動物、ごしゃーずごごごご、ちゃんと手も洗える動物。トイレから出ながら思い出す、トイレットペーパー買ってきてって言われてたから外には行かなきゃいけないんだった。窓の外は晴れている。
                 パンを食べた。バターとイチゴジャム。紅茶も飲んだ。
                 服を着替えて寝癖をなおして顔をちょっと整えて外に出る。風が強い。ピンクとか水色とかに光る帯がびゅんびゅん飛んでいてまぶしい。髪の毛にからまって、頭はすぐにぼさぼさになってしまう。灰色に見えるくらいうっすらとした銀色のワンピのすそが風にはためいて、はためくたびにほんの少しだけちかちかして、それを見ていると安心する。らったった、らったったと歌いながら白黒に塗り分けられた階段を下りる。近所のおばさんがそんなあたしに気づいて気づかないふりをしたことにあたしも気づいて気づかないふり返しをした。おばさんがせっせと世話をしてる花の赤い色が目にささる。カラスががあと鳴いて、トラックがぶおおんとあたしのすぐそばを走りぬけていって、あたしは排気ガスを胸いっぱいに吸いこんでくらくらした。ぐにゃぐにゃに曲がった道路を歩く。
                 誰ともすれ違うことなく駅に着いたので今日はいいことがありそうだった。駅で券売機に小銭を入れてかちこんとボタンを押す。てろんって切符が出てきてそれだけでいい気分になる。スイカだかメロンだかイチゴだか知らないけどあんなスムーズなやつはいらない。あたしはボタンを押すのが好きなのだ。切符が改札に吸いこまれていくのも好きなのだ。ホームで空に浮かんでる角砂糖の数をかぞえていたら電車が参りましてドアが開かれましてあたし飛び乗りましていざ出発。ゆれるゆれれるゆられるゆららる。同じ車両のすみっこに座っているおじさんが神様はいつもわたしたちを見守ってくださっていますだから祈りましょう毎日欠かさず祈りましょう云々とぶつぶつうるさいのであたしはずかずか近づいていっておじさんの前に仁王立ちして「失礼ですけどあなた神様見えてるんですか」ってきいたらおじさん「へ?」とか言ったので「あたし神様見えてるんですよ。ほらここ。あなた見えてないでしょ。さっきからあなたのことうるさいって神様が言ってんの。聞こえてないのあなただけですから。お祈りが足りてないのあなただけですから。それでぶつぶつ言ってるの恥ずかしくないんですか。少しでも恥ずかしいと思うなら黙ってひとりで勝手にお祈りしててください」そしてできれば永久に黙っててくださいむしろ息しなくていいです消えてくださいって勢いでまくしたててやった。そしたらおじさんは冷凍された肉の塊みたいにかたまっちゃった。あたしはくるってまわれ右してふんふーんって鼻歌うたいながら歩いて、ガラ空きのシートのど真ん中に腰を下ろした。おじさんは次の駅でそそくさと降りていった。あたしは次の次のそのまた次の駅で降りた。
                 街は今日も今日とてあざやかで騒がしかった。ビルが青々と茂っていて熱帯の鳥たちみたいな赤や青や黄色やオレンジのスーツを着たひとたちがたくさん行き交っていてチョコレートみたいに茶色いアスファルトは底なしでその上をクリーム色とかミント色の自動車が泳いでいる。ぴーぴーぎゃあぎゃあ鳴いたりごそごそがさがさ揺れたりどっかんどっかんなんかどっかで爆発してるみたいな音もする。自動車が道路にびっちりつまってると思ったらその先のビルとビルの隙間からずーん、ずーんってステゴサウルス(かっこいい)が歩いてきて、反対側からティーレックス(かっこいい)が走ってきて生存競争していた。どっちを応援するか悩んでいたらむこうからトリケラトプス(あんまりかっこよくない)がのっしのっし近づいてきてあたしはなんかどうでもよくなって立ち去った。ええっとあたしはいま生存競争どころじゃなくて、なんだっけ、ああそうだ、トイレットペーパー買わなくちゃ。でも歩きながらよく考えたらトイレットペーパー買うだけならうちの近所のスーパーでじゅうぶんで、そうすると街に来たのはたぶん違う目的があったからなんだけどそれってなんだっけ。あたしは思い出せなかった。しかたないからどこかに目的が転がってないか探しながらそのへんをぶらぶら歩いた。とちゅうで路地裏にいた猫を追いかけたりもした。けれどどれだけぶらぶらしても目的ってやつあどこにも見当たらないんでさあ! こ、こここれは、こここ困ったな、とかどもってみても見当たらない。うーんどうしようか帰ろうか。途方に暮れかけたとき、それが目に入った。
                 なんだここ、と思ったときにはあたしはドアを開けていて、おおうまたやっちゃったよ、って驚いた。あたしの体はたまに頭より先に動くことがある。今のところは自分がびっくりする以外に問題にはなってないけど、いつか知らず知らずのうちにいかがわしいお店に入ったりしないか心配だ。あたりを見回すとそこは文房具屋さんみたいだった。それも昔からある感じの小さなお店じゃなくて、さいきんできたばかりみたいなオシャレで大きなお店。入口で突っ立ってるのもあれなので、ぎこちない足取りで店内を歩く。平日の昼間ということでお客さんはあたしを含めて三人くらいしかいない。広かった。奥に進むにつれて商品の陳列棚がどんどん高くなっていって、なんだこれ本棚か、じゃあここは図書館かって思う。しかもそれだけたくさんの棚がぜんぶ商品で埋まってる。品ぞろえがすごい。コンビニとか百円ショップで売ってるみたいなものからデザインに凝ってるもの、実用をとことん追求したもの、いつの時代のだよって思うアンティークものまで並んでいる。消しゴムだけでざっと百種類以上ある。国外も海外もシックもファンシーも関係なく、世界中の全種類の文房具がここにあるんじゃないかってくらいある。文房具屋さんというか文房具専門店、むしろ文房具資料館的な勢いだ。ここならあたしの目的も見つかるんじゃないか、ただし文房具限定。ええと、鉛筆じゃないしシャーペンじゃない、ボールペンも違うしましてや万年筆なんて、っていうかシャーペンの芯とかボールペンの芯とかインクとかありすぎだろ。消しゴムじゃない定規じゃない、ハサミじゃないカッターじゃないカッターマットってこんな種類あるの? ホッチキスじゃない穴あけパンチじゃない、ファイル、はちょっと近いかもしれないけど多い! ファイル多いよファイルだけで棚三列くらいあるじゃん。なにこのでかいファイル鞄に入らないじゃんなに綴じるんだよ。ルーズリーフ、ルーズリーフね、もうちょっと。あっ、大学ノート。でも大学ノートじゃなくて、もうちょっと小さくて装丁がしっかりしてて、でも日記帳とか手帳じゃなくて。そういうノートがほしいんだ。すっきりしたところであたしはノートとか手帳とかの棚を見て歩く。三、四列くらいある。大学ノートメモ帳レポート用紙方眼用紙原稿用紙コピー用紙、あれ途中からただの紙になってるぞ。次の列に移動すると山のようなスケブ、次にシステム手帳でビジネスビジネスばっかり書いてあって、続いて日記帳はダイアリーダイアリーダイアリーときどき古くさい字で日記帳。古くさくてしぶい字にはちょっと惹かれるけどあたしがほしいのはそれじゃない。おしゃれなデザインの日記帳が並んでて目移りしちゃうけどそういうのも違う。なんとなく自分の中でほしいノートのかたちが浮かび上がってくる。むかし美術の授業でやった木彫を思い出す。削り落していくうちに細部が見えてくる。とか言われてがしがし削ってたらいつの間にか木がなくなってたんだよね。玉ねぎの皮むきみたいにさ。
                 また一列探し終わって次の棚に行こうとすると、そこに別のお客さんが立っていた。あたしよりちょっと背が低い女の子。チェックのシャツに紺色のカーデガンを羽織って、カーキのショートパンツに黒いタイツ、ショートブーツを履いている。髪は茶色のショートボブで、もこもこしたキャップをかぶっている。イラストみたいな顔、小さな鼻はくの字で目は縦棒で口は丸かっこで描けそう。駅のホームで誰かの背中を押しそうなくらいかわいい子だ。その子は最初困ったような顔をしていたけれど、あたしに気づくとぱっと明るい表情に変わった。そして「店員さん、じゃないですよね」と声をかけてきた。あたしは話すのがあんまり得意じゃないし相手は人を殺しそうなかわいい女の子だったのでどもりながら「ち、ち違いますけど」と答えた。すると女の子は「あの、すいません」と慌てるようなそぶりをしたあと恥ずかしそうにちょっとうつむいて、「実は私、黒猫を探してるうちに迷子になっちゃって」「は、はあ」「お店の出口ってどっちか教えてもらえませんか」猫探しが迷子ってミイラとりがミイラみたいだなって思いながらあたしは道を教えた。「この通路をまっすぐ行って突き当たりを右、トレイが並んでるところでもういっかい右に曲がって、だーってまっすぐ行くとロッカーがたくさん並んでるから木のロッカーと鉄のロッカーのあいだの細い隙間を左に曲がって、あとはしばらく道なりにうねうね進めばドアが見えると思います」って感じで。どもりながらだったからちゃんと伝わったか心配だったけど、女の子は「ありがとうございますっ」って頭を下げてくれたからたぶん伝わったんだと思う。これで問題解決めでたしめでたしということであたしは「それじゃ」って立ち去ろうとしたんだけど、なぜか女の子は「あの、あなたは何を探してるんですか」とかきいてくる。あたしはしかたなくこれこれこんな感じのノートを探してるんですでも見つからないんですと説明した。女の子はさらに尋ねる。
                「そのノートを見つけたら、何を書くんですか?」
                 なにを書く? なにを?
                「な、なんにも、書きません」と答えてあたしは女の子と別れた。

                 けっきょくあたしの理想のノートは見つからなかった。ここにないってことは世界中どこにもないのかもしれないなと思うと少しだけさみしくなった。でも別に今すぐじゃなくたっていい、いつか誰かがふと思い立って作ってひっそりと売りだして、あたしがどこかのお店に入ったときにそのノートに出会うことができたらそれでいい。文房具専門店を出るとあたりは薄暗くなっていて、風がびゅんびゅん青とか紫とか群青の帯を飛ばしていて寒かった。昼間騒がしかった街は静かになっていたけどそこここでひそひそひそひそ囁く声が聞こえて耳ざわりだった。両腕を抱えて駅のほうへてけてけ歩いていくとちゅう蛍光ピンクの長い長い蛇を何度も跨いだ。
                 五回くらい跨いだところで喫茶店を見つけて寒かったので入ることにした。お店の前に「夜の茶会やってます」と書かれたプレートがかけてあってふだんは夕方に閉まるけれど一週間くらい夜遅くまで開いているらしい。ドアを開けるとからんからんと懐かしい感じの音がしてコーヒーのいい香りがふわっと鼻をくすぐって、いらっしゃいませ、好きな席どうぞ、と口ひげを蓄えた紳士的なおじいちゃんが言う。大きな木でできたカウンターの前に座るとお水とメニューを出してくれる。コールサックって『銀河鉄道の夜』のあれだよね石炭袋、そんなお店の名前から炭焼きコーヒーなのかなと思ったけどとくにそういうことは書いてなかった。あたしはカフェオレを頼んだ。客はあたしのほかに四人くらいいてスマホをつついてるきれいなおねーさんとマスターと仲よさそうに話してる草を食べてそうなおにーさんと雑誌をぺらぺらめくって眺めてるスーツ姿のおじさんと文庫本を読んでるメガネかけた学生っぽい男の子。あたしの両目はくぎづけになる、一番近くに座っている学生っぽいひとに、というかカウンターに置かれた飲みかけのコーヒーの隣にある一冊に。それも文庫本かと思ったけれどカバーじゃない白っぽいペンキで塗りたくったような装丁。あれはノートだ。しかも私が探していたノートの予感がする。すごくする。じっと見つめていたら男の子は顔を上げてこちらを向いて怪訝そうな表情をした。「えっと、なんでしょう?」と言う。
                「あの、その、そこに置いてあるのってノートですか」
                「これ? そうですけど」
                「見せてもらっていいですか」
                「えっ、それはちょっと……これ、僕のじゃなくて。借りものなんですよ。なんで中身をほかのひとに見せるのは」
                「交換日記?」
                「違いますよ」
                 少なくとも僕は書いていません、と男の子は恥ずかしいのか気まずいのか悔しいのかよくわからない複雑な顔をした。ノートの持ち主が書いたのを読んでるだけってことか。返事を書きたいんだったら書けばいいのに。思う存分に交換日記するがよかろう青年よ。
                 それからあたしはこれこれこういう特徴のノートを探していて今日文房具専門店みたいなところに行ったんだけどそこにもなくてでも今それが目の前にあるんですよと熱弁した。「なんでこれがそうだってわかるんですか」とかきいてきたから「感じるんです運命的ななにかを」ってちょっとイタい子っぽく答えたら予想通りにかわいそうだけど関わりたくないなあって顔をしてくれたので少し愉快だった。というわけで見せてくれませんか、だめです、お願いします、だめです、こんなに頼んでるのに、だめですって、というやりとりをしているうちにカフェオレが来た。マスターは珍しいものを見るような目であたしと男の子を交互に見てから、ごゆっくりと言った。
                「じゃあどこで売ってるか教えてくれませんか」
                「僕は知らないし、ちょっと持ち主にも連絡を取れないですね」
                 なんだとこんちきしょう交換日記(未遂)してるんじゃないんかい連絡先くらい聞いとけ、って思わず口から出かかったのをこらえて半分あきれながら「じゃ、じゃあせめてメーカーと値段と罫線の間隔を教えてください」ってあがいたら、男の子はようやく折れてこちらに隠す形で表紙やら裏表紙やらをめくり始めた。あたしはそのあいだにカフェオレをすすってうんおいしいと思っていると向こうからはあれ、おかしいな、とか呟くのが聞こえてきて見ると男の子はまだ調べていて、ついに諦めてあたしのほうを向いて言った。
                「すいません、ないです」
                「え?」
                「えっと、たぶん表紙か裏表紙にあったと思うんですけど、これ、持ち主が上から塗りつぶしてますね。絵の具で」
                「よし、剥がそう」
                「やめてください」
                「どうせ、あるのにないって言ってるんでしょう」
                「本当にないんですよ。そんな嘘ついて僕に何の得があるんですか」
                「いたいけな女の子にいやがらせして困らせて内心で楽しんでいるに違いない」
                「そんな性癖はないし、いたいけって自分で言うのもどうかと」
                 ツッコまれた。細かいな。それでもあたしが睨んでいると細かいひとはまあ信じてもらえなくてもいいですけど、と投げやりに言った。なんで僕が赤の他人から無理な要求を突きつけられた挙句に嘘つき呼ばわりされにゃならんのだお前何様のつもりだ、と顔に書いてある。唇を突き出してふてくされたみたいに続ける。「っていうか、
                 そんなにほしいならあなたが作ればいいじゃないですか。理想のノート」
                 だるそうに睨み返してくる男の子にあたしは人差し指を突きつけ口を開き、マンガみたいに口を開けたままぱくぱくと動かすことしかできなかった。「作ればいいじゃないですか」が頭の中でぐわんぐわん反響して、ようやく口をつぐむと同時に後ろでギターがぽろろろんと鳴った。マスターと仲よさげだった男の人が店の奥で弾いていた。あたしは男の子に、無理言ってすいませんでしたご迷惑おかけしましたありがとうございました、と早口で言って席に戻った。その様子をじっと見ていた男の子が何なんだいったいというふうに小さなため息をついて読書を再開するのを視界の隅で認めて、でももうそんなことはどうでもよくて。偶然にもテンポアップしていくギターの音色に合わせるかのようにあたしのテンションが弾んでいく、どうして今まで考えなかったんだろう、作ればいいじゃないか、カフェオレを飲み干してマスターにごちそうさまでしたと言ってお金を払って外に出る、外は相変わらず寒くて風がカセットテープの中身みたいな黒っぽい帯をびゅんびゅん飛ばしていたけれどあたしはおかまいなしに大股で歩く、ほとんど赤紫色に変わって靴跡だらけの蛇を五回またいで文房具専門店に着いて閉店してないのを確認してドアを開け、ノートブック売り場目指して店内をずんずん進んでいって、派手な色合いでよくわからない外国のキャラクターが描かれているけれどそれ以外は許容範囲の一冊を見つけ出してレジに向かい、購入。狐のお面をかぶった女の店員さんはノートをていねいに紙袋に入れて渡してくれた。ミッションAコンプリート、続いてミッションBに移行します。あたしはぴょんぴょん跳ねるようにして駅へ向かう。色鮮やかだった街はすっかり夜色に染まっていて行き交うひとびとは影法師でしかなくて、規則正しく並んだ窓や居酒屋の看板や信号機の星がちかちかと瞬き、そのあいだで灯篭のように赤や黄色や青やオレンジ色のヘッドライトがゆらめいていた。ビルとビルをつないで大きなハンモックが渡されていてその上でたくさんの動物たちが眠っていた。ステゴサウルスとティーレックスとトリケラトプスは公園の噴水で水を飲んでいた。あたしはノートの入った紙袋を両腕で抱いて街に背を向けて歩き続けた。駅の切符売り場でどれだけかちこんとボタンを押して、てろんって切符が出てきても腕の中にあるこのあたしのものになる予定のノートにはかなわないだろう。ホームに入ってきた電車は行きよりも混んでいてあたしは誰もノートに触れさせないように気をつけながら乗りこむ。駅から街灯のない黒く塗りつぶされた道を歩いて家に帰った。ただいま、って靴を脱ぎすててダイニングに入るとお母さんが台所でことことなにかを煮込んでいた。今日寒いねって言ったら「トイレットペーパー買ってきた?」って言われて、忘れたごめんなさいって慌ててもういっかい外に出て近所のスーパーで買ってきた。晩ごはんはハヤシライスとサラダとコーンポタージュだった。食べ終えるとすぐに自分の部屋に戻って、紙袋からノートを取り出して真ん中で開いてページを下にした状態で机に置いて、イラストの書かれた表紙をはがしにかかった。はがした上に、とっておいたいらない布の切れ端をぺたぺた貼りつける。乾くまで時間がかかりそうだったので放置してお風呂に入って寝た。

                 その後、下地を塗って乾かして塗って乾かしてグレーとベージュの中間みたいな色の絵の具を塗って乾かして塗って乾かしてラッカースプレーでコーティングしてカバーができあがった。四日かかった。やっとできあがった理想のノートを机の上に置く。あたしはそれがそこにあることに満足してお風呂に入って寝た。
                 翌日あたしはまずノートをしげしげと眺めたり、表紙を撫でたりした。そうしていると、頬がゆるんでうぇっへっへとおかしな笑い声を上げてしまうくらい嬉しい。あたしはおもむろに最初のページを開いてまたにやにやしたり奇声を上げたりした。けれどそれもだんだんおさまって今度はそのまっさらなページをどうにかしたくなってくる。あたしはこの前の誕生日にもらった万年筆を取り出すと息を止めた。手を下ろし万年筆の先が紙にふれてインクがにじんでそのまま文字をひとつ書く。書き終えて万年筆を置くとはああって深く息を吐き出して体がぞくぞく震えてトイレに行きたくなったけどなんとかがまんした。文字の書かれた紙面を見ていたら急におかしくなってきてあはははははって爆笑する。でも笑いの波はすっと引いてあたしはもう次の文字を書き始めている。文字が連なって単語になり単語が組み合わさって文章になり文章が積み重なって段落になり、一ページが埋まり二ページが埋まり五ページ六ページと書いてもまだまだ足りなかった。
                 今もまだあたしはあたしのノートに書いている。終わることのない物語を、書いて書いて、書き続けている。

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                * 夜の茶会にて(ノートのひとの場合)
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                  | 夜の茶会 | comments(0) |

                  雑記帳

                  十月某日 曇り
                  漸く金木犀の香りが街に漂い始めた。秋の夜長に珈琲を、のキャッチフレーズで始まった夜の茶会も今年で三回目。特に朝夕は冷え込むので腰を傷めないよう注意したいところだ。

                  十月某日 晴れ
                  五時頃に前の道が人で一杯になった。聞くと青空公園で何やら催し物があったらしい。何かは知らず仕舞いだったが御陰様で商売繁盛、嬉しい悲鳴である。
                  閉店直前に飯野氏と喋っていて、明日から店内でギターを演奏してもらうことになった。昨年の冬に一度弾いたのが楽しかったのだと言う。私も明日から楽しみである。

                  十月某日 晴れ
                  夕方、飯野氏がギターを担いで来店。三曲演奏してもらった。氏の奏でる音が昨年とは異なっていて少しだけ感傷的な気分に浸った。明るいフレーズの途中でふいに、道に迷った子供が真っ暗闇を歩いて行くような心許無さを感じる。

                  十月某日 曇り
                  疲れが溜まっているのかぼうっとしてしまい何度も薬缶の湯を吹き零した。しっかりせねば。

                  十月某日 晴れのち曇り
                  体調を崩したため、急遽開店時間を遅らせることになった。騙し騙しやってきたが少々こたえた。茜嬢に心配をかけてしまい申し訳ない。夜の茶会期間中は午後からのオープンとする。残り二日。

                  十月某日 曇り時々雨
                  午前中に余裕ができたからか体力的に大分楽になった。珍しく六人組のお客様が来店し、テーブル二脚を合わせて席を作る。
                  やや遅れて来店した飯野氏が三時間通して途切れることなくギターを弾いていった。客が茜嬢一人になっても顔を上げず一心不乱にギターを掻き鳴らす姿は鬼気迫るものがあった。だが何よりも私を動揺させたのは、凶暴的なまでに荒々しく激しい演奏で生み出された音が、鳥肌が立つほどに優しく美しく感ぜられたことであった。演奏を終えた氏は心此処に在らずといった表情で、私は掛ける言葉が見つからず、茜嬢について店を出て行く彼を黙って見送った。閉店作業の途中で氏が忘れて行ったギターを見た時、何故か目が潤んだ。

                  十月某日 曇りのち晴れ
                  夜の茶会最終日であった。二日目ほどではないが多い入り。嬉しい限りである。一段落すると、茜嬢と飯野氏、サキ嬢の会話に参加し、黒川氏から広告業の動向について伺い、読書青年に話しかけるなどしていた。そういったひと時が何より楽しい。様々な世代、様々な立場にある人々の人生に、ほんの少しだけ関わりを持つ。深入りせずお互いに心地好い距離感を保って。我ながら喫茶店の店主とはなかなかにずるい立ち位置だと思うが、それが私の性に合っているのだろう。
                  飯野氏に手伝ってもらいながら店を閉めた。途中で体調を崩したこともあり、無事に終わってほっとした。明日は休業日。家でのんびり過ごすもよし、久し振りに美術館へ行くもよし。存分に羽を伸ばすつもりである。

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                  * 夜の茶会にて(マスターの場合)
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                    | 夜の茶会 | comments(0) |

                    日記

                     バイトがオフだったのもあり、起きたら昼過ぎだった。簡単に食事をすませてから練習。そろそろ新しい曲とか作りたいけど、さいきんあまりぱっとしない。
                     ギターをかついで「石炭袋」へ。「夜の茶会」に店内で演奏。二日目。
                     お客さんは三人。あかねえさんと、ちょっと前からよく見るくるっとした髪型(あれもボブっていうのかな)の女の子、あとそのお友だちで、オフィスカジュアルな格好の髪の長い女の子。
                     The Heart Asks Pleasure First / Michael Nyman のギターアレンジを弾く。あかねえさんに暗いと言われたので、次はひさしぶりに『帰る時間』を弾く。思ったとおり「どこが明るいのよ」とツッコまれる。これでも明るいほうなんだけど。イントロとか。
                     演奏のあと、くるっとした髪型の女の子が話しかけてきた。キョウコちゃん。服屋の店員さんで、ちっちゃい男の子みたいな格好をしてる。絵本に出てきそう。お友だちはサキさん。近くのビルで事務をしてるんだとか。しっかりしててちょっと強そう。ねえさんが横から「なに? 今度はその子たちひっかけようとしてんの?」と茶々を入れてきて、いやちょっと待っていつ俺が誰をひっかけたよ、ってなる。二人も困ったみたいに笑っていた。
                     それからだんだんお客さんが増えていった。リクエストされてアレンジを弾いたり、『秋の野』を弾いたりした。

                     家に帰って、メールに気づいて、返信。

                    *

                     朝からバイト。新作のPOP書いたり、棚整理したり。
                     夕方に終わって、そのまま「石炭袋」へ。「夜の茶会」で演奏。三日目。
                     お客さんは五人。あかねえさんと、たまに本を読みに来る線の細そうな女の人と、スーツ姿の若い男三人。
                    『睡蓮』、『深夜二時』を弾いた。特に注文がないのでBGMに徹することにする。スーツの一人がマスターに馴れ馴れしく話しかけて常連ぶっていた。声が大きくていやに耳につく。
                     彼らが店を出たあと、ねえさんに「今日はちょっと粗かったね」と言われた。音に出ていたらしい。気をつけよう。

                     家に帰って、メールに気づいて、返信。

                    *

                     昼からバイト。夕方、クレーマーさんにつかまった。ついてない。品ぞろえが悪いから始まって、BGMの選曲が悪い、POPの字が汚い、掃除ができてない、棚がほこりっぽい。申し訳ありません、ご指摘いただきありがとうございます、と丁寧に対応する。それでも内心のうんざりを隠し切れてなかったらしい。あなた本当に申し訳ないと思ってるのそれで商売つとまると思ってるのと指をさされた。ああもう。くさくさする。
                     暗くなってからバイトを上がって「石炭袋」へ。四日目。
                     お客さんは十人くらいだったと思う。覚えてるのはあかねえさんと、いつも本を読んでる眼鏡のお兄さん。あとは、昨日のスーツ三人が同僚っぽい女子三人を連れてきていた。合コンか。
                     マスターとねえさんに挨拶して、奥の椅子に腰を下ろした。どっと笑いが起こる。ひどく体が重い。それでいて、胸の内では濁流が渦巻いている。渦の中心に何かいる。俺はそいつを無理やりおさえこむように、まぶたを閉じた。息を吐いて、吸う。
                     けれど結局おさえきれなかった。俺はタイトルのつけられないあの曲を弾き始めていた。指が弦をはじくたびに、音といっしょにどす黒くてべたべたした塊があふれだしてくるみたいだった。メロディが少しずつ形を変えてリピートされ、塊は濃く大きくなっていく。限界まで膨れあがって、一瞬の静寂をはさんでから、爆発する。周りの全てを吹き飛ばす。あとかたもなく。
                     曲が終わるとあたりはすっかり静かになっていた。うつむいていた顔を上げる。マスターの苦々しい表情が目に入った。ねえさんが「ごちそうさま」と席を立った。勘定を済ませると俺に近づき、ほら行くよ、と言った。ほかのお客さんはいなくなっていた。
                     店を出る。ねえさんは交差点を渡ると、自販機の前で立ち止まった。ボタンを押して出てきたジンジャーエールの缶を俺のほっぺたに押しつける。
                    「おごったげる」
                     俺にはそれが、頭冷やせ、に聞こえた。喉はカラカラに渇いていた。ありがとうございます、とプルタブを起こして中身をあおる。炭酸が喉の奥でばちばちはじけて痛かった。
                     駅でねえさんと別れ、帰る道すがらひとり反省会をした。くさくさした時点で行かないほうがよかった。店に入って、うるさいなと思った時点でやめたほうがよかった。違う、弾くなら、わきまえるべきだった。
                     部屋に戻ってから、ギターを忘れたことに気づいた。

                     メールの返信は来ていない。

                    *

                     朝からバイト。淡々とこなす。
                     早上がりで三時に店を出た。昨日のこともあって、今日は「石炭袋」に行くのやめようかな、どうしようかな、と悩みながらぶらぶらした。本屋や雑貨屋をひやかしてから、普段通ることのない道を歩く。中途半端な時間の歓楽街の気だるい雰囲気。オフィス街で高層ビルのすきまに建っている小さなお寺に驚く。建物が取り壊されてできた駐車場の向こう、以前は隠れていたんだろう古い雑居ビルの裏側、換気口の並びかたやパイプの絡まりぐあいに味がある。
                     日も落ちて暗くなり始めたころ、細い路地に入った。安そうな中華料理屋。熟女と書かれたピンク色の看板。居酒屋。とんこつラーメン。奥から毛並みの整えられた猫がてとてと歩いてくる。せなかが黒くておなかが白い。しゃがみこんで挨拶する。何よ、と戸惑い気味に視線を返しながらも近寄ってくる。かまってくれるんかー、ありがとー、なでる。耳のうしろをかいてやる。君はあれだね白と黒のバランスがちょうどいいね、俺もそうなりたいなあと呟くと、ふん、と鼻で笑われた。横顔の凛々しい美猫さんだった。
                     しばらくなでていると、美猫さんはにゃあ、とないて俺の手をすり抜けた。誰かの足に駆け寄って上目づかいにおねだりする。タイトなスカートが目に入った。
                    「あれ? イーノさん」
                     サキさんが、魚肉ソーセージを片手に立っていた。

                     サキさんは美猫さんにギョニソを与えながら、猫ポイントの一つなんです、と言った。
                    「えっと、カードに肉球のスタンプを押して、二十個貯まると猫に好かれる特典があるとか」
                    「そっちのポイントではないです」
                     あったらほしいですけど、と笑う。俺もほしい。
                     サキさんはほかにもいくつか猫ポイントを知っていて、仕事帰りにぶらりと立ち寄っては猫たちを愛でるのだという。どうか教えてください師匠、とお願いしたけれど、企業秘密なので、と突っぱねられた。何の企業だ。
                    「でも、よくマダムがなでさせてくれましたね」
                    「マダム?」
                    「この子のあだ名」食後の化粧直しをする美猫さんの頭をなでる。「私なんか、高級魚肉ソーセージでようやくお許しが出たのに」
                     ねたむような眼差しを向けられた。高級ギョニソって何、カニでも入ってるの。
                    「もしかしたら、慰めてるのかもしれませんけど」と彼女はこちらを見ずに言う。「イーノさん、見るからにへこんでますし」
                     そうかな、とごまかす。その声は自分でもしらじらしく感じられた。サキさんは黙ってマダムをなで続ける。俺も黙ってそれを見ている。
                    「何かあったんですか」
                     サキさんが俺を見て言った。一瞬、その言葉にすがりそうになる。うつむくとマダムと目が合って、ぷい、とそらされた。俺は苦笑いして、「いや、大したことではないです」と答えた。
                     マダムはすっくと立ち上がると、エレガントな足取りで路地を進んでいった。サキさんと二人で見守っていると、ピンク色の看板のかかったお店にするりとその身を滑り込ませた。思わず「えっ」と声が出る。サキさんを見ると、彼女は「マダムですから」と微笑んだ。
                     サキさんが腰を上げ、スカートのうしろを手で払った。そして、「今日はお店行かないんですか」と言った。

                     サキさんと二人で「石炭袋」へ。「夜の茶会」最終日。テーブル席は埋まっていた。カウンターに並んで座る。
                     カウンターの隅、いつもの場所に座るあかねえさんが「ちょっとサクやん、あんた手が早すぎ」とにやにやしながら言った。「来る途中でばったり会っただけで、そういうのじゃないから」と答えると、サキさんが「え、そうなんですか?」とわざとらしく残念そうな顔をした。意外にノリのいいひとだった。
                     マスターが水を出してくれる。「昨日はすいませんでした」と謝る。マスターは黙って首を振り、ひげをなでて笑った。サキさんから注文を受けたあと、俺に向かって尋ねる。
                    「今日はどうする?」
                    「えっと、いつもどおり、濃いめで」
                    「それは聞かなくてもわかっとるよ。弾いてくか?」
                    「うん」と、俺は子どもみたいにうなずいた。横からねえさんがからかうような口調で言う。
                    「なんだ、案外平気そうじゃん。昨日は、やっちまったーって顔してたのに」
                    「さっき熟女に慰めてもらったんですよ」
                     ねえさんは怪訝そうな表情を浮かべた。サキさんがくすくす笑った。
                     水を一口飲み、席を立って店の奥の椅子に向かう。立てかけられたギターをつかむ。腰を下ろしてチューニングをする。店内に充満する話し声のあいだにそっと滑りこませるように、曲を弾きはじめる。

                     最終日ということで遅くまで居座った。サキさんとねえさんと、ときどきマスターを交えていろいろな話をした。好きな音楽とか、好きな本とか、好きな絵とか、好きな映画について。どこへでも行けるならどこへ行きたいか。コーヒーにミルクを入れるときは、スプーンでぐるぐる混ぜてから注いで渦をじっと見る癖がある、と言ったらねえさんに笑われた。閉店時間が過ぎ、店の片づけを手伝う。それも終わると、マスターに「おやすみなさい」と言って外に出た。二人と歩きながらまた話をして、駅で別れた。
                     部屋に戻ってシャワーを浴び、ベットに倒れこんでそのまま眠ってしまった。
                     メールの確認を忘れていた。

                    *

                     バイトがオフだったのもあり、昼過ぎまで眠っていた。半分眠ったまま、となりで横になっている彼女の頭をなで、長い髪の毛のあいだに指を通す。ん、と鼻にかかるような声が半開きの唇からもれる。のぞきこむと幸せそうに微笑んでいた。
                     遠くで誰かが声をあげて泣いている。誰だろう。何がそんなに悲しいのだろう。

                     自分の嗚咽で目が覚めた。呼吸を落ちつかせて体を起こす。洗面所で、ぐしゃぐしゃになった顔を洗う。簡単に朝食をすませてパソコンを開く。
                     メールの返信は来ていない。
                     知っている。返信は来ない。同じメールを何度も開いて、何度も返信する。送信済みのメールだけが増えていく。昨日今日どこに行って誰と会って何があったか。それは手紙というよりはむしろ日記のようなもので、同時に遺書のようなものだ。返事はない。それは知っている。
                     ベッドに腰かけてギターを抱え、指で弦をはじく。昨日の夜、帰り道で思い浮かんだフレーズを何度もなぞってみる。

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                    * 夜の茶会にて(飯野咲哉の場合)
                    * The Heart Asks Pleasure First / Michael Nyman
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                      | 夜の茶会 | comments(0) |

                      夜の茶会にて

                       彼女と私は職場の近くにあるカフェに来ていた。ふだんは七時に閉まってしまうので仕事帰りには寄れないけれど、今日は年に一度の「夜の茶会」と称して十一時頃まで開いているとのことだった。柔らかい明かりに照らされた店内、テーブルや椅子はアンティーク調で揃えられ、壁に掛けられた振り子時計が六時四十分を指している。窓の外は暗い。黒い長袖のシャツに緑色のエプロンをつけ、丸眼鏡をかけた初老のマスターは、カウンターの向こうに立って慣れた手つきでコーヒーを淹れている。
                       向かいの席に座る彼女は私よりも背が低くて、少年のような格好がよく似合う。今日もベージュのシャツにカーキのパンツを履いて、水色のやわらかそうな帽子をふわりと頭に載せていた。ほどよく茶色い髪の毛はくるっと丸く切り揃えられていて、私は彼女を見るといつもおしゃれなイラストを思い浮かべる。それは雑誌のナチュラル系の記事の挿絵だったり、よく行く雑貨屋さんに置いてあるマグカップに描かれていたりする。
                      「昨日お休みだったんだ」と彼女は言った。
                      「何してた?」
                      「黒猫を探してたの」
                      「黒猫?」
                      「パン屋さんの名前。クロワッサンがおいしいって評判の。ぱりぱりさくさくなんだって」
                      「クロワッサンが食べたかったの?」
                      「デニッシュパンでもいいの。ぱりぱりさくさくが食べたかったの」
                       薄い生地が何層にも重ねられた、もはや芸術的なまでに繊細なパンが、彼女の歯に当たってぱりぱりさくさくと崩れる様子を想像した。きっと口の端にパンのかけらがついていたりするんだろう。脳内に浮かぶその姿は微笑ましくて、少しコケティッシュだった。
                      「食べれたの?」
                      「残念ながら、黒猫もお休みだったのです」
                       彼女は視線を落とし、唇を尖らせた。がっかりしている様子もかわいい、などと思っていると、「なんで笑うの」と険しい声が飛んできた。顔に出ていたらしい。
                      「笑ってないよ」
                      「嘘。笑ったよ」
                      「お待たせしました」
                       マスターがテーブルにカップを置く。私の前にオリジナルブレンドを、彼女の前にホットココアを。夜の空のような深い苦みがカップから広がるようにして私の鼻に届く。それからかすかに甘いチョコレートのにおいがした。
                      「マスター」カウンター席に座る男の子が手を挙げて呼ぶ。「あふれてるよ」
                      「おっと、そりゃ、いかん」彼は口髭を指でかくと、向き直って「失礼、ごゆっくり」と頭を軽く下げた。カウンターの向こうではドリッパーからはみ出したコーヒーがふわふわと漂っていた。どこから紛れ込んだのか、青や白や赤や黄のコンペイトウがちりばめられ、さらにミルクも混ざって星雲やら天の川やらを描いている。初老のマスターは背筋をぴっと伸ばしたまま大股でキッチンに戻り、ドリッパーにふたをして、ポットで宇宙をすくい取っていった。男の子が「マスター、おかわりもらおうか」と笑う。
                      「そういえばこのあいだ読んだ本にね」カップから離れた彼女の口が、ホットココア色の言葉を紡いだ。「光の束って単語が出てきたんだけど」
                       目をそらす。カーテンの隙間からさす光。雲間から地面に落ちる光。プリズムによって七色に分けられた光。光の束について想像を巡らせていると、彼女の話は終わっていた。
                      「……って思ったんだ」
                      「そっか」
                       私のいいかげんな相槌はコーヒー色をしているんだろうか。

                      「黒猫を探しているときにね」「すてきな文房具屋さんを見つけたの」「そこでノートを探している人がいて」「でもどうしても自分の好みにぴったり合うノートが見つけられないんだって」「でね、私が、ノートに何を書くんですかって訊いたら」「何も書きませんって言ったの」「おかしいでしょ」
                       何も書かれないノート。罫線のあいだに潜む無限の文章。決して消化できない予定。捏造された思い出。
                       ふいに「ね、聞いてる?」と訊ねられ、慌てて「もちろん」と答える。
                      「マスター」男の子の声が聞こえる。「バイトは雇わないの? もし募集中だったらオレ働きたいんだけど」
                       丸眼鏡の向こうの瞳が細められる。「だめだめ、二人だと味が混ざっちゃうから。特にキミは強すぎるからね」
                      「ちぇー」と言いながらも、男の子はあまり残念そうには見えなかった。もしかしたら今まで何度も繰り返された、お決まりのやり取りなのかもしれない。少し色味は違うけれど、彼も黒いシャツを着ていて、それがより一層マスターとの距離の近さを感じさせた。
                       彼は席を立つと、私たちのテーブルの横を通り過ぎて、店の端にぽつんと置かれている椅子に座った。壁に立てかけられたギターケースからアコギを取り出し、チューニングを始める。指が長い。シャツは、オレンジがかった店の明かりのせいで黒く見えていただけで、本当は紺色だった。
                       おもむろに弦を弾く。マイナーコード。寄せては返す波の音が、憂いを帯びたままで喜びと悲しみを行ったり来たりして、次第に大きく、うねり、店内を水びたしにする。私も彼女も、脛まで濡れながら拍手した。
                      「サクやん、それもとはピアノだよね」
                       カウンター席の一番奥に腰かけていた女性が声を上げる。ウェーブのかかった長い髪。ワインレッドのカットソーを着ていて、七分袖から伸びるすらりと細い腕で頬杖をついている。どこかどうというわけではないけれど、猫みたいなひとだなと思った。
                      「ばれた?」サクやん、が舌を出す。
                      「映画のテーマ曲でしょ」
                      「そうそう。よく知ってるね」
                      「私は好きだけど、ちょっと暗くない?」
                       二人の会話を聞いていたら、いつの間にか水が引いていた。ふと視線を戻すと、目の前の彼女もギター弾きの男の子を見ていた。
                      「じゃ、明るいのを」
                       男の子が再びギターを構える。ポロン、ポロン、かわいらしい音が彼の手元から飛び出して、ボールみたいに店内を跳ねる。ボールはやがて床を転がって一つにまとまり、大きな赤い風船に姿を変えると、風に吹かれて浮き上がった。店の天井や壁はいつの間にかなくなっていて、敷地の外は見渡す限りどこまでも続く草原だった。黄色くぼやけた空に赤い風船が飛んでいく。
                       瞬きをすると私はカフェに戻ってきた。目の前の彼女は拍手をしていた。猫みたいなひとは「どこが明るいのよ」と言い、男の子は「イントロかな」と微笑んだ。
                       前の席の彼女が振り返り、おそらく冷めてしまっただろうココアを一口すすった。それから最近観た面白い映画について話し始めた。私はコーヒーカップに口をつけ、中身がなくなっていることに気づいて茫然とした。

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