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日が傾いた午後三時ごろ、車を運転していて、とある交差点で先頭に止まったときのことだった。
左手の手前の角に、赤いランドセルを背負った少女が二人いた。一人はショートヘアで、白地のプリントTシャツとカーキのショートパンツというボーイッシュな風貌。もう一人は白いブラウスに紺のスカートを履いており、髪を二つに結んだおとなしそうな子だった。ボーイッシュがガードレールの陰に屈み込んでいて、後ろに立つおとなしそうな子は不安げな表情でその様子を見守っている。
ボーイッシュは細い草のようなものを手に持ち、先っぽで白いガードレールの下をつついていた。少し身を乗り出すと、そこには黒と灰色の混ざった毛むくじゃらの何かが転がっていた。
ボーイッシュが体を起こして振り返り、おとなしそうな子を見た。少女は今にも泣き出しそうな表情で、スカートを強く掴んでいた。ボーイッシュが首を振る。おとなしそうな子が何か言った。その唇の動きは、声となって私の耳に届いた。
「しんだの?」
ボーイッシュがもう一度毛むくじゃらの方に向き直った。その表情は硬く、後ろのおとなしそうな子とは対照的に、子供らしさが微塵も感じられない。その冷たい瞳が見下ろしているのは、彼女にとって不必要なものなのだろう。例えば、破れたゴミ袋からはみ出している、昨日の夜に食べたアジの開きの頭。あるいは、舐めている途中で落としてしまって、どこからか沸いて出た蟻がたかっているイチゴ味のキャンディ。おそらくそんなようなものに違いなかった。
信号が赤から青に変わる。私はゆっくりと車を発信させながら、ちらりとガードレールの下に視線を滑らせた。そこに横たわっていた毛むくじゃらは、アジの開きの頭でもキャンディでもなかった。
ボーイッシュの持っていた草が、猫じゃらしだったことに気づく。その茎は、強く握り締められて折れ曲がっていた。
私はアクセルを踏んだ。
まだ私が高校生だった頃、同じ部活の仲間と帰る途中、細い道路の隅で小さな毛むくじゃらを見つけた。
「かわいい〜」と目をきらきらさせて近寄ったのは、後輩のRちゃんだった。人に慣れているのか、毛むくじゃらは逃げることもせずおとなしく撫でられていた。Rちゃんに促され、私もそっと触れてみる。真っ白な毛むくじゃらは、ほわほわとしてあたたかかった。時折「ニィ」と鳴いて、Rちゃんはそのたびに「かわいい」を連呼した。私と同じ学年のY、一つ上のM先輩、後輩のKちゃんは、後ろに立って微笑ましい光景を見守っていた。
状況が一変したのは、シルバーの乗用車が角を曲がって道路に入ってきた、そのときだった。毛むくじゃらは何を思ったのか、道路脇に寄った私たちとは逆に、道路の真ん中に飛び出したのだ。「あっ」とM先輩が声を上げた。
そこからはスローモーションだった。
宙に放り出され、アスファルトに打ち付けられる毛むくじゃら。その小さな体がびくびくと痙攣する。恐らく内臓が破裂したのだろう、口の端から赤い液体があふれ出した。
Rちゃんの叫び声が響き、Kちゃんの「うそ」という声が聞こえた。乗用車は止まることもなく走り去り、次の角で曲がって見えなくなった。Yが「気づいてないんだ」と言った。私は声を出すことができなかった。
毛むくじゃらは見るも無残な状態だった。白かった毛が赤く染まり、体温は急速に失われていった。もう二度と鳴くことはなかった。さっきまで幸せそうだったRちゃんは、その変わり果てた姿を見て、両の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。悲しそうな顔をしたM先輩、苦い顔をしたY、みんなが黙り込んで空気が重くなっていく。
そんな中、私は空を眺めていた。「形あるものはいつか壊れる」という祖母の声が思い出された。「一つの命が失われた。それにしても、ああ、なんと青く澄んだ空だろう」と思った。
「先輩、大丈夫ですか?」と聞いてきたのはKちゃんだった。私が「大丈夫だよ」と答えると、彼女は寂しそうに笑ってRちゃんを見つめた。
Kちゃんは、Rちゃんが落ち着くまで待ってから、毛むくじゃらを埋葬することを提案した。私たちは彼女の言うとおり、近くの公園の木の根元に穴を掘り、毛むくじゃらを埋めた。
交差点で、猫じゃらしを握り締めて立ち尽くすボーイッシュを見たとき、なぜか、Rちゃんを見つめるKちゃんの眼差しを思い出していた。表情は全く違ったが、私の中でその二人は深く共通しているように思えた。もしかしたらボーイッシュも、おとなしそうな子と一緒に公園に毛むくじゃらを埋めたのかもしれない。
夕暮れ時に車を運転していると、右手にある公園から、突然黒い毛むくじゃらが飛び出した。私は咄嗟にブレーキを踏んだ。毛むくじゃらは、薄暗い道路をしなやかに駆け抜け、反対側の茂みに消えた。
その日は三度、毛むくじゃらが私の行く先を横切った。二度目は夕飯時の住宅街で、三度目は街灯も少なく、車もほとんど通らない深夜の路上だった。
三度目の毛むくじゃらが視界から消えたあと、私は路肩に車を止めた。ハンドルに額をのせて、深く息を吐く。車を降りて助手席側に回り、ドアに寄りかかる。ゴウと吹く風が冷たい。夜空を仰ぎ見ると、いくつもの星が瞬いていた。
猫が死んだ。
私はそこで初めて、高校時代に目の前で吹き飛ばされた白い子猫と、午後に見たガードレールの下の子猫のために祈った。どこかで「ニィ」という鳴き声が聞こえた気がした。
左手の手前の角に、赤いランドセルを背負った少女が二人いた。一人はショートヘアで、白地のプリントTシャツとカーキのショートパンツというボーイッシュな風貌。もう一人は白いブラウスに紺のスカートを履いており、髪を二つに結んだおとなしそうな子だった。ボーイッシュがガードレールの陰に屈み込んでいて、後ろに立つおとなしそうな子は不安げな表情でその様子を見守っている。
ボーイッシュは細い草のようなものを手に持ち、先っぽで白いガードレールの下をつついていた。少し身を乗り出すと、そこには黒と灰色の混ざった毛むくじゃらの何かが転がっていた。
ボーイッシュが体を起こして振り返り、おとなしそうな子を見た。少女は今にも泣き出しそうな表情で、スカートを強く掴んでいた。ボーイッシュが首を振る。おとなしそうな子が何か言った。その唇の動きは、声となって私の耳に届いた。
「しんだの?」
ボーイッシュがもう一度毛むくじゃらの方に向き直った。その表情は硬く、後ろのおとなしそうな子とは対照的に、子供らしさが微塵も感じられない。その冷たい瞳が見下ろしているのは、彼女にとって不必要なものなのだろう。例えば、破れたゴミ袋からはみ出している、昨日の夜に食べたアジの開きの頭。あるいは、舐めている途中で落としてしまって、どこからか沸いて出た蟻がたかっているイチゴ味のキャンディ。おそらくそんなようなものに違いなかった。
信号が赤から青に変わる。私はゆっくりと車を発信させながら、ちらりとガードレールの下に視線を滑らせた。そこに横たわっていた毛むくじゃらは、アジの開きの頭でもキャンディでもなかった。
ボーイッシュの持っていた草が、猫じゃらしだったことに気づく。その茎は、強く握り締められて折れ曲がっていた。
私はアクセルを踏んだ。
まだ私が高校生だった頃、同じ部活の仲間と帰る途中、細い道路の隅で小さな毛むくじゃらを見つけた。
「かわいい〜」と目をきらきらさせて近寄ったのは、後輩のRちゃんだった。人に慣れているのか、毛むくじゃらは逃げることもせずおとなしく撫でられていた。Rちゃんに促され、私もそっと触れてみる。真っ白な毛むくじゃらは、ほわほわとしてあたたかかった。時折「ニィ」と鳴いて、Rちゃんはそのたびに「かわいい」を連呼した。私と同じ学年のY、一つ上のM先輩、後輩のKちゃんは、後ろに立って微笑ましい光景を見守っていた。
状況が一変したのは、シルバーの乗用車が角を曲がって道路に入ってきた、そのときだった。毛むくじゃらは何を思ったのか、道路脇に寄った私たちとは逆に、道路の真ん中に飛び出したのだ。「あっ」とM先輩が声を上げた。
そこからはスローモーションだった。
宙に放り出され、アスファルトに打ち付けられる毛むくじゃら。その小さな体がびくびくと痙攣する。恐らく内臓が破裂したのだろう、口の端から赤い液体があふれ出した。
Rちゃんの叫び声が響き、Kちゃんの「うそ」という声が聞こえた。乗用車は止まることもなく走り去り、次の角で曲がって見えなくなった。Yが「気づいてないんだ」と言った。私は声を出すことができなかった。
毛むくじゃらは見るも無残な状態だった。白かった毛が赤く染まり、体温は急速に失われていった。もう二度と鳴くことはなかった。さっきまで幸せそうだったRちゃんは、その変わり果てた姿を見て、両の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。悲しそうな顔をしたM先輩、苦い顔をしたY、みんなが黙り込んで空気が重くなっていく。
そんな中、私は空を眺めていた。「形あるものはいつか壊れる」という祖母の声が思い出された。「一つの命が失われた。それにしても、ああ、なんと青く澄んだ空だろう」と思った。
「先輩、大丈夫ですか?」と聞いてきたのはKちゃんだった。私が「大丈夫だよ」と答えると、彼女は寂しそうに笑ってRちゃんを見つめた。
Kちゃんは、Rちゃんが落ち着くまで待ってから、毛むくじゃらを埋葬することを提案した。私たちは彼女の言うとおり、近くの公園の木の根元に穴を掘り、毛むくじゃらを埋めた。
交差点で、猫じゃらしを握り締めて立ち尽くすボーイッシュを見たとき、なぜか、Rちゃんを見つめるKちゃんの眼差しを思い出していた。表情は全く違ったが、私の中でその二人は深く共通しているように思えた。もしかしたらボーイッシュも、おとなしそうな子と一緒に公園に毛むくじゃらを埋めたのかもしれない。
夕暮れ時に車を運転していると、右手にある公園から、突然黒い毛むくじゃらが飛び出した。私は咄嗟にブレーキを踏んだ。毛むくじゃらは、薄暗い道路をしなやかに駆け抜け、反対側の茂みに消えた。
その日は三度、毛むくじゃらが私の行く先を横切った。二度目は夕飯時の住宅街で、三度目は街灯も少なく、車もほとんど通らない深夜の路上だった。
三度目の毛むくじゃらが視界から消えたあと、私は路肩に車を止めた。ハンドルに額をのせて、深く息を吐く。車を降りて助手席側に回り、ドアに寄りかかる。ゴウと吹く風が冷たい。夜空を仰ぎ見ると、いくつもの星が瞬いていた。
猫が死んだ。
私はそこで初めて、高校時代に目の前で吹き飛ばされた白い子猫と、午後に見たガードレールの下の子猫のために祈った。どこかで「ニィ」という鳴き声が聞こえた気がした。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.10.12 | 一話完結 | comments(0) | ↑
「それ、シナモン?」
Tさんがドーナツを指差して言った。
私はTさんの下宿先に遊びに来ている。目の前の小さなテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ、お皿が二つ、それから私がミスドで買ってきたドーナツの箱が置かれていた。箱の中にはポン・デ・リングとフレンチクルーラーとハニーチュロ、それからたっぷりとシナモンが振りかけられたシナモンクルーラー。
箱を開けたその瞬間から、Tさんの様子がどこかおかしい。背が高くて声が大きめの彼女は、頼りになるお姉さんタイプで、大学のサークルでもみんなのまとめ役になることが多い。いつも明るくて、ついさっきまでだって豪快に笑っていた。それが、今や見事に顔が固まっている。
「まさかTさん、シナモンだめなの?」
「う、ううん、別に、そんなことないけど」
ふるふるふるふる、と必要以上に首を振ったあと、困ったように目をそらす。そんな彼女を見て、私のドSアンテナがぴんと反応した。ほほう左様でございますか。別にだめなわけじゃないと、そうおっしゃるわけですね。
「そっか、よかった、苦手だったらどうしようかと思った」胸に手を当て、わざとらしく安堵の息をついてみる。Tさんの肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
するとTさんは突然、開いた左手をぶんぶんと左右に振り始めた。それから早口でまくし立てる。「でも、Mちゃんシナモン好きでしょ? だからシナモンはMちゃんにあげるよ。私、フレンチクルーラーとハニーチュロが食べたいな」
いやまてそこ。逃げようとしたって、そうは問屋が卸しません。
「そんな、遠慮しなくてもいいじゃない」素早く紙ナプをかけて、ドーナツをつまむ。用意してあったお皿の上にフレンチクルーラーとシナモンを並べて、Tさんの前にすすっと寄せる。
「ほら、どうぞ召し上がれ」
Tさんはシナモンをにらんだまま硬直していた。もしもこれがマンガだったら、頭に青い縦線引いて、影濃い目、冷や汗だらだらに違いない。私は自分の分をお皿に載せて、箱をテーブルの端に置いた。まだ動かないTさんに、「どうしたの? 食べないの?」と追い討ちをかけてみる。すると彼女は「ご……」と呻いてうつむいた。
「ご?」
「ごめん、無理! 嘘つきましたシナモンは無理です、においだけでもダメなのに食べるとかぜったい無理!」
涙目で訴えてくる。いつもの朗らかな笑顔とのギャップもあって、なんとも嗜虐心をそそる。思っていたことが顔に出たのか、「Mちゃん、なんでニヤニヤしてるの」と恨めしそうに見られた。「ニヤニヤなんてしてないよ。気のせいだよ」とごまかす。
「仕方ないなぁ」と言いながらシナモンを私のお皿に移す。ハニーチュロをTさんのお皿に置こうとしたら、こぼれたシナモンが気になるのか「置かないで!」と叫ばれた。
「そんなにだめなの?」
「うん」
「ってことは、あれも? あの、京都の」
「八ツ橋? だめ、ぜったいだめ。売ってるとこの前通るだけでも頭痛がする」
「え、そんなに?」
「うん」
私がシナモンクルーラーをつまむと、Tさんは目を見開き、口をカッと開けて、威嚇する猫みたいな顔をした。構わず一口かじる。あとずさるTさん。じっと見つめてみる。
「こっち見てニヤニヤしながら食べるの、怖いって!」
「そんな、怖いなんて、ひどい! 別に何も企んでなんていないのに!」
「ちょ、な、何を企んでるの」
「だから企んでなんていないってば。ふふふふ」
「嘘つけー! 笑いが怪しすぎるわー!」
からかいながらドーナツを食べ終わる。Tさんは少し離れたところでこちらをガン見して、フーフーと息を吐いている。「ほら、もう怖いのはなくなったから、フレンチクルーラー食べなよ」と言うと、まだ警戒しながらも、こくりと頷いて近づいてくる。小さい犬か猫みたいだ。私の中で「可愛い!」という思いと「いじめたい!」という思いが絡まりながら暴走する。口元が緩みそうになるのを必死にこらえる。
すると、ふいに人差し指を突きつけられた。びっくりして、思わず後ろにのけぞる。まさか、悟られた?
「な、なに?」
「唇の端、ついてる」
指で拭うと、指の腹に茶色い粉がついた。
チェック厳しいよTさん。そう言いかけたとき、私の脳内で渦巻いていた感情やら欲望やらが高く打ち上げられ、空中で弾け、光り輝いた。
目の前では、Tさんが安心してフレンチクルーラーにかぶりついている。目を細めてドーナツを食む姿もまた愛らしい。Tさんと、自分の人差し指を交互に見る。私の口はもう、にんまりとした笑みを隠していなかった。彼女はそのことに気づかない。私は無駄のない動作で、光り輝いた思いつきを実行に移す。
ぴと。
Tさんの唇に触れる、私の人差し指を中心にして、時間が止まる。ゆっくり、ゆっくり、くるり、くるりと、世界が回る。にんまりと笑みを浮かべる私。何が起こったかわからなくて、食べかけのフレンチクルーラーをつまんだまま、とぼけたような表情の彼女。つながっている人差し指と唇、見つめ合う二人の瞳。くるり、くるり。私はさらに人差し指を突き出す。ゆっくり、ゆっくりと。半開きになっていたTさんの口に、するりと差し込まれる。かたい歯のさらに奥、やわらかく濡れた舌。その感触にうっとりする。
「にゃああ!」
Tさんの上げた叫び声で我に返る。永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。崩れ落ちるTさん。私はそれを見てようやく、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。
そばアレルギーの人はそばを食べると呼吸困難に陥ってしまうというのを聞いたことがある。Tさんもそうなってしまったのかもしれない。私は思わず呼吸と脈拍を確かめた。幸い、息はしていた。脈は少し速いような気がする。
「ごめんね、Tさん、ごめんね」
私はTさんのそばに座ると、膝の上に彼女の頭をのせた。Tさんは「ううー」と苦しそうに唸っている。
下唇にまだ少しシナモンが残っていたので、紙ナプで拭う。唇は、押し付けられた紙に引っ張られてから、ぷるんと震えた。私の人差し指に、さっきまでの感触が蘇る。私の中で、悪魔が再び目をさます。
この状態なら唇奪えるんじゃない?
顔がほてっていくのを感じる。でも、それってTさんに止めを刺す行為に他ならないのでは? そうなったら、きっと私は歯止めが効かなくなっちゃうだろう。理性は抵抗する。そんなことは関係ないでしょ、だって見てよこのぷるぷるの美味しそうな唇を。これを目の前にして口にしないなんておかしいんじゃないの。悪魔が囁く。
でも、でも、ともじもじしていたら、いつの間にか意識を取り戻していたTさんに白い目で見られた。
「Mちゃん、今、なに考えてたの」
「ううん、なにも考えてなんかいないよ、ふふふふふ」
「だからその怪しい笑いをやめれー!」
もうやだ、と半泣きになっているTさんに、私は悶絶する。
Tさんがドーナツを指差して言った。
私はTさんの下宿先に遊びに来ている。目の前の小さなテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ、お皿が二つ、それから私がミスドで買ってきたドーナツの箱が置かれていた。箱の中にはポン・デ・リングとフレンチクルーラーとハニーチュロ、それからたっぷりとシナモンが振りかけられたシナモンクルーラー。
箱を開けたその瞬間から、Tさんの様子がどこかおかしい。背が高くて声が大きめの彼女は、頼りになるお姉さんタイプで、大学のサークルでもみんなのまとめ役になることが多い。いつも明るくて、ついさっきまでだって豪快に笑っていた。それが、今や見事に顔が固まっている。
「まさかTさん、シナモンだめなの?」
「う、ううん、別に、そんなことないけど」
ふるふるふるふる、と必要以上に首を振ったあと、困ったように目をそらす。そんな彼女を見て、私のドSアンテナがぴんと反応した。ほほう左様でございますか。別にだめなわけじゃないと、そうおっしゃるわけですね。
「そっか、よかった、苦手だったらどうしようかと思った」胸に手を当て、わざとらしく安堵の息をついてみる。Tさんの肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
するとTさんは突然、開いた左手をぶんぶんと左右に振り始めた。それから早口でまくし立てる。「でも、Mちゃんシナモン好きでしょ? だからシナモンはMちゃんにあげるよ。私、フレンチクルーラーとハニーチュロが食べたいな」
いやまてそこ。逃げようとしたって、そうは問屋が卸しません。
「そんな、遠慮しなくてもいいじゃない」素早く紙ナプをかけて、ドーナツをつまむ。用意してあったお皿の上にフレンチクルーラーとシナモンを並べて、Tさんの前にすすっと寄せる。
「ほら、どうぞ召し上がれ」
Tさんはシナモンをにらんだまま硬直していた。もしもこれがマンガだったら、頭に青い縦線引いて、影濃い目、冷や汗だらだらに違いない。私は自分の分をお皿に載せて、箱をテーブルの端に置いた。まだ動かないTさんに、「どうしたの? 食べないの?」と追い討ちをかけてみる。すると彼女は「ご……」と呻いてうつむいた。
「ご?」
「ごめん、無理! 嘘つきましたシナモンは無理です、においだけでもダメなのに食べるとかぜったい無理!」
涙目で訴えてくる。いつもの朗らかな笑顔とのギャップもあって、なんとも嗜虐心をそそる。思っていたことが顔に出たのか、「Mちゃん、なんでニヤニヤしてるの」と恨めしそうに見られた。「ニヤニヤなんてしてないよ。気のせいだよ」とごまかす。
「仕方ないなぁ」と言いながらシナモンを私のお皿に移す。ハニーチュロをTさんのお皿に置こうとしたら、こぼれたシナモンが気になるのか「置かないで!」と叫ばれた。
「そんなにだめなの?」
「うん」
「ってことは、あれも? あの、京都の」
「八ツ橋? だめ、ぜったいだめ。売ってるとこの前通るだけでも頭痛がする」
「え、そんなに?」
「うん」
私がシナモンクルーラーをつまむと、Tさんは目を見開き、口をカッと開けて、威嚇する猫みたいな顔をした。構わず一口かじる。あとずさるTさん。じっと見つめてみる。
「こっち見てニヤニヤしながら食べるの、怖いって!」
「そんな、怖いなんて、ひどい! 別に何も企んでなんていないのに!」
「ちょ、な、何を企んでるの」
「だから企んでなんていないってば。ふふふふ」
「嘘つけー! 笑いが怪しすぎるわー!」
からかいながらドーナツを食べ終わる。Tさんは少し離れたところでこちらをガン見して、フーフーと息を吐いている。「ほら、もう怖いのはなくなったから、フレンチクルーラー食べなよ」と言うと、まだ警戒しながらも、こくりと頷いて近づいてくる。小さい犬か猫みたいだ。私の中で「可愛い!」という思いと「いじめたい!」という思いが絡まりながら暴走する。口元が緩みそうになるのを必死にこらえる。
すると、ふいに人差し指を突きつけられた。びっくりして、思わず後ろにのけぞる。まさか、悟られた?
「な、なに?」
「唇の端、ついてる」
指で拭うと、指の腹に茶色い粉がついた。
チェック厳しいよTさん。そう言いかけたとき、私の脳内で渦巻いていた感情やら欲望やらが高く打ち上げられ、空中で弾け、光り輝いた。
目の前では、Tさんが安心してフレンチクルーラーにかぶりついている。目を細めてドーナツを食む姿もまた愛らしい。Tさんと、自分の人差し指を交互に見る。私の口はもう、にんまりとした笑みを隠していなかった。彼女はそのことに気づかない。私は無駄のない動作で、光り輝いた思いつきを実行に移す。
ぴと。
Tさんの唇に触れる、私の人差し指を中心にして、時間が止まる。ゆっくり、ゆっくり、くるり、くるりと、世界が回る。にんまりと笑みを浮かべる私。何が起こったかわからなくて、食べかけのフレンチクルーラーをつまんだまま、とぼけたような表情の彼女。つながっている人差し指と唇、見つめ合う二人の瞳。くるり、くるり。私はさらに人差し指を突き出す。ゆっくり、ゆっくりと。半開きになっていたTさんの口に、するりと差し込まれる。かたい歯のさらに奥、やわらかく濡れた舌。その感触にうっとりする。
「にゃああ!」
Tさんの上げた叫び声で我に返る。永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。崩れ落ちるTさん。私はそれを見てようやく、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。
そばアレルギーの人はそばを食べると呼吸困難に陥ってしまうというのを聞いたことがある。Tさんもそうなってしまったのかもしれない。私は思わず呼吸と脈拍を確かめた。幸い、息はしていた。脈は少し速いような気がする。
「ごめんね、Tさん、ごめんね」
私はTさんのそばに座ると、膝の上に彼女の頭をのせた。Tさんは「ううー」と苦しそうに唸っている。
下唇にまだ少しシナモンが残っていたので、紙ナプで拭う。唇は、押し付けられた紙に引っ張られてから、ぷるんと震えた。私の人差し指に、さっきまでの感触が蘇る。私の中で、悪魔が再び目をさます。
この状態なら唇奪えるんじゃない?
顔がほてっていくのを感じる。でも、それってTさんに止めを刺す行為に他ならないのでは? そうなったら、きっと私は歯止めが効かなくなっちゃうだろう。理性は抵抗する。そんなことは関係ないでしょ、だって見てよこのぷるぷるの美味しそうな唇を。これを目の前にして口にしないなんておかしいんじゃないの。悪魔が囁く。
でも、でも、ともじもじしていたら、いつの間にか意識を取り戻していたTさんに白い目で見られた。
「Mちゃん、今、なに考えてたの」
「ううん、なにも考えてなんかいないよ、ふふふふふ」
「だからその怪しい笑いをやめれー!」
もうやだ、と半泣きになっているTさんに、私は悶絶する。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.10.08 | 一話完結 | comments(0) | ↑
「運命についてどう思う?」
ハンドルを握り、遥か前方を眺めながら尋ねる。時速90kmでバイパスを走る、くすんだ水色。俺の愛車。
俺は運転する合間に隣を盗み見る。助手席の少女はぐったりと体をシートに預けている。無造作に放り出された華奢な腕。何も見てないかのような瞳。アンニュイの海で溺れた人形のようだ。さっきマックでまずそうにポテトを食ってたときも、同じような目をしていた。
答えは返ってきそうにない。期待していたわけでもないが。そんなことを思っていると、「運命?」とか細い声で聞き返された。なんだ、聞こえてなかったのか?
「そう、運命。どう思う?」
一瞬、少女は首を傾げたらしかった。それから「考えたことない」と切り捨てられる。考えたことない? 考えたことないだって? さらには「それより」と声のトーンをやや上げて、話題を変えようとする始末。ちょっと待て。
「俺はさ、川の流れみたいなものなのかなって思ってるんだ」声がでかかったせいか、少女がびくりと体を震わせるのを感じた。「ありきたりだけどな」
工場の排煙みたいな嫌な雰囲気が車内に充満する。しばらくして少女は「ふうん」と小さく相槌を打った。話したければ勝手に話せば、という声が聞こえてきそうだ。
「途方もなくでかい川だ。何度も分かれて、いくつもの細い支流になる。そうかと思えば細い川どうしが合流して一つになる。俺たちは、川に流されてる空き缶とかペットボトルとか、そういうちっぽけな存在だ。でかい川の流れに逆らうことなんかできない。行き先を選んで器用に流れに乗るか、そうでなければ流れに翻弄され続けるかどっちかだ」
「ねえ」と少女は言う。「窓開けていい?」
俺は無視する。右に緩くカーブする二車線の道路の先に、海が見えた。
「近づくも離れるも流れ次第だ。ビンとフタみたいにぴったりな関係でも、流れが分かれればあっけなく壊れるし、逆にビニール袋とナイフみたいな一方的に傷つけられる関係でも、合流したままなら一緒にい続ける」
少女が窓を開ける。時速90kmの潮風が流れ込んできて、クーラーの冷気を追い出す。ハンドルが振られ、ひやりとしながらアクセルを緩める。俺はクーラーを消して、運転席側の窓を開けた。
眉をひそめ、ちらと助手席を見て、俺は思わず声を荒げた。
「おい、何してんだ」
少女は人形みたいな両腕を交差させて、半分くらい開いた窓の外に出していた。左腕の上に斜めに置かれた右腕。握られた手の下で、何かがきらりと光った。
そして彼女は、腕を勢いよくスライドさせた。
ぶしゅ、という音が聞こえた、気がした。溢れ出る鮮血。白い肌が赤く染まる。中途半端に開かれた窓ガラスを伝う。俺はハンドルを握ったまま、それらの映像を断片的に網膜に焼き付けていた。べたつく風が、鉄錆の臭いをのせて吹き込んでくる。
「腕、しまえ」声が少しかれていた。喉、渇いたな。
「汚れるよ?」少女がズレた答えを返す。
「左に寄せるから、腕けずられたくなかったら、しまえ」と言うと、沈黙の後、ずるりと腕を中に入れる音が聞こえた。一時停止用の場所を見つけ、ウインカーを左に出す。ブレーキを踏んで、ハザードをたく。かっち、かっち、と刻まれる一定のリズムが、心音を思わせる。
道路の縁に立つ、低いコンクリの壁の向こうに、海が広がっていた。エンジンを切ってドアを開ける。後部座席に積み重ねた荷物の中から、救急箱を引っ張り出す。車の後ろを回り、助手席のドアを開ける。
少女の顔は血の気が引いていて青白い。ますます人形めいている。かがんで左腕を取ると、痛かったのかその顔が歪んだ。
「なんで切った」止血しながら言う。
「わかれているの」と少女は言った。「水と油みたいな、はっきりとした境い目があるの。日常とか、現実とか言われるものは全部水の中にあって、話し声も表情もさわり心地もにおいも全部、油の膜に包まれたあたしの側には伝わってこない。ドレッシングみたいに少しのあいだだけ混ざったりするけど、すぐもとに戻る。それが本来のかたちだから」
「切るのは、境界線をなくす行為なのか?」真っ赤に染まった少女の左腕には、今つけた傷の他にもいくつかの線が走っていた。
少女は答える代わりに、「この川はどこへ流れてるの?」と尋ねてきた。突然、何のなぞなぞだ。俺は適当に「海だろ」と答える。
「境界線はなくなったりしない。あたしがあたしでなくなるか、あたしそのものがなくなるかしない限り」
「切るってことは、お前の存在を危険に晒す行為なんじゃないのか?」
「海に着いたら、そのあとはどうするの?」
ああ、さっきの運命の話か。
「着いてから考えればいいんじゃないか? そもそも、どこが海かだと思うのかもお前次第だしな。お前はどこへ行きたい?」
「……わからない」
「そうか。まあ、俺もどこへ行きたいのかよくわからないんだけどな」
「今は、海に行きたい」
「なんだ、わからないんじゃないのかよ」
「おじさんがあたしのことをわからないみたいに、あたしもあたしのことがわからない」
会話が噛み合ってない。意識が朦朧としているんだろうか。血を洗い流そうと、消毒液を取り出す。
「あ、飛行機雲」
少女の視線を辿る。夏の終わりの空に浮かぶ雲。その隙間を縫って、一本の線が走っていた。先端の飛行機はゆっくりと水平線に向かって落ちていく。
俺はその風景を、助手席の窓ガラス越しに見ていた。ガラスにこびりついた血が入道雲と重なる。暗い赤は白によく映えた。まるで雲に血しぶきが降りかかっているようだった。
少女は左腕を上げて、「青い空と白い雲、赤い血液。床屋のくるくる」と歌うように言った。その顔はうっすらと微笑んでいる。腕から滑り落ちたひとしずくが、白線の上で弾けた。
初めて感情を見せた少女に、俺はガーゼを大量に当て、包帯でぐるぐる巻きにする。彼女は非難するような目で俺を見て、「かゆい」とこぼした。
ハンドルを握り、遥か前方を眺めながら尋ねる。時速90kmでバイパスを走る、くすんだ水色。俺の愛車。
俺は運転する合間に隣を盗み見る。助手席の少女はぐったりと体をシートに預けている。無造作に放り出された華奢な腕。何も見てないかのような瞳。アンニュイの海で溺れた人形のようだ。さっきマックでまずそうにポテトを食ってたときも、同じような目をしていた。
答えは返ってきそうにない。期待していたわけでもないが。そんなことを思っていると、「運命?」とか細い声で聞き返された。なんだ、聞こえてなかったのか?
「そう、運命。どう思う?」
一瞬、少女は首を傾げたらしかった。それから「考えたことない」と切り捨てられる。考えたことない? 考えたことないだって? さらには「それより」と声のトーンをやや上げて、話題を変えようとする始末。ちょっと待て。
「俺はさ、川の流れみたいなものなのかなって思ってるんだ」声がでかかったせいか、少女がびくりと体を震わせるのを感じた。「ありきたりだけどな」
工場の排煙みたいな嫌な雰囲気が車内に充満する。しばらくして少女は「ふうん」と小さく相槌を打った。話したければ勝手に話せば、という声が聞こえてきそうだ。
「途方もなくでかい川だ。何度も分かれて、いくつもの細い支流になる。そうかと思えば細い川どうしが合流して一つになる。俺たちは、川に流されてる空き缶とかペットボトルとか、そういうちっぽけな存在だ。でかい川の流れに逆らうことなんかできない。行き先を選んで器用に流れに乗るか、そうでなければ流れに翻弄され続けるかどっちかだ」
「ねえ」と少女は言う。「窓開けていい?」
俺は無視する。右に緩くカーブする二車線の道路の先に、海が見えた。
「近づくも離れるも流れ次第だ。ビンとフタみたいにぴったりな関係でも、流れが分かれればあっけなく壊れるし、逆にビニール袋とナイフみたいな一方的に傷つけられる関係でも、合流したままなら一緒にい続ける」
少女が窓を開ける。時速90kmの潮風が流れ込んできて、クーラーの冷気を追い出す。ハンドルが振られ、ひやりとしながらアクセルを緩める。俺はクーラーを消して、運転席側の窓を開けた。
眉をひそめ、ちらと助手席を見て、俺は思わず声を荒げた。
「おい、何してんだ」
少女は人形みたいな両腕を交差させて、半分くらい開いた窓の外に出していた。左腕の上に斜めに置かれた右腕。握られた手の下で、何かがきらりと光った。
そして彼女は、腕を勢いよくスライドさせた。
ぶしゅ、という音が聞こえた、気がした。溢れ出る鮮血。白い肌が赤く染まる。中途半端に開かれた窓ガラスを伝う。俺はハンドルを握ったまま、それらの映像を断片的に網膜に焼き付けていた。べたつく風が、鉄錆の臭いをのせて吹き込んでくる。
「腕、しまえ」声が少しかれていた。喉、渇いたな。
「汚れるよ?」少女がズレた答えを返す。
「左に寄せるから、腕けずられたくなかったら、しまえ」と言うと、沈黙の後、ずるりと腕を中に入れる音が聞こえた。一時停止用の場所を見つけ、ウインカーを左に出す。ブレーキを踏んで、ハザードをたく。かっち、かっち、と刻まれる一定のリズムが、心音を思わせる。
道路の縁に立つ、低いコンクリの壁の向こうに、海が広がっていた。エンジンを切ってドアを開ける。後部座席に積み重ねた荷物の中から、救急箱を引っ張り出す。車の後ろを回り、助手席のドアを開ける。
少女の顔は血の気が引いていて青白い。ますます人形めいている。かがんで左腕を取ると、痛かったのかその顔が歪んだ。
「なんで切った」止血しながら言う。
「わかれているの」と少女は言った。「水と油みたいな、はっきりとした境い目があるの。日常とか、現実とか言われるものは全部水の中にあって、話し声も表情もさわり心地もにおいも全部、油の膜に包まれたあたしの側には伝わってこない。ドレッシングみたいに少しのあいだだけ混ざったりするけど、すぐもとに戻る。それが本来のかたちだから」
「切るのは、境界線をなくす行為なのか?」真っ赤に染まった少女の左腕には、今つけた傷の他にもいくつかの線が走っていた。
少女は答える代わりに、「この川はどこへ流れてるの?」と尋ねてきた。突然、何のなぞなぞだ。俺は適当に「海だろ」と答える。
「境界線はなくなったりしない。あたしがあたしでなくなるか、あたしそのものがなくなるかしない限り」
「切るってことは、お前の存在を危険に晒す行為なんじゃないのか?」
「海に着いたら、そのあとはどうするの?」
ああ、さっきの運命の話か。
「着いてから考えればいいんじゃないか? そもそも、どこが海かだと思うのかもお前次第だしな。お前はどこへ行きたい?」
「……わからない」
「そうか。まあ、俺もどこへ行きたいのかよくわからないんだけどな」
「今は、海に行きたい」
「なんだ、わからないんじゃないのかよ」
「おじさんがあたしのことをわからないみたいに、あたしもあたしのことがわからない」
会話が噛み合ってない。意識が朦朧としているんだろうか。血を洗い流そうと、消毒液を取り出す。
「あ、飛行機雲」
少女の視線を辿る。夏の終わりの空に浮かぶ雲。その隙間を縫って、一本の線が走っていた。先端の飛行機はゆっくりと水平線に向かって落ちていく。
俺はその風景を、助手席の窓ガラス越しに見ていた。ガラスにこびりついた血が入道雲と重なる。暗い赤は白によく映えた。まるで雲に血しぶきが降りかかっているようだった。
少女は左腕を上げて、「青い空と白い雲、赤い血液。床屋のくるくる」と歌うように言った。その顔はうっすらと微笑んでいる。腕から滑り落ちたひとしずくが、白線の上で弾けた。
初めて感情を見せた少女に、俺はガーゼを大量に当て、包帯でぐるぐる巻きにする。彼女は非難するような目で俺を見て、「かゆい」とこぼした。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.08.30 | 一話完結 | comments(0) | ↑
住宅街の中の、とあるマンション。通路の最奥に位置する201号室のドアは、開きっぱなしになっていた。表札の代わりに「トキトウ相談室」と書かれた小さな看板がついている。念のためインターホンを押してみると、奥から「どうぞお」という大きな声が聞こえた。
「靴を履いたままお入り下さい」というプレートに従って、廊下を土足で歩く。奥には広々としたダイニングキッチンがあった。ソファや観葉植物が置いてあるところを見ると、どうやら待合室らしい。右手にあるキッチンカウンターの上には「受付」というプレートが置かれ、奥の椅子に茶髪の男が座っている。入ってきたボクを見ると、ぱっと顔が明るくなった。
「ようこそトキトウ相談室へ! 初めてですか? こちらに名前を書いて下さいねっ」と、なにやら場違いな高いテンションで紙を差し出す。そんなに高校生が珍しいのか、そんなことを思いながら名前と生年月日を書いて返す。受け取った男はぎょっとしてボクと紙を交互に見比べた。それから少しトーンの下がった声で「それでは、おかけになって少々お待ち下さい」と言った。笑顔がひきつっている。この人は受付には向いてないな。
ソファに腰掛けると、茶髪男はばたばたとキッチンから出て、カウンターの反対側にある部屋に逃げていった。どうやらそこに先生がいるらしい。なにやら話す声が聞こえたあと、茶髪男が出てきて受付に戻った。
「どうぞお入り下さい」
隣の部屋から柔らかい声が響いた。立ち上がってドアに近づき、「失礼します」と言ってノブを回した。
「こんにちは」
目の前のソファに座る、白衣に身を包んだ男。年齢は30代半ばくらいだろうか。丸い顔に丸い眼鏡。天然パーマがかかった髪の、左耳の後ろだけがぴよんと跳ねている。なるほど、「話しやすい先生」という評判は間違ってないらしい。柔和でどこか抜けているように見える。でもそれはきっと罠だ。気をつけろ、細められた彼の目はすでに分析を始めているに違いない。
黙っているのもアレなので、とりあえず「こんにちは」と返してみた。
「どうぞおかけ下さい」
促されるまま、ゆっくりと二人掛けソファに腰掛け、スカートの裾を軽く直す。
「はじめまして、エミさん。私はトキトウといいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「突然ですが、エミさんは好きな飲み物とか、あります?」
「干し椎茸の戻し汁」
えっ、という小さな呟きが漏れる。
「干し椎茸の戻し汁が好きなんです」
「……渋い趣味ですね……。でも残念ながら、干し椎茸は置いてないんですよ。コーヒーと紅茶と緑茶と、オレンジジュースくらいならあったと思います」
そう言う先生の顔は本当に申し訳なさそうだった。ボクは少しだけ肩の力を抜く。「そうですか。じゃあ、温かいミルクティーでお願いします」
先生は立ち上がり、ドアを開けて「シバタ。いつものと、ミルクティーホット」と言った。「了解っす」と、茶髪男の声が返ってくる。
先生が戻ってきて、またソファに腰掛ける。
「さて、ここのことは、どなたから?」
「学校で友達に聞いて」
「そうですか、お友達から……どのあたりまでご存知ですか?」
「基本的に話をするだけの場所。先生は某大学の某助教授で、某出版社から本も出ていること。それだけです」
先生は「助教授には某はつけなくていいと思います」と律儀にツッコミを入れてから、この「トキトウ相談室」についての説明を始めた。単なる相談室のため、心療内科などとは違って薬の処方はできないこと。手に負えない場合は、知り合いの医者なり弁護士なりを紹介するということ。開いている曜日、一回の時間や料金について、などなど。
説明が終わったところでノックの音が響いた。「失礼します」と茶髪男が入ってくる。左手のお盆の上にはソーサーに載ったカップが二つ。喫茶店の店員のような慣れた手つきで、音も立てずにそれらをテーブルに置く。さっきまでのうろたえぶりはどこへやら、「ごゆっくりどうぞ」と丁寧に頭まで下げて出て行った。
あっけに取られていると先生が言う。
「どうぞ。シバタの淹れるお茶は、なかなかのものですよ」
「いただきます」
一口飲んでびっくりした。紅茶とミルクの絶妙なバランス、口の中でふわりと広がる香り。紅茶ってこんなに美味しいものだったのかと思った。
「美味しいです」と言うと、先生は「そうでしょう」と微笑んでコーヒーをすすった。
「さて、今日はどのような用件でこの相談室へ?」
先生はカップを置くとそう切り出した。紅茶で緩みかけた気持ちを引き締めて答える。
「実は、特に相談したいような悩みはないんです」
「え? そうなんですか?」
「はい」
「では、どうしてここへ?」
「友達に聞いて、興味を持ったからです」
「興味、ですか」
「だってなんか面白そうじゃないですか。話を聞いてもらうだけの場所があるなんて」
「そうですか? エミさんくらいの年齢だと、退屈に思われるような気がするんですが」
「学校でつまらない授業を延々と聞いたり、クラスメートと下らないお喋りをしたりする方がよっぽど退屈です」
「お友達もいるでしょう? お友達と話すのは楽しくないんですか?」
「楽しいですよ。でも、あまり友達いないんですよ。高校の友達は三人くらいかな……」
「同じクラスに?」
「いえ、先生二人と先輩一人です」
「同級生でもないんですね……」
「そもそも、自分のクラスにあまり行かないんです」
「じゃあ普段はどこにいるんですか?」
「中庭か、保健室か、美術準備室ですね」
「ええと……お友達の先生二人というのは」
「保健室の先生と、美術の先生です」
「もしかして美術の先生って、カゲヤマ先生ですか? たしか、今はA高校に勤めていると思うのですが」
「あ、はい、そうです。美術のカゲちゃん先生」
「カゲちゃん……」
「でもなんで分かったんですか、A高校に通ってること。カゲちゃん先生から何か聞いてたんですか?」
「いえ、何も。ただ、エミさんが着ている制服がA高校のものだったので」
「まさか先生、制服マニアなんですか?」
「違いますよ。胸のところに校章がついているから、それで」
「胸だなんて、いやらしい」
「…………。カゲヤマ先生と僕は、大学で同じサークルに入っていたんですよ」
「聞きました。実はここのことを教えてくれたのはカゲちゃん先生なんです。さっき美術準備室に寄ってきたんですけど、今から相談室に行くと言ったら嬉しそうな顔してました」
「カゲヤマ先生、僕について何か言ってませんでした?」
そう言って、カップを口に運ぶトキトウ先生。コーヒーが口の中に入ったことを確認した上で、言う。
「私と彼は舌を舐め合う仲だ、と」
ごふっ、と喉の奥のほうで音がした。白衣のポケットからハンカチを取り出して口を押さえ、前のめりになってげほげほと苦しそうに咳き込んでいる。しばらくして顔を上げた先生は、ずれた眼鏡を直しながら「失礼」と小さい声で言った。
「大丈夫ですか?」
「ええ……なんとか……」
「先生は、同年代の男性と舌を舐め合う趣味をお持ちなんですか?」
真剣にそう尋ねると、先生は「んん!」と喉の奥で咳をしてから、ふう、と一息吐いた。そして苦笑しながら言った。
「そういう趣味はありません。彼は単なる友人です」
「その単なる友人は、トキトウたんは俺の嫁だと言ってましたよ」
「冗談ですよ」と言って、溜息をつく。「全く、生徒に何を言っているんだか……」
「先生、顔が赤いですよ。いやらしい」
「それは多分、さっきコーヒーにむせたせいです」
膝に肘をのせ、少し前かがみになって、左手の人差し指で眼鏡を持ち上げる。「というか、エミさんは」苦笑いを浮かべた顔の中で、見上げるような目だけが笑っていない気がした。
「僕をおちょくってるんですか」
「そうです」
笑顔を作りながら即答する。対する相手の表情はぶれない。微笑を貼り付けた人形と対峙しているような感覚。はめ込まれた目だけが静かに私を見ている。一、二、三、ゆっくりと数をかぞえる。十七まで達したところで、人形は先生に戻って、背筋を伸ばした。コーヒーを一口飲み、当たり障りのない世間話でも始めるかのような気楽な様子で、「話は変わりますが」と言った。
「その格好は、君の趣味なんですか? エミ・タケヒサくん」
ざわり、と鳥肌が立つ。自分の顔が、自然と不敵な笑みを浮かべるのを感じた。
「違いますよ」
「では、自分の体が男であることに疑問を感じている?」
「それも違います」
「じゃあなぜ、どうしてそんな格好をしているんですか」先生はまた身を乗り出すようにして尋ねる。「というかそもそも、どうやって女子用の制服を手に入れたんですか」
「……先生、欲しいんですか」
「いえ、興味ではなく、単なる疑問です」
「一コ上の先輩にお願いしたんですよ。ボクと同じくらいの背丈の女の子です」
「ああ、三人の友達のうちの、最後の一人ですか」
「そうです。そうそう、この髪」くるん、と指で弄んでみる。「ウィッグっていうんですか、これつけてくれたのも、先輩です」
「先輩には、何も聞かれなかったんですか?」
「ええ、何も言わずに、喜んで協力してくれましたよ。写真撮影許可という条件付ですが」
「……そうですか……類は友を呼ぶというか……」
「それは暗にボクのことを変態だと言ってるんですか?」
「違うんですか? というか、先輩は変態決定なんですか?」
「いや確かにボクは変かもしれない。けど、制服マニアで男色家の先生だって人のことは言えないでしょう」
「だから違うと言ってるでしょうが」
「ハッ!」
「ど、どうしたんですか」
「今、とても重大なことに気づいたんですが」
「なんですか?」
「先生が制服マニアで男色家ということは、今のボクは明らかにストライクゾーンに」
「いい加減にしてください」
「靴を履いたままお入り下さい」というプレートに従って、廊下を土足で歩く。奥には広々としたダイニングキッチンがあった。ソファや観葉植物が置いてあるところを見ると、どうやら待合室らしい。右手にあるキッチンカウンターの上には「受付」というプレートが置かれ、奥の椅子に茶髪の男が座っている。入ってきたボクを見ると、ぱっと顔が明るくなった。
「ようこそトキトウ相談室へ! 初めてですか? こちらに名前を書いて下さいねっ」と、なにやら場違いな高いテンションで紙を差し出す。そんなに高校生が珍しいのか、そんなことを思いながら名前と生年月日を書いて返す。受け取った男はぎょっとしてボクと紙を交互に見比べた。それから少しトーンの下がった声で「それでは、おかけになって少々お待ち下さい」と言った。笑顔がひきつっている。この人は受付には向いてないな。
ソファに腰掛けると、茶髪男はばたばたとキッチンから出て、カウンターの反対側にある部屋に逃げていった。どうやらそこに先生がいるらしい。なにやら話す声が聞こえたあと、茶髪男が出てきて受付に戻った。
「どうぞお入り下さい」
隣の部屋から柔らかい声が響いた。立ち上がってドアに近づき、「失礼します」と言ってノブを回した。
「こんにちは」
目の前のソファに座る、白衣に身を包んだ男。年齢は30代半ばくらいだろうか。丸い顔に丸い眼鏡。天然パーマがかかった髪の、左耳の後ろだけがぴよんと跳ねている。なるほど、「話しやすい先生」という評判は間違ってないらしい。柔和でどこか抜けているように見える。でもそれはきっと罠だ。気をつけろ、細められた彼の目はすでに分析を始めているに違いない。
黙っているのもアレなので、とりあえず「こんにちは」と返してみた。
「どうぞおかけ下さい」
促されるまま、ゆっくりと二人掛けソファに腰掛け、スカートの裾を軽く直す。
「はじめまして、エミさん。私はトキトウといいます。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「突然ですが、エミさんは好きな飲み物とか、あります?」
「干し椎茸の戻し汁」
えっ、という小さな呟きが漏れる。
「干し椎茸の戻し汁が好きなんです」
「……渋い趣味ですね……。でも残念ながら、干し椎茸は置いてないんですよ。コーヒーと紅茶と緑茶と、オレンジジュースくらいならあったと思います」
そう言う先生の顔は本当に申し訳なさそうだった。ボクは少しだけ肩の力を抜く。「そうですか。じゃあ、温かいミルクティーでお願いします」
先生は立ち上がり、ドアを開けて「シバタ。いつものと、ミルクティーホット」と言った。「了解っす」と、茶髪男の声が返ってくる。
先生が戻ってきて、またソファに腰掛ける。
「さて、ここのことは、どなたから?」
「学校で友達に聞いて」
「そうですか、お友達から……どのあたりまでご存知ですか?」
「基本的に話をするだけの場所。先生は某大学の某助教授で、某出版社から本も出ていること。それだけです」
先生は「助教授には某はつけなくていいと思います」と律儀にツッコミを入れてから、この「トキトウ相談室」についての説明を始めた。単なる相談室のため、心療内科などとは違って薬の処方はできないこと。手に負えない場合は、知り合いの医者なり弁護士なりを紹介するということ。開いている曜日、一回の時間や料金について、などなど。
説明が終わったところでノックの音が響いた。「失礼します」と茶髪男が入ってくる。左手のお盆の上にはソーサーに載ったカップが二つ。喫茶店の店員のような慣れた手つきで、音も立てずにそれらをテーブルに置く。さっきまでのうろたえぶりはどこへやら、「ごゆっくりどうぞ」と丁寧に頭まで下げて出て行った。
あっけに取られていると先生が言う。
「どうぞ。シバタの淹れるお茶は、なかなかのものですよ」
「いただきます」
一口飲んでびっくりした。紅茶とミルクの絶妙なバランス、口の中でふわりと広がる香り。紅茶ってこんなに美味しいものだったのかと思った。
「美味しいです」と言うと、先生は「そうでしょう」と微笑んでコーヒーをすすった。
「さて、今日はどのような用件でこの相談室へ?」
先生はカップを置くとそう切り出した。紅茶で緩みかけた気持ちを引き締めて答える。
「実は、特に相談したいような悩みはないんです」
「え? そうなんですか?」
「はい」
「では、どうしてここへ?」
「友達に聞いて、興味を持ったからです」
「興味、ですか」
「だってなんか面白そうじゃないですか。話を聞いてもらうだけの場所があるなんて」
「そうですか? エミさんくらいの年齢だと、退屈に思われるような気がするんですが」
「学校でつまらない授業を延々と聞いたり、クラスメートと下らないお喋りをしたりする方がよっぽど退屈です」
「お友達もいるでしょう? お友達と話すのは楽しくないんですか?」
「楽しいですよ。でも、あまり友達いないんですよ。高校の友達は三人くらいかな……」
「同じクラスに?」
「いえ、先生二人と先輩一人です」
「同級生でもないんですね……」
「そもそも、自分のクラスにあまり行かないんです」
「じゃあ普段はどこにいるんですか?」
「中庭か、保健室か、美術準備室ですね」
「ええと……お友達の先生二人というのは」
「保健室の先生と、美術の先生です」
「もしかして美術の先生って、カゲヤマ先生ですか? たしか、今はA高校に勤めていると思うのですが」
「あ、はい、そうです。美術のカゲちゃん先生」
「カゲちゃん……」
「でもなんで分かったんですか、A高校に通ってること。カゲちゃん先生から何か聞いてたんですか?」
「いえ、何も。ただ、エミさんが着ている制服がA高校のものだったので」
「まさか先生、制服マニアなんですか?」
「違いますよ。胸のところに校章がついているから、それで」
「胸だなんて、いやらしい」
「…………。カゲヤマ先生と僕は、大学で同じサークルに入っていたんですよ」
「聞きました。実はここのことを教えてくれたのはカゲちゃん先生なんです。さっき美術準備室に寄ってきたんですけど、今から相談室に行くと言ったら嬉しそうな顔してました」
「カゲヤマ先生、僕について何か言ってませんでした?」
そう言って、カップを口に運ぶトキトウ先生。コーヒーが口の中に入ったことを確認した上で、言う。
「私と彼は舌を舐め合う仲だ、と」
ごふっ、と喉の奥のほうで音がした。白衣のポケットからハンカチを取り出して口を押さえ、前のめりになってげほげほと苦しそうに咳き込んでいる。しばらくして顔を上げた先生は、ずれた眼鏡を直しながら「失礼」と小さい声で言った。
「大丈夫ですか?」
「ええ……なんとか……」
「先生は、同年代の男性と舌を舐め合う趣味をお持ちなんですか?」
真剣にそう尋ねると、先生は「んん!」と喉の奥で咳をしてから、ふう、と一息吐いた。そして苦笑しながら言った。
「そういう趣味はありません。彼は単なる友人です」
「その単なる友人は、トキトウたんは俺の嫁だと言ってましたよ」
「冗談ですよ」と言って、溜息をつく。「全く、生徒に何を言っているんだか……」
「先生、顔が赤いですよ。いやらしい」
「それは多分、さっきコーヒーにむせたせいです」
膝に肘をのせ、少し前かがみになって、左手の人差し指で眼鏡を持ち上げる。「というか、エミさんは」苦笑いを浮かべた顔の中で、見上げるような目だけが笑っていない気がした。
「僕をおちょくってるんですか」
「そうです」
笑顔を作りながら即答する。対する相手の表情はぶれない。微笑を貼り付けた人形と対峙しているような感覚。はめ込まれた目だけが静かに私を見ている。一、二、三、ゆっくりと数をかぞえる。十七まで達したところで、人形は先生に戻って、背筋を伸ばした。コーヒーを一口飲み、当たり障りのない世間話でも始めるかのような気楽な様子で、「話は変わりますが」と言った。
「その格好は、君の趣味なんですか? エミ・タケヒサくん」
ざわり、と鳥肌が立つ。自分の顔が、自然と不敵な笑みを浮かべるのを感じた。
「違いますよ」
「では、自分の体が男であることに疑問を感じている?」
「それも違います」
「じゃあなぜ、どうしてそんな格好をしているんですか」先生はまた身を乗り出すようにして尋ねる。「というかそもそも、どうやって女子用の制服を手に入れたんですか」
「……先生、欲しいんですか」
「いえ、興味ではなく、単なる疑問です」
「一コ上の先輩にお願いしたんですよ。ボクと同じくらいの背丈の女の子です」
「ああ、三人の友達のうちの、最後の一人ですか」
「そうです。そうそう、この髪」くるん、と指で弄んでみる。「ウィッグっていうんですか、これつけてくれたのも、先輩です」
「先輩には、何も聞かれなかったんですか?」
「ええ、何も言わずに、喜んで協力してくれましたよ。写真撮影許可という条件付ですが」
「……そうですか……類は友を呼ぶというか……」
「それは暗にボクのことを変態だと言ってるんですか?」
「違うんですか? というか、先輩は変態決定なんですか?」
「いや確かにボクは変かもしれない。けど、制服マニアで男色家の先生だって人のことは言えないでしょう」
「だから違うと言ってるでしょうが」
「ハッ!」
「ど、どうしたんですか」
「今、とても重大なことに気づいたんですが」
「なんですか?」
「先生が制服マニアで男色家ということは、今のボクは明らかにストライクゾーンに」
「いい加減にしてください」
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.08.12 | 一話完結 | comments(0) | ↑
「いい加減、本ばっかり読んでないで」と祖母の声。「どこか出かけてきたらどうだい」
畳の上で仰向けに寝転がった私は、文庫本のページをはらりと捲り、「んー」と曖昧な返事をする。夏休みに祖母の家に遊びに来て三日、私はそのほとんどを読書に費やしていた。
「クーラーにばかり当たってると体冷やすよ」
ばさっ、と洗濯したシャツを広げる音が聞こえる。
「んー」28℃の風を浴びつつ、ごろん、とひっくり返ってうつ伏せになる。「でも、外も暑いしねー。熱中症になったら大変だしね」という棒読みの台詞が口から出て、ぼてっと畳の上に落ちた。
「そりゃまあそうかもしれんけど……」ばさっ。洗濯物を干しながら、眉のあいだに皺を寄せる祖母の顔が思い浮かぶ。「朝のうちならまだ涼しいだろうに」
「んー」集中できなくなって、本を閉じる。立ち上がって伸びをしてから、言う。「じゃ、山行ってくるよ」
すると祖母が裏口から嬉しそうな顔を覗かせた。「そうかい。行っておいで」
「うん」と頷く。「本を読みにね」と口にする代わりに、手で肩掛けの鞄を掴む。
「お昼には帰るんだよ」
「暑くなったら戻ってくるよ」
外を歩く人はほとんどいなかった。黒く乾ききったアスファルトが、陽炎のせいで溶けて沸騰しているように見える。温められてお湯みたいになった空気をかき分け、サンダルをべたべた言わせながら歩く。
夏の太陽は朝から容赦がない。すぐに汗ばんで、前髪がおでこに張り付く。日なたに出ると、肌がじりじり音を立てて焦げるような気がした。塀の影から庭の木の影へ、縫うようにして進む。ジワジワジワ、ワンワンワンワン……という警報音のような鳴き声が、より一層気温を上昇させているように感じて、木に止まった虫をにらみつけた。
山のふもとには寺があり、寺の前にはプールみたいに四角い池がある。池の水は底が見えないくらい濁っていて、水面は蓮の葉っぱでほとんど埋め尽くされている。トンボがたくさん飛んでいた。
寺の門の脇にある、「山の入り口」と勝手に呼んでいる小道に入る。かなり急な石段が続き、途中で丸太の階段に変わる。その辺りから頭上には青々とした葉が茂り、日光のかわりに蝉時雨が降りしきるようになる。さっきまで空気を加熱していた鳴き声も、木々の下では涼しい湧き水のように感じられるから不思議だ。吹く風が汗を乾かしていく。
しばらくすると丸太階段もなくなって、さらに険しい山道になった。木の根や岩を踏み台にして進む。たちまち息が上がって、汗だくになる。明らかに運動不足だ。そろそろ限界、と思ったところで、水の流れる音が聞こえた。もう少し。
山道の先には、滝があった。
滝といっても、それほど高くもないし、水の量も多くない。ただ、そこは幼い頃に祖父と訪れて以来、私のお気に入りの場所だった。
どぼどぼと落ちる水音を聞きながら、小さな橋を渡る。渡った先に屋根つきの休憩所があって、私は崩れるように中のベンチに座った。正面の滝から、水分を含んだ涼しい空気が流れてきて、火照った私の体を冷やしてくれる。
視界の端で何か揺れてるな、と思ったら、大きな蜘蛛が宙に浮いていた。目を凝らすと、休憩所の屋根と隣の木のあいだに芸術的な模様が描かれている。ふらふらと風に揺れているのが、どこか心地よさそうだ。君もここが好きなの、と笑いかける。
さてと。私は鞄に手を突っ込んで、一冊の本を取り出した。涼しげな水色の表紙。その右下に、麦藁帽子を被った女性が柔らかいタッチで描かれている。カバーの爪には、ウェブ上で連載している女流マンガ家の名前があった。
蝉の声と滝の音を聞きながら、私はページを捲った。
どぼん、という音がした。冷たい水に包まれ、気泡が私の周りから逃げていく。
あたりは見渡す限り青い。青は深いところほど濃くなっている。周りには岩山もなければ魚も泳いでなくて、ただ、白い粒子がふわふわと舞っているだけだ。おかげで、ぼんやりと見える海底までどのくらい距離があるかもよくわからない。
見上げると、太陽の光が波打つ水面で弾けてきらきらと輝いていた。右手をかざしてみる。指の間を、こぽこぽと吐き出した息が上っていく。反対に、私の体は頭からゆっくりと沈んでいく。
そろそろ息継ぎしなきゃ。私は体を反転させて、水面に向かって両手で大きく水をかいた。足をばたばたと動かす。けれど、いくらそうしても体は一向に浮き上がらない。
だんだん息が苦しくなる。ごぼっという音を立てて、いくつもの空気の玉が口からこぼれた。水が口の中に入ってくる。耳鳴りがし始める。頭がガンガン鳴る。寒い。早く。呼吸。苦しい。溺れる。苦しい。沈む。苦しい。苦しい。
突然、冷やっこい何かが顔に張り付いた。
「おい」と低い声が聞こえる。「おい、大丈夫か」
意識が声を手繰り寄せると、滝の音と蝉時雨が聞こえ始めた。まぶたの上に何か置かれている。指でつまんでみる。濡れタオルだった。その向こうに休憩所の天井が見える。いつの間に横になったんだろう。
体を起こす。眩暈がする。頭痛が襲う。心臓が耳元で鳴っているみたいだ。思わず後ろの壁にもたれた。体が熱い。
「まだ立たない方がいい」
顔を上げると、向かいのベンチに若い男の人が座っていた。
「ええと、私……?」
「倒れてたんだよ。たぶん、熱中症」小さなリュックに手を突っ込む。出てきたのはペットボトルのポカリだった。フタを開ける、白くて細長い腕。その腕が私のほうに伸びて、「飲みな」と言う。受け取って口をつける。よく冷えたポカリが、からだじゅうに染み渡っていく。
「それ、やるよ。タオルも」
「ありがとう」
お礼を言うと、男の人はなぜか不意に目をそらした。「そういえば、さっき」と言いにくそうに言う。
「悪いとは思ったけど、体拭いたから」
「え」
胸元を見る。シャツのボタンがほぼ全て外され、前がはだけていた。思わず腕で隠す。また顔が火照るのを感じながら、慌ててボタンをつける。
「まあ、人命優先ってことで」
男の人は目をそらしたまま、困ったような顔をした。
それからしばらく黙って座っていた。男の人は、リュックの中からもう一本ペットボトルを取り出して口をつけた。生白い喉が動いてごくりと鳴る。私も一緒にポカリをこくこく飲む。
ふと休憩所の隣を見ると、見事な蜘蛛の巣だけが残されており、家主はいなかった。もしかしたら、と私は視線を戻す。この人は、さっきの蜘蛛かもしれないな。
体の熱が冷めてきたので、ゆっくり立ち上がってみる。眩暈も頭痛も治まっていた。
「もう、大丈夫です、たぶん」
「家、どっち」
「ええと、向こう」指で差しながら言う。
「寺の方か」と言って蜘蛛は立ち上がり、先に歩き始めた。「送ってくよ」
「え、でも」ここを離れていいんですか。
「途中でまた倒れたらヤバイだろ」
そうして、私は蜘蛛に連れられて来た道を戻った。途中、足場の悪いところで手を取られたりしながら。蜘蛛の手は思っていたよりすべすべで、ひんやりとしていた。
山の入り口を出る。池の前を通って、アスファルトの上を歩く。祖母の家が見えてきた。
「あそこです」
「そっか。じゃあ、俺はここで」
「え?」
「ここまでくれば大丈夫だろ」
「そうですけど……なにか、お礼とか」
「いや、まあ、いいよ」と蜘蛛は手を振った。「今度から気をつけなよ。あと、念のため医者に行っとけよ。それじゃ」
そう言って蜘蛛はまた山の方に歩いていった。私はその背中を見て、ああやっぱりあそこに帰らなきゃいけないんだな、と妙に納得した。
「ただいま」と玄関のドアを開ける。祖母はクーラーの効いた居間でテレビを見ていた。「ずいぶん長いこと出てたね」と言われて壁掛け時計を見ると、もう午後の一時を過ぎている。
鞄からペットボトルとタオルを取り出す。ポカリの最後の一口を飲みながら、さっきまでのことを思い返してみる。なんだか今も青い水の中で漂っているような感じだ。
そうだ、タオルを洗って返しに行こう。明日もあそこにいるだろうか。空っぽになったペットボトルを見つめて、ぼんやりとそう思った。
畳の上で仰向けに寝転がった私は、文庫本のページをはらりと捲り、「んー」と曖昧な返事をする。夏休みに祖母の家に遊びに来て三日、私はそのほとんどを読書に費やしていた。
「クーラーにばかり当たってると体冷やすよ」
ばさっ、と洗濯したシャツを広げる音が聞こえる。
「んー」28℃の風を浴びつつ、ごろん、とひっくり返ってうつ伏せになる。「でも、外も暑いしねー。熱中症になったら大変だしね」という棒読みの台詞が口から出て、ぼてっと畳の上に落ちた。
「そりゃまあそうかもしれんけど……」ばさっ。洗濯物を干しながら、眉のあいだに皺を寄せる祖母の顔が思い浮かぶ。「朝のうちならまだ涼しいだろうに」
「んー」集中できなくなって、本を閉じる。立ち上がって伸びをしてから、言う。「じゃ、山行ってくるよ」
すると祖母が裏口から嬉しそうな顔を覗かせた。「そうかい。行っておいで」
「うん」と頷く。「本を読みにね」と口にする代わりに、手で肩掛けの鞄を掴む。
「お昼には帰るんだよ」
「暑くなったら戻ってくるよ」
外を歩く人はほとんどいなかった。黒く乾ききったアスファルトが、陽炎のせいで溶けて沸騰しているように見える。温められてお湯みたいになった空気をかき分け、サンダルをべたべた言わせながら歩く。
夏の太陽は朝から容赦がない。すぐに汗ばんで、前髪がおでこに張り付く。日なたに出ると、肌がじりじり音を立てて焦げるような気がした。塀の影から庭の木の影へ、縫うようにして進む。ジワジワジワ、ワンワンワンワン……という警報音のような鳴き声が、より一層気温を上昇させているように感じて、木に止まった虫をにらみつけた。
山のふもとには寺があり、寺の前にはプールみたいに四角い池がある。池の水は底が見えないくらい濁っていて、水面は蓮の葉っぱでほとんど埋め尽くされている。トンボがたくさん飛んでいた。
寺の門の脇にある、「山の入り口」と勝手に呼んでいる小道に入る。かなり急な石段が続き、途中で丸太の階段に変わる。その辺りから頭上には青々とした葉が茂り、日光のかわりに蝉時雨が降りしきるようになる。さっきまで空気を加熱していた鳴き声も、木々の下では涼しい湧き水のように感じられるから不思議だ。吹く風が汗を乾かしていく。
しばらくすると丸太階段もなくなって、さらに険しい山道になった。木の根や岩を踏み台にして進む。たちまち息が上がって、汗だくになる。明らかに運動不足だ。そろそろ限界、と思ったところで、水の流れる音が聞こえた。もう少し。
山道の先には、滝があった。
滝といっても、それほど高くもないし、水の量も多くない。ただ、そこは幼い頃に祖父と訪れて以来、私のお気に入りの場所だった。
どぼどぼと落ちる水音を聞きながら、小さな橋を渡る。渡った先に屋根つきの休憩所があって、私は崩れるように中のベンチに座った。正面の滝から、水分を含んだ涼しい空気が流れてきて、火照った私の体を冷やしてくれる。
視界の端で何か揺れてるな、と思ったら、大きな蜘蛛が宙に浮いていた。目を凝らすと、休憩所の屋根と隣の木のあいだに芸術的な模様が描かれている。ふらふらと風に揺れているのが、どこか心地よさそうだ。君もここが好きなの、と笑いかける。
さてと。私は鞄に手を突っ込んで、一冊の本を取り出した。涼しげな水色の表紙。その右下に、麦藁帽子を被った女性が柔らかいタッチで描かれている。カバーの爪には、ウェブ上で連載している女流マンガ家の名前があった。
蝉の声と滝の音を聞きながら、私はページを捲った。
どぼん、という音がした。冷たい水に包まれ、気泡が私の周りから逃げていく。
あたりは見渡す限り青い。青は深いところほど濃くなっている。周りには岩山もなければ魚も泳いでなくて、ただ、白い粒子がふわふわと舞っているだけだ。おかげで、ぼんやりと見える海底までどのくらい距離があるかもよくわからない。
見上げると、太陽の光が波打つ水面で弾けてきらきらと輝いていた。右手をかざしてみる。指の間を、こぽこぽと吐き出した息が上っていく。反対に、私の体は頭からゆっくりと沈んでいく。
そろそろ息継ぎしなきゃ。私は体を反転させて、水面に向かって両手で大きく水をかいた。足をばたばたと動かす。けれど、いくらそうしても体は一向に浮き上がらない。
だんだん息が苦しくなる。ごぼっという音を立てて、いくつもの空気の玉が口からこぼれた。水が口の中に入ってくる。耳鳴りがし始める。頭がガンガン鳴る。寒い。早く。呼吸。苦しい。溺れる。苦しい。沈む。苦しい。苦しい。
突然、冷やっこい何かが顔に張り付いた。
「おい」と低い声が聞こえる。「おい、大丈夫か」
意識が声を手繰り寄せると、滝の音と蝉時雨が聞こえ始めた。まぶたの上に何か置かれている。指でつまんでみる。濡れタオルだった。その向こうに休憩所の天井が見える。いつの間に横になったんだろう。
体を起こす。眩暈がする。頭痛が襲う。心臓が耳元で鳴っているみたいだ。思わず後ろの壁にもたれた。体が熱い。
「まだ立たない方がいい」
顔を上げると、向かいのベンチに若い男の人が座っていた。
「ええと、私……?」
「倒れてたんだよ。たぶん、熱中症」小さなリュックに手を突っ込む。出てきたのはペットボトルのポカリだった。フタを開ける、白くて細長い腕。その腕が私のほうに伸びて、「飲みな」と言う。受け取って口をつける。よく冷えたポカリが、からだじゅうに染み渡っていく。
「それ、やるよ。タオルも」
「ありがとう」
お礼を言うと、男の人はなぜか不意に目をそらした。「そういえば、さっき」と言いにくそうに言う。
「悪いとは思ったけど、体拭いたから」
「え」
胸元を見る。シャツのボタンがほぼ全て外され、前がはだけていた。思わず腕で隠す。また顔が火照るのを感じながら、慌ててボタンをつける。
「まあ、人命優先ってことで」
男の人は目をそらしたまま、困ったような顔をした。
それからしばらく黙って座っていた。男の人は、リュックの中からもう一本ペットボトルを取り出して口をつけた。生白い喉が動いてごくりと鳴る。私も一緒にポカリをこくこく飲む。
ふと休憩所の隣を見ると、見事な蜘蛛の巣だけが残されており、家主はいなかった。もしかしたら、と私は視線を戻す。この人は、さっきの蜘蛛かもしれないな。
体の熱が冷めてきたので、ゆっくり立ち上がってみる。眩暈も頭痛も治まっていた。
「もう、大丈夫です、たぶん」
「家、どっち」
「ええと、向こう」指で差しながら言う。
「寺の方か」と言って蜘蛛は立ち上がり、先に歩き始めた。「送ってくよ」
「え、でも」ここを離れていいんですか。
「途中でまた倒れたらヤバイだろ」
そうして、私は蜘蛛に連れられて来た道を戻った。途中、足場の悪いところで手を取られたりしながら。蜘蛛の手は思っていたよりすべすべで、ひんやりとしていた。
山の入り口を出る。池の前を通って、アスファルトの上を歩く。祖母の家が見えてきた。
「あそこです」
「そっか。じゃあ、俺はここで」
「え?」
「ここまでくれば大丈夫だろ」
「そうですけど……なにか、お礼とか」
「いや、まあ、いいよ」と蜘蛛は手を振った。「今度から気をつけなよ。あと、念のため医者に行っとけよ。それじゃ」
そう言って蜘蛛はまた山の方に歩いていった。私はその背中を見て、ああやっぱりあそこに帰らなきゃいけないんだな、と妙に納得した。
「ただいま」と玄関のドアを開ける。祖母はクーラーの効いた居間でテレビを見ていた。「ずいぶん長いこと出てたね」と言われて壁掛け時計を見ると、もう午後の一時を過ぎている。
鞄からペットボトルとタオルを取り出す。ポカリの最後の一口を飲みながら、さっきまでのことを思い返してみる。なんだか今も青い水の中で漂っているような感じだ。
そうだ、タオルを洗って返しに行こう。明日もあそこにいるだろうか。空っぽになったペットボトルを見つめて、ぼんやりとそう思った。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.08.11 | 一話完結 | comments(0) | ↑
