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インターホンを押すと、ぴんぽーん、と音がした。「Tさーん、きたよー」
奥から足音が近づいてきて、ドアが開く。「Mちゃん、いらっしゃい」
「メリークリスマース!」
「おお、テンション高いなあ」
「だって今日はクリスマスなんだよ?」おじゃましまーす、と玄関に入って靴を脱ぐ。
「えーまあそうだけど、いまどきクリスマスなんて、カップルがいちゃつく口実みたいなもんじゃん」
はああ、と溜息をつくTさんに続いて、部屋に入る。
「まあまあ。たしかに、街を練り歩くいくつものカップルを見ていると、片っ端から殴り倒してサンタクロース色に染めてみたくなるけど、そこはガマン、ガマン」
「けっこう黒い本音が漏れでたね」
「気のせいだよきっと」
「え、黒Mちゃん降臨じゃなく?」
「ちょっとTさん、そんな意地悪なことばっかり言うと、プレゼントあげないよ?」
「え、プレゼントくれるの?」Tさんがぱっと顔を輝かせる。
「ほらこれ、クリスマスプレゼント」持っていた袋を差し出す。
「わーいMちゃんありがとー。実はさっきから気になってたんだ。中身は何かな?」
「Tちゃんの好きなケーキだよ」
「え、マジで? なんのケーキ?」
「それは、あけてみてのお楽しみ」
「えーなんだろー。イチゴショートかなあ。もうあけていいの?」
「もちろん」
屈託のない笑みを浮かべ、うきうきとしながら袋から箱を取り出す。無垢な瞳はプレゼントに釘付けで、隣に座る私の邪悪な笑みには気づいていない。
そしてついにパンドラの箱は開かれた。
「じゃーん!」
「おおーっ」声を上げるTさん。その笑顔がだんだん疑いの色に染まっていく。「……え?」
箱の中には、黄金色のリンゴが敷き詰められ、とろりとしたジャムで包まれた、すこし平べったい形のケーキがあった。端っこのクッキー生地がきれいなきつね色に焼けている。真ん中にはツリーが描かれた紙が刺さっていた。
「Tさんの好きなアップルタルトだよー!」
私の声が大きく響き渡った。そして沈黙。暖房が入っているはずの部屋の空気が、徐々に凍りついていくみたいだった。Tさんの肩が小刻みに震えだしたのは、たぶん寒さのせいじゃないだろう。
「く……」
「く?」
「く・え・る・かー!!!」
「かー!」のタイミングで、ケーキが箱ごと放り投げられる。「ああ、もったいない!」私は稀に見る反射神経でもってそれを受け止める。ナイスキャッチ。
「Tさん、ひどい!」」
「ひどいのはどっちだー! そんなシナモンだらけの物体、食ったら死んでまうわー!」
「Tさんのために、特別にシナモン増量してもらったんだよ?」
「殺す気満々かよ!」
「ひどいTさん……私の愛情は、受け取ってもらえないの?」
「やかましい!!」
しゃー、と猫のように威嚇する。
「……というのは冗談です」
「Mちゃんの冗談はタチが悪すぎるよ……」
てへっ、と舌を出して見せる。即座に、てへっじゃねーよコンチクショウ、とツッコミが入った。
リュックに隠していたもう一つの箱を取り出す。
「こっちが本命です」
「またシナモンじゃないよね」
おそるおそる箱を開けるTさん。だいぶ警戒させてしまったようだ。けど、その警戒心も、箱の中身を見た瞬間に吹き飛んだ。
「あ、イチゴショートだ! わーい」
ああ、なんていとおしい笑顔。降り積もったばかりの白い雪みたいだ。そこに思い切り靴の跡をつける。想像しただけでもうっとりとしてしまうその行為を前にして、私の心臓は高鳴っていく。
「しかもサンタがのってるよ! 小さいのにすごい凝ってるね」
はしゃぐTさんの隣で、私は鞄から小さな瓶を取り出した。
「でも、仕上げがまだだよ」
「え?」
ぱちんとフタを開け、流れるような動作で瓶の中身をケーキの上から振りかける。ケーキに積もった白い雪を、茶色い粉が蹂躙していく。Tさんがゆっくりと目を見開き、口を開ける。
瓶を左右に五回往復させると、白かったケーキはまんべんなく茶色に覆われた。ぱちんとフタを閉じて、口を開けたまま茫然としているTさんに、瓶のラベルを見せつける。そこには言うまでもなく、シナモンの四文字が。
Tさんは、驚きと悲しみをごちゃまぜにしたみたいな表情のまま、何も言わない。私は達成感と陶酔感に包まれながら、その様子を眺める。
「Tさん?」
Tさんは、何も言わない。
「目が死んでるよ?」
「イチゴショート……」かすれた呟きが口から漏れる。「私のイチゴショートが……」
Tさんの瞳の端から雫が頬を伝った。滂沱の涙を流しながらも、表情は固まったままだ。
私はそこでやっと我に返る。しまった、やりすぎたかな。
「ご、ごめんねTさん。でも大丈夫だよ、瓶にはシナモンって書いてあるけど、あれはただのココアパウダーだよ」
Tさんは、何も言わない。何も見ていない。
「Tさん? Tさん?」
私はTさんの肩を前後に揺する。かっくん、かっくん、と人形のように首が上下する。手を離すと、そのまま崩れ落ちた。
Tさんが壊れてしまった。私が、Tさんを壊してしまった。
「Tさん、ごめんね、ごめんね」
「本当にごめんなさい」
洋食屋さんで向かいの席に座るTさんに頭を下げる。
あれからTさんが回復するまでに二時間かかった。そのあとも怒ってしばらく口を聞いてくれなかったけれど、ホールのショートケーキとオムライスをおごることを条件に、なんとか許してもらえることになった。
Tさんは、スプーンでデミグラスソースのかかったオムライスをつつきながら、疑うような目で私をにらんだ。それから「ふーんだ」と唇を尖らせる。
「いいよ、もう。私はプレゼント用意してなかったし」
「ありがとう」
実のところ、Tさんをいじめることで得られた陶酔感が、私へのクリスマスプレゼントみたいなものだった。受け取ったというよりも、むりやり奪った感じだけど。そしてそのために支払われる対価は、けっこう大きいけど。
そんなことを思っていると、ぴっとスプーンを突きつけられた。
「Mちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「もう二度といじめない?」
「え? えーと……」思わず目をそらす。「それは……たぶん、無理」
「もー、Mちゃんきらいー!」
彼女の心底嫌そうな顔に、筋金入りのドSの私は悶絶する。
なにはともあれ、メリー・クリスマス。
* 前に書いたの:シナモン、ダメ、ゼッタイ
奥から足音が近づいてきて、ドアが開く。「Mちゃん、いらっしゃい」
「メリークリスマース!」
「おお、テンション高いなあ」
「だって今日はクリスマスなんだよ?」おじゃましまーす、と玄関に入って靴を脱ぐ。
「えーまあそうだけど、いまどきクリスマスなんて、カップルがいちゃつく口実みたいなもんじゃん」
はああ、と溜息をつくTさんに続いて、部屋に入る。
「まあまあ。たしかに、街を練り歩くいくつものカップルを見ていると、片っ端から殴り倒してサンタクロース色に染めてみたくなるけど、そこはガマン、ガマン」
「けっこう黒い本音が漏れでたね」
「気のせいだよきっと」
「え、黒Mちゃん降臨じゃなく?」
「ちょっとTさん、そんな意地悪なことばっかり言うと、プレゼントあげないよ?」
「え、プレゼントくれるの?」Tさんがぱっと顔を輝かせる。
「ほらこれ、クリスマスプレゼント」持っていた袋を差し出す。
「わーいMちゃんありがとー。実はさっきから気になってたんだ。中身は何かな?」
「Tちゃんの好きなケーキだよ」
「え、マジで? なんのケーキ?」
「それは、あけてみてのお楽しみ」
「えーなんだろー。イチゴショートかなあ。もうあけていいの?」
「もちろん」
屈託のない笑みを浮かべ、うきうきとしながら袋から箱を取り出す。無垢な瞳はプレゼントに釘付けで、隣に座る私の邪悪な笑みには気づいていない。
そしてついにパンドラの箱は開かれた。
「じゃーん!」
「おおーっ」声を上げるTさん。その笑顔がだんだん疑いの色に染まっていく。「……え?」
箱の中には、黄金色のリンゴが敷き詰められ、とろりとしたジャムで包まれた、すこし平べったい形のケーキがあった。端っこのクッキー生地がきれいなきつね色に焼けている。真ん中にはツリーが描かれた紙が刺さっていた。
「Tさんの好きなアップルタルトだよー!」
私の声が大きく響き渡った。そして沈黙。暖房が入っているはずの部屋の空気が、徐々に凍りついていくみたいだった。Tさんの肩が小刻みに震えだしたのは、たぶん寒さのせいじゃないだろう。
「く……」
「く?」
「く・え・る・かー!!!」
「かー!」のタイミングで、ケーキが箱ごと放り投げられる。「ああ、もったいない!」私は稀に見る反射神経でもってそれを受け止める。ナイスキャッチ。
「Tさん、ひどい!」」
「ひどいのはどっちだー! そんなシナモンだらけの物体、食ったら死んでまうわー!」
「Tさんのために、特別にシナモン増量してもらったんだよ?」
「殺す気満々かよ!」
「ひどいTさん……私の愛情は、受け取ってもらえないの?」
「やかましい!!」
しゃー、と猫のように威嚇する。
「……というのは冗談です」
「Mちゃんの冗談はタチが悪すぎるよ……」
てへっ、と舌を出して見せる。即座に、てへっじゃねーよコンチクショウ、とツッコミが入った。
リュックに隠していたもう一つの箱を取り出す。
「こっちが本命です」
「またシナモンじゃないよね」
おそるおそる箱を開けるTさん。だいぶ警戒させてしまったようだ。けど、その警戒心も、箱の中身を見た瞬間に吹き飛んだ。
「あ、イチゴショートだ! わーい」
ああ、なんていとおしい笑顔。降り積もったばかりの白い雪みたいだ。そこに思い切り靴の跡をつける。想像しただけでもうっとりとしてしまうその行為を前にして、私の心臓は高鳴っていく。
「しかもサンタがのってるよ! 小さいのにすごい凝ってるね」
はしゃぐTさんの隣で、私は鞄から小さな瓶を取り出した。
「でも、仕上げがまだだよ」
「え?」
ぱちんとフタを開け、流れるような動作で瓶の中身をケーキの上から振りかける。ケーキに積もった白い雪を、茶色い粉が蹂躙していく。Tさんがゆっくりと目を見開き、口を開ける。
瓶を左右に五回往復させると、白かったケーキはまんべんなく茶色に覆われた。ぱちんとフタを閉じて、口を開けたまま茫然としているTさんに、瓶のラベルを見せつける。そこには言うまでもなく、シナモンの四文字が。
Tさんは、驚きと悲しみをごちゃまぜにしたみたいな表情のまま、何も言わない。私は達成感と陶酔感に包まれながら、その様子を眺める。
「Tさん?」
Tさんは、何も言わない。
「目が死んでるよ?」
「イチゴショート……」かすれた呟きが口から漏れる。「私のイチゴショートが……」
Tさんの瞳の端から雫が頬を伝った。滂沱の涙を流しながらも、表情は固まったままだ。
私はそこでやっと我に返る。しまった、やりすぎたかな。
「ご、ごめんねTさん。でも大丈夫だよ、瓶にはシナモンって書いてあるけど、あれはただのココアパウダーだよ」
Tさんは、何も言わない。何も見ていない。
「Tさん? Tさん?」
私はTさんの肩を前後に揺する。かっくん、かっくん、と人形のように首が上下する。手を離すと、そのまま崩れ落ちた。
Tさんが壊れてしまった。私が、Tさんを壊してしまった。
「Tさん、ごめんね、ごめんね」
「本当にごめんなさい」
洋食屋さんで向かいの席に座るTさんに頭を下げる。
あれからTさんが回復するまでに二時間かかった。そのあとも怒ってしばらく口を聞いてくれなかったけれど、ホールのショートケーキとオムライスをおごることを条件に、なんとか許してもらえることになった。
Tさんは、スプーンでデミグラスソースのかかったオムライスをつつきながら、疑うような目で私をにらんだ。それから「ふーんだ」と唇を尖らせる。
「いいよ、もう。私はプレゼント用意してなかったし」
「ありがとう」
実のところ、Tさんをいじめることで得られた陶酔感が、私へのクリスマスプレゼントみたいなものだった。受け取ったというよりも、むりやり奪った感じだけど。そしてそのために支払われる対価は、けっこう大きいけど。
そんなことを思っていると、ぴっとスプーンを突きつけられた。
「Mちゃん」
「はい、なんでしょうか」
「もう二度といじめない?」
「え? えーと……」思わず目をそらす。「それは……たぶん、無理」
「もー、Mちゃんきらいー!」
彼女の心底嫌そうな顔に、筋金入りのドSの私は悶絶する。
なにはともあれ、メリー・クリスマス。
JUGEMテーマ:小説/詩
* 前に書いたの:シナモン、ダメ、ゼッタイ
2009.12.25 | 一話完結 | comments(2) | ↑
英語の授業が終わった。次は生物だ。教科書とノートと理科便覧を持って、隣の教室に移動する。
「失礼します」と心の中で呟きながら、開けっぱなしのドアをそっとくぐる。この教室で授業を受けて半年くらい経つけれど、まだ慣れない。窓から見える、ちょっと角度の違うグラウンドとか、掲示板に貼ってある時間割表とか、どこかよそよそしい感じがする。
窓際の後ろから三番目が、この時間の私の席だ。ベージュのトートバッグが机の横にかけてある。やっぱり「失礼します」と呟きながら、そっと椅子に座る。するとちょうど先生が教室に入ってきて、授業が始まった。
先生の「それではぁ」と言うやる気のなさそうな声を聞いて、小さく溜息をつく。それから、机の上のノートを少しずらす。
そこには二つの落書きがあった。「最近、生物の授業がつまんないです」これは先週、私が書いたもの。その下には、矢印と一緒に「地学もつまんないよ。いつも寝てる」とある。線の細い、やや丸めの字。
きっかけは、二学期が始まって少したった頃に、私がこの机に落書きしたことだ。
「ねむい〜」というふにゃふにゃした字を書いて、その横にふにゃふにゃした顔の絵を描いた。前の晩に夜更かしをしたせいで、とにかく眠くて仕方がなかった覚えがある。
私のクラスもそうだったけど、隣のクラスも二学期になって席替えをしたらしい。一学期と違う机には、ところどころに「だるい」とか「パイの実食べたい」とか、ちょっとずつ落書きがあった。なので、私が落書きしてもなんとなく許してくれるような気はしていた。もちろん、消されたらもう二度と書くまいと思っていたけれど。
次の生物の時間におそるおそる確認すると、落書きはそのまま残されていた。しかも、その下には私に向けた返事まであった。
「よだれたらすなよ〜 by机の主」
というわけで、私は半ば確信犯的に、机の主さんに落書きの許可を得たのであった。
それから、私と机の主さんとの会話が始まった。
「ねむい〜」→「ねむいですね〜」
「だるいです〜」→「だるいよな〜」
というゆるいこと極まりないものから、
「現国の山○なぐりてええ」→「暴力反対!でも私も苦手」
「体育のA先生の、女子を見る目がやらしい…」→「タマ蹴り潰してしまえ!」
という穏やかじゃないものまで。
「はらへった」→「パイの実ですか」→「パイの実すげーうまいよ。パイの実つくった人尊敬する」
「そろそろ体育祭ですね」→「めんどくせ〜。サボろうかな」→「T橋先生に怒られますよ」
「屋上行ければサボり放題なのにな」→「え、屋上って入れるんですか」→「誰かが鍵持ってるとかウワサで聞いた」
「オススメのマンガとかありますか?」→「聖☆おにいさんおもろいよ。荒川アンダーザブリッジの人」→「あ、荒川は1巻だけ読みました。続きが読みたい!」
机の上にペンケースが置きっぱなしになっていたこともあった。紺色の、シンプルなデザインのものだ。
「忘れてますよー。授業、大丈夫でした?」→「いつもどおり爆睡してた」
いつの間にか私は、一週間に二度の生物の時間が楽しみになっていた。というか、私の中ではほとんど、机の主さんと話すために教室移動があるようなものだった。授業が始まると落書きをチェックして、返事を書く。先生の言葉を右耳から左耳へとスルーして、右手で機械的にノートを取りながら、私は机の主さんがどんな人なのか想像したりして過ごした。
いつも気だるそうな目をして、授業中もよく机に突っ伏して寝てる。友達がいないわけじゃないけど独りでいるのが好き。普段はあまり話さなくて、一見とっつきにくいと思われがちだけど、話してみるとマンガに詳しかったりして面白い。けっこう面倒くさがりで、勉強もサボりがちだけど、好きな教科は強い。世界史とか日本史とか得意そう。運動神経は、どちらかといえばいい方じゃないかな。帰宅部で、学校帰りに古本屋に寄って立ち読みするのが日課。背は170cmくらい、髪は長め、というのは単なる妄想でしかないけど。
そんなふうに想像することはあっても、実際に机の主さんが誰なのか、確かめようとは思わない。それはたぶん、机の主さんも同じなのだろう。相手が誰かを探らない、自分が誰かを晒さない。そういう暗黙の了解みたいなものが机の上にはあった。そして私は何よりも、顔の見えない話し相手について、いろいろと想像を巡らせることを楽しんでいた。
数学の授業が終わった。次は生物だ。教科書とノートと理科便覧を持って、隣の教室に移動する。
開けっぱなしのドアをそっとくぐる。机の主さんとの会話もあって、この教室にも慣れてきた。入るときに心の中で「失礼します」と言わなくなるくらいには。
けれどその日、隣の教室に入った私は違和感を覚えた。なんか変だ。先週とはどこかが違う。いつもの窓際の席に座ろうとして、ようやく気づく。机の上に、落書きが見当たらない。そして横には、見慣れたトートバッグの代わりに、大き目のリュックサックがかかっていた。
席替えしたんだ。
先生が教室に入ってきて、授業が始まった。先生が口を開いたけれど、何を話しているか理解できないし理解しようとも思えない。目の前がだんだん色あせていって、字幕も吹き替え音声もない、白黒の洋画を見ているような気分になる。
新しい誰かさんの机を見る。そこには一つも落書きがなかった。隙がなくて、まるで落書きされるのを拒んでいるみたいだ。
窓の外を眺めると、曇り空の下、冷たそうな風が落ち葉を巻き上げている。私は机に突っ伏して、初めて生物の授業をボイコットした。
ぶらぶらと足を動かしながら、もう机の主さんと話せないんだろうか、と思う。
/
ある日、隣の教室で地学の授業を受けて戻ってきたら、机に「ねむい〜」という落書きがあった。「よだれたらすなよ〜」と返事を書いたら、次の地学の時間のあと、その下に「危なかったけどたらしてません!大丈夫!」と付け足されていた。そんなふうにしてねむい〜さんとの会話は始まった。
机の上でのやりとりは二ヶ月くらい続いた。机が落書きでいっぱいにならないよう、古いものから順に消した。それでも、会話が途絶えることはなかった。
しかしそれも今日で終わってしまった。今回の席替えで、席が窓際から廊下側に移ったからだ。
机を移動させてすぐ、残っていた落書きを消す。返事を待っていただろう、ねむい〜さんの一番新しい落書きを消すときは、胸が痛んだ。消し終わると、消しゴムがごっそり削れて、机の上はカスだらけになった。落書きのない机は、自分の空っぽな胸の内をそのまま表しているようだった。
生物の授業を受けに来るねむい〜さんは、窓際にあるのがいつもの机じゃないことに気づいて、どう思うだろう。ショックを受けるだろうか。それとも何もなかったかのように、新しい机にも落書きをして、その席の主と会話を始めるんだろうか。
次の地学の時間、隣の教室に入ると、先週までと雰囲気が違っていた。いつも座る席まで来て、ああこっちのクラスも席替えしたのか、と思った。前は野球部が使うスポーツバッグだったのに、今度は小さなマスコットのついた、茶色のデイバッグがかかっている。
地学担当の佐藤は、いつもどおりわざとらしく咳払いをしてから、「さて、前回は今話題の温室効果について説明しましたが」と切り出した。彼は学生から陰で「安眠兵器」と呼ばれていて、そのリラクゼーション・ヴォイスは今日も絶好調だ。早くも意識が霧に包まれ始める。こうなってしまってはもう授業どころではない。まあ、昨日は夜中の二時くらいまでマンガ読んでたし、最初から寝るつもりだったんだけど。机に腕を置き、そのまま身体を預ける。
と、机の端になにか描かれているのが目に入った。好奇心が眠りの霧を払い、顔を少し横にずらして、左目だけでそれを確認する。
それは制服姿の男子の絵だった。気だるそうな目、長めの髪、無愛想に閉じられた口。とっつきにくそうな雰囲気を漂わせている。机に肩肘をついた格好で、何かを考えているときのフキダシが右側に描かれていて……。
「パイの実食べたい」
びっくりして身体を起こすと、ばさっ、と教科書が床に落ちた。黒板の前の佐藤がちらりとこちらを見る。すばやく教科書を拾い、何気ないふうを装う。
それからもう一度、落書きを確認する。絵の下には「机の主さん想像図」という文字が四角で囲ってあった。小さめでコロコロと丸い、見慣れた字。自分の机に書かれていた落書きと同じ筆跡だ。
ここは、ねむい〜さんの机だったのだ。
なんという偶然、と驚くと同時に、笑いがこみ上げてきた。さっきまでの空虚感の反動もあって、笑いたい衝動はどんどん大きくなる。口を押さえて必死にこらえるけれど、身体が震えてしまう。
そうか、そうだよなあ。文字だけなら、男だと思われるよな。
ニヤニヤしてしまう口を押さえたまま、絵の下に落書きを加える。「俺こんなかっこよくないっす(笑) by隣のクラスの机の主」それから、机の真ん中にもう一つ書く。「ねむい〜。机お借りします。よだれたらしたらごめん。かわりに今度マンガ貸すよ」
書き終えると、再び机に突っ伏して目を閉じる。さっきまでの眠気は吹き飛んでしまって、興奮しているのと嬉しいのとで、なんだかくすぐったいような気分だった。
返事が確認できたら、次の地学の時間に『荒川アンダーザブリッジ』を持って来よう。いつもより早めに教室に入って、ここに座っているねむい〜さんに声をかける。「はい、マンガ」ねむい〜さんはしばらくきょとんとしてから、俺を指差して「えええーっ」と声を上げる。
まだ見ぬ彼女の、驚いた顔を想像して、俺はにやりと笑った。それからふと、ねむい〜さんが男って可能性もあるじゃないか、と思い至って、「えええーっ」と声を上げそうになる。いくらなんでも、それはない。それはないだろ、たぶん。
「失礼します」と心の中で呟きながら、開けっぱなしのドアをそっとくぐる。この教室で授業を受けて半年くらい経つけれど、まだ慣れない。窓から見える、ちょっと角度の違うグラウンドとか、掲示板に貼ってある時間割表とか、どこかよそよそしい感じがする。
窓際の後ろから三番目が、この時間の私の席だ。ベージュのトートバッグが机の横にかけてある。やっぱり「失礼します」と呟きながら、そっと椅子に座る。するとちょうど先生が教室に入ってきて、授業が始まった。
先生の「それではぁ」と言うやる気のなさそうな声を聞いて、小さく溜息をつく。それから、机の上のノートを少しずらす。
そこには二つの落書きがあった。「最近、生物の授業がつまんないです」これは先週、私が書いたもの。その下には、矢印と一緒に「地学もつまんないよ。いつも寝てる」とある。線の細い、やや丸めの字。
きっかけは、二学期が始まって少したった頃に、私がこの机に落書きしたことだ。
「ねむい〜」というふにゃふにゃした字を書いて、その横にふにゃふにゃした顔の絵を描いた。前の晩に夜更かしをしたせいで、とにかく眠くて仕方がなかった覚えがある。
私のクラスもそうだったけど、隣のクラスも二学期になって席替えをしたらしい。一学期と違う机には、ところどころに「だるい」とか「パイの実食べたい」とか、ちょっとずつ落書きがあった。なので、私が落書きしてもなんとなく許してくれるような気はしていた。もちろん、消されたらもう二度と書くまいと思っていたけれど。
次の生物の時間におそるおそる確認すると、落書きはそのまま残されていた。しかも、その下には私に向けた返事まであった。
「よだれたらすなよ〜 by机の主」
というわけで、私は半ば確信犯的に、机の主さんに落書きの許可を得たのであった。
それから、私と机の主さんとの会話が始まった。
「ねむい〜」→「ねむいですね〜」
「だるいです〜」→「だるいよな〜」
というゆるいこと極まりないものから、
「現国の山○なぐりてええ」→「暴力反対!でも私も苦手」
「体育のA先生の、女子を見る目がやらしい…」→「タマ蹴り潰してしまえ!」
という穏やかじゃないものまで。
「はらへった」→「パイの実ですか」→「パイの実すげーうまいよ。パイの実つくった人尊敬する」
「そろそろ体育祭ですね」→「めんどくせ〜。サボろうかな」→「T橋先生に怒られますよ」
「屋上行ければサボり放題なのにな」→「え、屋上って入れるんですか」→「誰かが鍵持ってるとかウワサで聞いた」
「オススメのマンガとかありますか?」→「聖☆おにいさんおもろいよ。荒川アンダーザブリッジの人」→「あ、荒川は1巻だけ読みました。続きが読みたい!」
机の上にペンケースが置きっぱなしになっていたこともあった。紺色の、シンプルなデザインのものだ。
「忘れてますよー。授業、大丈夫でした?」→「いつもどおり爆睡してた」
いつの間にか私は、一週間に二度の生物の時間が楽しみになっていた。というか、私の中ではほとんど、机の主さんと話すために教室移動があるようなものだった。授業が始まると落書きをチェックして、返事を書く。先生の言葉を右耳から左耳へとスルーして、右手で機械的にノートを取りながら、私は机の主さんがどんな人なのか想像したりして過ごした。
いつも気だるそうな目をして、授業中もよく机に突っ伏して寝てる。友達がいないわけじゃないけど独りでいるのが好き。普段はあまり話さなくて、一見とっつきにくいと思われがちだけど、話してみるとマンガに詳しかったりして面白い。けっこう面倒くさがりで、勉強もサボりがちだけど、好きな教科は強い。世界史とか日本史とか得意そう。運動神経は、どちらかといえばいい方じゃないかな。帰宅部で、学校帰りに古本屋に寄って立ち読みするのが日課。背は170cmくらい、髪は長め、というのは単なる妄想でしかないけど。
そんなふうに想像することはあっても、実際に机の主さんが誰なのか、確かめようとは思わない。それはたぶん、机の主さんも同じなのだろう。相手が誰かを探らない、自分が誰かを晒さない。そういう暗黙の了解みたいなものが机の上にはあった。そして私は何よりも、顔の見えない話し相手について、いろいろと想像を巡らせることを楽しんでいた。
数学の授業が終わった。次は生物だ。教科書とノートと理科便覧を持って、隣の教室に移動する。
開けっぱなしのドアをそっとくぐる。机の主さんとの会話もあって、この教室にも慣れてきた。入るときに心の中で「失礼します」と言わなくなるくらいには。
けれどその日、隣の教室に入った私は違和感を覚えた。なんか変だ。先週とはどこかが違う。いつもの窓際の席に座ろうとして、ようやく気づく。机の上に、落書きが見当たらない。そして横には、見慣れたトートバッグの代わりに、大き目のリュックサックがかかっていた。
席替えしたんだ。
先生が教室に入ってきて、授業が始まった。先生が口を開いたけれど、何を話しているか理解できないし理解しようとも思えない。目の前がだんだん色あせていって、字幕も吹き替え音声もない、白黒の洋画を見ているような気分になる。
新しい誰かさんの机を見る。そこには一つも落書きがなかった。隙がなくて、まるで落書きされるのを拒んでいるみたいだ。
窓の外を眺めると、曇り空の下、冷たそうな風が落ち葉を巻き上げている。私は机に突っ伏して、初めて生物の授業をボイコットした。
ぶらぶらと足を動かしながら、もう机の主さんと話せないんだろうか、と思う。
/
ある日、隣の教室で地学の授業を受けて戻ってきたら、机に「ねむい〜」という落書きがあった。「よだれたらすなよ〜」と返事を書いたら、次の地学の時間のあと、その下に「危なかったけどたらしてません!大丈夫!」と付け足されていた。そんなふうにしてねむい〜さんとの会話は始まった。
机の上でのやりとりは二ヶ月くらい続いた。机が落書きでいっぱいにならないよう、古いものから順に消した。それでも、会話が途絶えることはなかった。
しかしそれも今日で終わってしまった。今回の席替えで、席が窓際から廊下側に移ったからだ。
机を移動させてすぐ、残っていた落書きを消す。返事を待っていただろう、ねむい〜さんの一番新しい落書きを消すときは、胸が痛んだ。消し終わると、消しゴムがごっそり削れて、机の上はカスだらけになった。落書きのない机は、自分の空っぽな胸の内をそのまま表しているようだった。
生物の授業を受けに来るねむい〜さんは、窓際にあるのがいつもの机じゃないことに気づいて、どう思うだろう。ショックを受けるだろうか。それとも何もなかったかのように、新しい机にも落書きをして、その席の主と会話を始めるんだろうか。
次の地学の時間、隣の教室に入ると、先週までと雰囲気が違っていた。いつも座る席まで来て、ああこっちのクラスも席替えしたのか、と思った。前は野球部が使うスポーツバッグだったのに、今度は小さなマスコットのついた、茶色のデイバッグがかかっている。
地学担当の佐藤は、いつもどおりわざとらしく咳払いをしてから、「さて、前回は今話題の温室効果について説明しましたが」と切り出した。彼は学生から陰で「安眠兵器」と呼ばれていて、そのリラクゼーション・ヴォイスは今日も絶好調だ。早くも意識が霧に包まれ始める。こうなってしまってはもう授業どころではない。まあ、昨日は夜中の二時くらいまでマンガ読んでたし、最初から寝るつもりだったんだけど。机に腕を置き、そのまま身体を預ける。
と、机の端になにか描かれているのが目に入った。好奇心が眠りの霧を払い、顔を少し横にずらして、左目だけでそれを確認する。
それは制服姿の男子の絵だった。気だるそうな目、長めの髪、無愛想に閉じられた口。とっつきにくそうな雰囲気を漂わせている。机に肩肘をついた格好で、何かを考えているときのフキダシが右側に描かれていて……。
「パイの実食べたい」
びっくりして身体を起こすと、ばさっ、と教科書が床に落ちた。黒板の前の佐藤がちらりとこちらを見る。すばやく教科書を拾い、何気ないふうを装う。
それからもう一度、落書きを確認する。絵の下には「机の主さん想像図」という文字が四角で囲ってあった。小さめでコロコロと丸い、見慣れた字。自分の机に書かれていた落書きと同じ筆跡だ。
ここは、ねむい〜さんの机だったのだ。
なんという偶然、と驚くと同時に、笑いがこみ上げてきた。さっきまでの空虚感の反動もあって、笑いたい衝動はどんどん大きくなる。口を押さえて必死にこらえるけれど、身体が震えてしまう。
そうか、そうだよなあ。文字だけなら、男だと思われるよな。
ニヤニヤしてしまう口を押さえたまま、絵の下に落書きを加える。「俺こんなかっこよくないっす(笑) by隣のクラスの机の主」それから、机の真ん中にもう一つ書く。「ねむい〜。机お借りします。よだれたらしたらごめん。かわりに今度マンガ貸すよ」
書き終えると、再び机に突っ伏して目を閉じる。さっきまでの眠気は吹き飛んでしまって、興奮しているのと嬉しいのとで、なんだかくすぐったいような気分だった。
返事が確認できたら、次の地学の時間に『荒川アンダーザブリッジ』を持って来よう。いつもより早めに教室に入って、ここに座っているねむい〜さんに声をかける。「はい、マンガ」ねむい〜さんはしばらくきょとんとしてから、俺を指差して「えええーっ」と声を上げる。
まだ見ぬ彼女の、驚いた顔を想像して、俺はにやりと笑った。それからふと、ねむい〜さんが男って可能性もあるじゃないか、と思い至って、「えええーっ」と声を上げそうになる。いくらなんでも、それはない。それはないだろ、たぶん。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.12.14 | 一話完結 | comments(0) | ↑
日が傾いた午後三時ごろ、車を運転していて、とある交差点で先頭に止まったときのことだった。
左手の手前の角に、赤いランドセルを背負った少女が二人いた。一人はショートヘアで、白地のプリントTシャツとカーキのショートパンツというボーイッシュな風貌。もう一人は白いブラウスに紺のスカートを履いており、髪を二つに結んだおとなしそうな子だった。ボーイッシュがガードレールの陰に屈み込んでいて、後ろに立つおとなしそうな子は不安げな表情でその様子を見守っている。
ボーイッシュは細い草のようなものを手に持ち、先っぽで白いガードレールの下をつついていた。少し身を乗り出すと、そこには黒と灰色の混ざった毛むくじゃらの何かが転がっていた。
ボーイッシュが体を起こして振り返り、おとなしそうな子を見た。少女は今にも泣き出しそうな表情で、スカートを強く掴んでいた。ボーイッシュが首を振る。おとなしそうな子が何か言った。その唇の動きは、声となって私の耳に届いた。
「しんだの?」
ボーイッシュがもう一度毛むくじゃらの方に向き直った。その表情は硬く、後ろのおとなしそうな子とは対照的に、子供らしさが微塵も感じられない。その冷たい瞳が見下ろしているのは、彼女にとって不必要なものなのだろう。例えば、破れたゴミ袋からはみ出している、昨日の夜に食べたアジの開きの頭。あるいは、舐めている途中で落としてしまって、どこからか沸いて出た蟻がたかっているイチゴ味のキャンディ。おそらくそんなようなものに違いなかった。
信号が赤から青に変わる。私はゆっくりと車を発信させながら、ちらりとガードレールの下に視線を滑らせた。そこに横たわっていた毛むくじゃらは、アジの開きの頭でもキャンディでもなかった。
ボーイッシュの持っていた草が、猫じゃらしだったことに気づく。その茎は、強く握り締められて折れ曲がっていた。
私はアクセルを踏んだ。
まだ私が高校生だった頃、同じ部活の仲間と帰る途中、細い道路の隅で小さな毛むくじゃらを見つけた。
「かわいい〜」と目をきらきらさせて近寄ったのは、後輩のRちゃんだった。人に慣れているのか、毛むくじゃらは逃げることもせずおとなしく撫でられていた。Rちゃんに促され、私もそっと触れてみる。真っ白な毛むくじゃらは、ほわほわとしてあたたかかった。時折「ニィ」と鳴いて、Rちゃんはそのたびに「かわいい」を連呼した。私と同じ学年のY、一つ上のM先輩、後輩のKちゃんは、後ろに立って微笑ましい光景を見守っていた。
状況が一変したのは、シルバーの乗用車が角を曲がって道路に入ってきた、そのときだった。毛むくじゃらは何を思ったのか、道路脇に寄った私たちとは逆に、道路の真ん中に飛び出したのだ。「あっ」とM先輩が声を上げた。
そこからはスローモーションだった。
宙に放り出され、アスファルトに打ち付けられる毛むくじゃら。その小さな体がびくびくと痙攣する。恐らく内臓が破裂したのだろう、口の端から赤い液体があふれ出した。
Rちゃんの叫び声が響き、Kちゃんの「うそ」という声が聞こえた。乗用車は止まることもなく走り去り、次の角で曲がって見えなくなった。Yが「気づいてないんだ」と言った。私は声を出すことができなかった。
毛むくじゃらは見るも無残な状態だった。白かった毛が赤く染まり、体温は急速に失われていった。もう二度と鳴くことはなかった。さっきまで幸せそうだったRちゃんは、その変わり果てた姿を見て、両の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。悲しそうな顔をしたM先輩、苦い顔をしたY、みんなが黙り込んで空気が重くなっていく。
そんな中、私は空を眺めていた。「形あるものはいつか壊れる」という祖母の声が思い出された。「一つの命が失われた。それにしても、ああ、なんと青く澄んだ空だろう」と思った。
「先輩、大丈夫ですか?」と聞いてきたのはKちゃんだった。私が「大丈夫だよ」と答えると、彼女は寂しそうに笑ってRちゃんを見つめた。
Kちゃんは、Rちゃんが落ち着くまで待ってから、毛むくじゃらを埋葬することを提案した。私たちは彼女の言うとおり、近くの公園の木の根元に穴を掘り、毛むくじゃらを埋めた。
交差点で、猫じゃらしを握り締めて立ち尽くすボーイッシュを見たとき、なぜか、Rちゃんを見つめるKちゃんの眼差しを思い出していた。表情は全く違ったが、私の中でその二人は深く共通しているように思えた。もしかしたらボーイッシュも、おとなしそうな子と一緒に公園に毛むくじゃらを埋めたのかもしれない。
夕暮れ時に車を運転していると、右手にある公園から、突然黒い毛むくじゃらが飛び出した。私は咄嗟にブレーキを踏んだ。毛むくじゃらは、薄暗い道路をしなやかに駆け抜け、反対側の茂みに消えた。
その日は三度、毛むくじゃらが私の行く先を横切った。二度目は夕飯時の住宅街で、三度目は街灯も少なく、車もほとんど通らない深夜の路上だった。
三度目の毛むくじゃらが視界から消えたあと、私は路肩に車を止めた。ハンドルに額をのせて、深く息を吐く。車を降りて助手席側に回り、ドアに寄りかかる。ゴウと吹く風が冷たい。夜空を仰ぎ見ると、いくつもの星が瞬いていた。
猫が死んだ。
私はそこで初めて、高校時代に目の前で吹き飛ばされた白い子猫と、午後に見たガードレールの下の子猫のために祈った。どこかで「ニィ」という鳴き声が聞こえた気がした。
左手の手前の角に、赤いランドセルを背負った少女が二人いた。一人はショートヘアで、白地のプリントTシャツとカーキのショートパンツというボーイッシュな風貌。もう一人は白いブラウスに紺のスカートを履いており、髪を二つに結んだおとなしそうな子だった。ボーイッシュがガードレールの陰に屈み込んでいて、後ろに立つおとなしそうな子は不安げな表情でその様子を見守っている。
ボーイッシュは細い草のようなものを手に持ち、先っぽで白いガードレールの下をつついていた。少し身を乗り出すと、そこには黒と灰色の混ざった毛むくじゃらの何かが転がっていた。
ボーイッシュが体を起こして振り返り、おとなしそうな子を見た。少女は今にも泣き出しそうな表情で、スカートを強く掴んでいた。ボーイッシュが首を振る。おとなしそうな子が何か言った。その唇の動きは、声となって私の耳に届いた。
「しんだの?」
ボーイッシュがもう一度毛むくじゃらの方に向き直った。その表情は硬く、後ろのおとなしそうな子とは対照的に、子供らしさが微塵も感じられない。その冷たい瞳が見下ろしているのは、彼女にとって不必要なものなのだろう。例えば、破れたゴミ袋からはみ出している、昨日の夜に食べたアジの開きの頭。あるいは、舐めている途中で落としてしまって、どこからか沸いて出た蟻がたかっているイチゴ味のキャンディ。おそらくそんなようなものに違いなかった。
信号が赤から青に変わる。私はゆっくりと車を発信させながら、ちらりとガードレールの下に視線を滑らせた。そこに横たわっていた毛むくじゃらは、アジの開きの頭でもキャンディでもなかった。
ボーイッシュの持っていた草が、猫じゃらしだったことに気づく。その茎は、強く握り締められて折れ曲がっていた。
私はアクセルを踏んだ。
まだ私が高校生だった頃、同じ部活の仲間と帰る途中、細い道路の隅で小さな毛むくじゃらを見つけた。
「かわいい〜」と目をきらきらさせて近寄ったのは、後輩のRちゃんだった。人に慣れているのか、毛むくじゃらは逃げることもせずおとなしく撫でられていた。Rちゃんに促され、私もそっと触れてみる。真っ白な毛むくじゃらは、ほわほわとしてあたたかかった。時折「ニィ」と鳴いて、Rちゃんはそのたびに「かわいい」を連呼した。私と同じ学年のY、一つ上のM先輩、後輩のKちゃんは、後ろに立って微笑ましい光景を見守っていた。
状況が一変したのは、シルバーの乗用車が角を曲がって道路に入ってきた、そのときだった。毛むくじゃらは何を思ったのか、道路脇に寄った私たちとは逆に、道路の真ん中に飛び出したのだ。「あっ」とM先輩が声を上げた。
そこからはスローモーションだった。
宙に放り出され、アスファルトに打ち付けられる毛むくじゃら。その小さな体がびくびくと痙攣する。恐らく内臓が破裂したのだろう、口の端から赤い液体があふれ出した。
Rちゃんの叫び声が響き、Kちゃんの「うそ」という声が聞こえた。乗用車は止まることもなく走り去り、次の角で曲がって見えなくなった。Yが「気づいてないんだ」と言った。私は声を出すことができなかった。
毛むくじゃらは見るも無残な状態だった。白かった毛が赤く染まり、体温は急速に失われていった。もう二度と鳴くことはなかった。さっきまで幸せそうだったRちゃんは、その変わり果てた姿を見て、両の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。悲しそうな顔をしたM先輩、苦い顔をしたY、みんなが黙り込んで空気が重くなっていく。
そんな中、私は空を眺めていた。「形あるものはいつか壊れる」という祖母の声が思い出された。「一つの命が失われた。それにしても、ああ、なんと青く澄んだ空だろう」と思った。
「先輩、大丈夫ですか?」と聞いてきたのはKちゃんだった。私が「大丈夫だよ」と答えると、彼女は寂しそうに笑ってRちゃんを見つめた。
Kちゃんは、Rちゃんが落ち着くまで待ってから、毛むくじゃらを埋葬することを提案した。私たちは彼女の言うとおり、近くの公園の木の根元に穴を掘り、毛むくじゃらを埋めた。
交差点で、猫じゃらしを握り締めて立ち尽くすボーイッシュを見たとき、なぜか、Rちゃんを見つめるKちゃんの眼差しを思い出していた。表情は全く違ったが、私の中でその二人は深く共通しているように思えた。もしかしたらボーイッシュも、おとなしそうな子と一緒に公園に毛むくじゃらを埋めたのかもしれない。
夕暮れ時に車を運転していると、右手にある公園から、突然黒い毛むくじゃらが飛び出した。私は咄嗟にブレーキを踏んだ。毛むくじゃらは、薄暗い道路をしなやかに駆け抜け、反対側の茂みに消えた。
その日は三度、毛むくじゃらが私の行く先を横切った。二度目は夕飯時の住宅街で、三度目は街灯も少なく、車もほとんど通らない深夜の路上だった。
三度目の毛むくじゃらが視界から消えたあと、私は路肩に車を止めた。ハンドルに額をのせて、深く息を吐く。車を降りて助手席側に回り、ドアに寄りかかる。ゴウと吹く風が冷たい。夜空を仰ぎ見ると、いくつもの星が瞬いていた。
猫が死んだ。
私はそこで初めて、高校時代に目の前で吹き飛ばされた白い子猫と、午後に見たガードレールの下の子猫のために祈った。どこかで「ニィ」という鳴き声が聞こえた気がした。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.10.12 | 一話完結 | comments(0) | ↑
「それ、シナモン?」
Tさんがドーナツを指差して言った。
私はTさんの下宿先に遊びに来ている。目の前の小さなテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ、お皿が二つ、それから私がミスドで買ってきたドーナツの箱が置かれていた。箱の中にはポン・デ・リングとフレンチクルーラーとハニーチュロ、それからたっぷりとシナモンが振りかけられたシナモンクルーラー。
箱を開けたその瞬間から、Tさんの様子がどこかおかしい。背が高くて声が大きめの彼女は、頼りになるお姉さんタイプで、大学のサークルでもみんなのまとめ役になることが多い。いつも明るくて、ついさっきまでだって豪快に笑っていた。それが、今や見事に顔が固まっている。
「まさかTさん、シナモンだめなの?」
「う、ううん、別に、そんなことないけど」
ふるふるふるふる、と必要以上に首を振ったあと、困ったように目をそらす。そんな彼女を見て、私のドSアンテナがぴんと反応した。ほほう左様でございますか。別にだめなわけじゃないと、そうおっしゃるわけですね。
「そっか、よかった、苦手だったらどうしようかと思った」胸に手を当て、わざとらしく安堵の息をついてみる。Tさんの肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
するとTさんは突然、開いた左手をぶんぶんと左右に振り始めた。それから早口でまくし立てる。「でも、Mちゃんシナモン好きでしょ? だからシナモンはMちゃんにあげるよ。私、フレンチクルーラーとハニーチュロが食べたいな」
いやまてそこ。逃げようとしたって、そうは問屋が卸しません。
「そんな、遠慮しなくてもいいじゃない」素早く紙ナプをかけて、ドーナツをつまむ。用意してあったお皿の上にフレンチクルーラーとシナモンを並べて、Tさんの前にすすっと寄せる。
「ほら、どうぞ召し上がれ」
Tさんはシナモンをにらんだまま硬直していた。もしもこれがマンガだったら、頭に青い縦線引いて、影濃い目、冷や汗だらだらに違いない。私は自分の分をお皿に載せて、箱をテーブルの端に置いた。まだ動かないTさんに、「どうしたの? 食べないの?」と追い討ちをかけてみる。すると彼女は「ご……」と呻いてうつむいた。
「ご?」
「ごめん、無理! 嘘つきましたシナモンは無理です、においだけでもダメなのに食べるとかぜったい無理!」
涙目で訴えてくる。いつもの朗らかな笑顔とのギャップもあって、なんとも嗜虐心をそそる。思っていたことが顔に出たのか、「Mちゃん、なんでニヤニヤしてるの」と恨めしそうに見られた。「ニヤニヤなんてしてないよ。気のせいだよ」とごまかす。
「仕方ないなぁ」と言いながらシナモンを私のお皿に移す。ハニーチュロをTさんのお皿に置こうとしたら、こぼれたシナモンが気になるのか「置かないで!」と叫ばれた。
「そんなにだめなの?」
「うん」
「ってことは、あれも? あの、京都の」
「八ツ橋? だめ、ぜったいだめ。売ってるとこの前通るだけでも頭痛がする」
「え、そんなに?」
「うん」
私がシナモンクルーラーをつまむと、Tさんは目を見開き、口をカッと開けて、威嚇する猫みたいな顔をした。構わず一口かじる。あとずさるTさん。じっと見つめてみる。
「こっち見てニヤニヤしながら食べるの、怖いって!」
「そんな、怖いなんて、ひどい! 別に何も企んでなんていないのに!」
「ちょ、な、何を企んでるの」
「だから企んでなんていないってば。ふふふふ」
「嘘つけー! 笑いが怪しすぎるわー!」
からかいながらドーナツを食べ終わる。Tさんは少し離れたところでこちらをガン見して、フーフーと息を吐いている。「ほら、もう怖いのはなくなったから、フレンチクルーラー食べなよ」と言うと、まだ警戒しながらも、こくりと頷いて近づいてくる。小さい犬か猫みたいだ。私の中で「可愛い!」という思いと「いじめたい!」という思いが絡まりながら暴走する。口元が緩みそうになるのを必死にこらえる。
すると、ふいに人差し指を突きつけられた。びっくりして、思わず後ろにのけぞる。まさか、悟られた?
「な、なに?」
「唇の端、ついてる」
指で拭うと、指の腹に茶色い粉がついた。
チェック厳しいよTさん。そう言いかけたとき、私の脳内で渦巻いていた感情やら欲望やらが高く打ち上げられ、空中で弾け、光り輝いた。
目の前では、Tさんが安心してフレンチクルーラーにかぶりついている。目を細めてドーナツを食む姿もまた愛らしい。Tさんと、自分の人差し指を交互に見る。私の口はもう、にんまりとした笑みを隠していなかった。彼女はそのことに気づかない。私は無駄のない動作で、光り輝いた思いつきを実行に移す。
ぴと。
Tさんの唇に触れる、私の人差し指を中心にして、時間が止まる。ゆっくり、ゆっくり、くるり、くるりと、世界が回る。にんまりと笑みを浮かべる私。何が起こったかわからなくて、食べかけのフレンチクルーラーをつまんだまま、とぼけたような表情の彼女。つながっている人差し指と唇、見つめ合う二人の瞳。くるり、くるり。私はさらに人差し指を突き出す。ゆっくり、ゆっくりと。半開きになっていたTさんの口に、するりと差し込まれる。かたい歯のさらに奥、やわらかく濡れた舌。その感触にうっとりする。
「にゃああ!」
Tさんの上げた叫び声で我に返る。永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。崩れ落ちるTさん。私はそれを見てようやく、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。
そばアレルギーの人はそばを食べると呼吸困難に陥ってしまうというのを聞いたことがある。Tさんもそうなってしまったのかもしれない。私は思わず呼吸と脈拍を確かめた。幸い、息はしていた。脈は少し速いような気がする。
「ごめんね、Tさん、ごめんね」
私はTさんのそばに座ると、膝の上に彼女の頭をのせた。Tさんは「ううー」と苦しそうに唸っている。
下唇にまだ少しシナモンが残っていたので、紙ナプで拭う。唇は、押し付けられた紙に引っ張られてから、ぷるんと震えた。私の人差し指に、さっきまでの感触が蘇る。私の中で、悪魔が再び目をさます。
この状態なら唇奪えるんじゃない?
顔がほてっていくのを感じる。でも、それってTさんに止めを刺す行為に他ならないのでは? そうなったら、きっと私は歯止めが効かなくなっちゃうだろう。理性は抵抗する。そんなことは関係ないでしょ、だって見てよこのぷるぷるの美味しそうな唇を。これを目の前にして口にしないなんておかしいんじゃないの。悪魔が囁く。
でも、でも、ともじもじしていたら、いつの間にか意識を取り戻していたTさんに白い目で見られた。
「Mちゃん、今、なに考えてたの」
「ううん、なにも考えてなんかいないよ、ふふふふふ」
「だからその怪しい笑いをやめれー!」
もうやだ、と半泣きになっているTさんに、私は悶絶する。
Tさんがドーナツを指差して言った。
私はTさんの下宿先に遊びに来ている。目の前の小さなテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ、お皿が二つ、それから私がミスドで買ってきたドーナツの箱が置かれていた。箱の中にはポン・デ・リングとフレンチクルーラーとハニーチュロ、それからたっぷりとシナモンが振りかけられたシナモンクルーラー。
箱を開けたその瞬間から、Tさんの様子がどこかおかしい。背が高くて声が大きめの彼女は、頼りになるお姉さんタイプで、大学のサークルでもみんなのまとめ役になることが多い。いつも明るくて、ついさっきまでだって豪快に笑っていた。それが、今や見事に顔が固まっている。
「まさかTさん、シナモンだめなの?」
「う、ううん、別に、そんなことないけど」
ふるふるふるふる、と必要以上に首を振ったあと、困ったように目をそらす。そんな彼女を見て、私のドSアンテナがぴんと反応した。ほほう左様でございますか。別にだめなわけじゃないと、そうおっしゃるわけですね。
「そっか、よかった、苦手だったらどうしようかと思った」胸に手を当て、わざとらしく安堵の息をついてみる。Tさんの肩がぴくりと反応するのを見逃さない。
するとTさんは突然、開いた左手をぶんぶんと左右に振り始めた。それから早口でまくし立てる。「でも、Mちゃんシナモン好きでしょ? だからシナモンはMちゃんにあげるよ。私、フレンチクルーラーとハニーチュロが食べたいな」
いやまてそこ。逃げようとしたって、そうは問屋が卸しません。
「そんな、遠慮しなくてもいいじゃない」素早く紙ナプをかけて、ドーナツをつまむ。用意してあったお皿の上にフレンチクルーラーとシナモンを並べて、Tさんの前にすすっと寄せる。
「ほら、どうぞ召し上がれ」
Tさんはシナモンをにらんだまま硬直していた。もしもこれがマンガだったら、頭に青い縦線引いて、影濃い目、冷や汗だらだらに違いない。私は自分の分をお皿に載せて、箱をテーブルの端に置いた。まだ動かないTさんに、「どうしたの? 食べないの?」と追い討ちをかけてみる。すると彼女は「ご……」と呻いてうつむいた。
「ご?」
「ごめん、無理! 嘘つきましたシナモンは無理です、においだけでもダメなのに食べるとかぜったい無理!」
涙目で訴えてくる。いつもの朗らかな笑顔とのギャップもあって、なんとも嗜虐心をそそる。思っていたことが顔に出たのか、「Mちゃん、なんでニヤニヤしてるの」と恨めしそうに見られた。「ニヤニヤなんてしてないよ。気のせいだよ」とごまかす。
「仕方ないなぁ」と言いながらシナモンを私のお皿に移す。ハニーチュロをTさんのお皿に置こうとしたら、こぼれたシナモンが気になるのか「置かないで!」と叫ばれた。
「そんなにだめなの?」
「うん」
「ってことは、あれも? あの、京都の」
「八ツ橋? だめ、ぜったいだめ。売ってるとこの前通るだけでも頭痛がする」
「え、そんなに?」
「うん」
私がシナモンクルーラーをつまむと、Tさんは目を見開き、口をカッと開けて、威嚇する猫みたいな顔をした。構わず一口かじる。あとずさるTさん。じっと見つめてみる。
「こっち見てニヤニヤしながら食べるの、怖いって!」
「そんな、怖いなんて、ひどい! 別に何も企んでなんていないのに!」
「ちょ、な、何を企んでるの」
「だから企んでなんていないってば。ふふふふ」
「嘘つけー! 笑いが怪しすぎるわー!」
からかいながらドーナツを食べ終わる。Tさんは少し離れたところでこちらをガン見して、フーフーと息を吐いている。「ほら、もう怖いのはなくなったから、フレンチクルーラー食べなよ」と言うと、まだ警戒しながらも、こくりと頷いて近づいてくる。小さい犬か猫みたいだ。私の中で「可愛い!」という思いと「いじめたい!」という思いが絡まりながら暴走する。口元が緩みそうになるのを必死にこらえる。
すると、ふいに人差し指を突きつけられた。びっくりして、思わず後ろにのけぞる。まさか、悟られた?
「な、なに?」
「唇の端、ついてる」
指で拭うと、指の腹に茶色い粉がついた。
チェック厳しいよTさん。そう言いかけたとき、私の脳内で渦巻いていた感情やら欲望やらが高く打ち上げられ、空中で弾け、光り輝いた。
目の前では、Tさんが安心してフレンチクルーラーにかぶりついている。目を細めてドーナツを食む姿もまた愛らしい。Tさんと、自分の人差し指を交互に見る。私の口はもう、にんまりとした笑みを隠していなかった。彼女はそのことに気づかない。私は無駄のない動作で、光り輝いた思いつきを実行に移す。
ぴと。
Tさんの唇に触れる、私の人差し指を中心にして、時間が止まる。ゆっくり、ゆっくり、くるり、くるりと、世界が回る。にんまりと笑みを浮かべる私。何が起こったかわからなくて、食べかけのフレンチクルーラーをつまんだまま、とぼけたような表情の彼女。つながっている人差し指と唇、見つめ合う二人の瞳。くるり、くるり。私はさらに人差し指を突き出す。ゆっくり、ゆっくりと。半開きになっていたTさんの口に、するりと差し込まれる。かたい歯のさらに奥、やわらかく濡れた舌。その感触にうっとりする。
「にゃああ!」
Tさんの上げた叫び声で我に返る。永遠に思えた時間は唐突に終わりを告げた。崩れ落ちるTさん。私はそれを見てようやく、自分がとんでもないことをしてしまったことに気づいた。
そばアレルギーの人はそばを食べると呼吸困難に陥ってしまうというのを聞いたことがある。Tさんもそうなってしまったのかもしれない。私は思わず呼吸と脈拍を確かめた。幸い、息はしていた。脈は少し速いような気がする。
「ごめんね、Tさん、ごめんね」
私はTさんのそばに座ると、膝の上に彼女の頭をのせた。Tさんは「ううー」と苦しそうに唸っている。
下唇にまだ少しシナモンが残っていたので、紙ナプで拭う。唇は、押し付けられた紙に引っ張られてから、ぷるんと震えた。私の人差し指に、さっきまでの感触が蘇る。私の中で、悪魔が再び目をさます。
この状態なら唇奪えるんじゃない?
顔がほてっていくのを感じる。でも、それってTさんに止めを刺す行為に他ならないのでは? そうなったら、きっと私は歯止めが効かなくなっちゃうだろう。理性は抵抗する。そんなことは関係ないでしょ、だって見てよこのぷるぷるの美味しそうな唇を。これを目の前にして口にしないなんておかしいんじゃないの。悪魔が囁く。
でも、でも、ともじもじしていたら、いつの間にか意識を取り戻していたTさんに白い目で見られた。
「Mちゃん、今、なに考えてたの」
「ううん、なにも考えてなんかいないよ、ふふふふふ」
「だからその怪しい笑いをやめれー!」
もうやだ、と半泣きになっているTさんに、私は悶絶する。
JUGEMテーマ:小説/詩
2009.10.08 | 一話完結 | comments(0) | ↑
「運命についてどう思う?」
ハンドルを握り、遥か前方を眺めながら尋ねる。時速90kmでバイパスを走る、くすんだ水色。俺の愛車。
俺は運転する合間に隣を盗み見る。助手席の少女はぐったりと体をシートに預けている。無造作に放り出された華奢な腕。何も見てないかのような瞳。アンニュイの海で溺れた人形のようだ。さっきマックでまずそうにポテトを食ってたときも、同じような目をしていた。
答えは返ってきそうにない。期待していたわけでもないが。そんなことを思っていると、「運命?」とか細い声で聞き返された。なんだ、聞こえてなかったのか?
「そう、運命。どう思う?」
一瞬、少女は首を傾げたらしかった。それから「考えたことない」と切り捨てられる。考えたことない? 考えたことないだって? さらには「それより」と声のトーンをやや上げて、話題を変えようとする始末。ちょっと待て。
「俺はさ、川の流れみたいなものなのかなって思ってるんだ」声がでかかったせいか、少女がびくりと体を震わせるのを感じた。「ありきたりだけどな」
工場の排煙みたいな嫌な雰囲気が車内に充満する。しばらくして少女は「ふうん」と小さく相槌を打った。話したければ勝手に話せば、という声が聞こえてきそうだ。
「途方もなくでかい川だ。何度も分かれて、いくつもの細い支流になる。そうかと思えば細い川どうしが合流して一つになる。俺たちは、川に流されてる空き缶とかペットボトルとか、そういうちっぽけな存在だ。でかい川の流れに逆らうことなんかできない。行き先を選んで器用に流れに乗るか、そうでなければ流れに翻弄され続けるかどっちかだ」
「ねえ」と少女は言う。「窓開けていい?」
俺は無視する。右に緩くカーブする二車線の道路の先に、海が見えた。
「近づくも離れるも流れ次第だ。ビンとフタみたいにぴったりな関係でも、流れが分かれればあっけなく壊れるし、逆にビニール袋とナイフみたいな一方的に傷つけられる関係でも、合流したままなら一緒にい続ける」
少女が窓を開ける。時速90kmの潮風が流れ込んできて、クーラーの冷気を追い出す。ハンドルが振られ、ひやりとしながらアクセルを緩める。俺はクーラーを消して、運転席側の窓を開けた。
眉をひそめ、ちらと助手席を見て、俺は思わず声を荒げた。
「おい、何してんだ」
少女は人形みたいな両腕を交差させて、半分くらい開いた窓の外に出していた。左腕の上に斜めに置かれた右腕。握られた手の下で、何かがきらりと光った。
そして彼女は、腕を勢いよくスライドさせた。
ぶしゅ、という音が聞こえた、気がした。溢れ出る鮮血。白い肌が赤く染まる。中途半端に開かれた窓ガラスを伝う。俺はハンドルを握ったまま、それらの映像を断片的に網膜に焼き付けていた。べたつく風が、鉄錆の臭いをのせて吹き込んでくる。
「腕、しまえ」声が少しかれていた。喉、渇いたな。
「汚れるよ?」少女がズレた答えを返す。
「左に寄せるから、腕けずられたくなかったら、しまえ」と言うと、沈黙の後、ずるりと腕を中に入れる音が聞こえた。一時停止用の場所を見つけ、ウインカーを左に出す。ブレーキを踏んで、ハザードをたく。かっち、かっち、と刻まれる一定のリズムが、心音を思わせる。
道路の縁に立つ、低いコンクリの壁の向こうに、海が広がっていた。エンジンを切ってドアを開ける。後部座席に積み重ねた荷物の中から、救急箱を引っ張り出す。車の後ろを回り、助手席のドアを開ける。
少女の顔は血の気が引いていて青白い。ますます人形めいている。かがんで左腕を取ると、痛かったのかその顔が歪んだ。
「なんで切った」止血しながら言う。
「わかれているの」と少女は言った。「水と油みたいな、はっきりとした境い目があるの。日常とか、現実とか言われるものは全部水の中にあって、話し声も表情もさわり心地もにおいも全部、油の膜に包まれたあたしの側には伝わってこない。ドレッシングみたいに少しのあいだだけ混ざったりするけど、すぐもとに戻る。それが本来のかたちだから」
「切るのは、境界線をなくす行為なのか?」真っ赤に染まった少女の左腕には、今つけた傷の他にもいくつかの線が走っていた。
少女は答える代わりに、「この川はどこへ流れてるの?」と尋ねてきた。突然、何のなぞなぞだ。俺は適当に「海だろ」と答える。
「境界線はなくなったりしない。あたしがあたしでなくなるか、あたしそのものがなくなるかしない限り」
「切るってことは、お前の存在を危険に晒す行為なんじゃないのか?」
「海に着いたら、そのあとはどうするの?」
ああ、さっきの運命の話か。
「着いてから考えればいいんじゃないか? そもそも、どこが海かだと思うのかもお前次第だしな。お前はどこへ行きたい?」
「……わからない」
「そうか。まあ、俺もどこへ行きたいのかよくわからないんだけどな」
「今は、海に行きたい」
「なんだ、わからないんじゃないのかよ」
「おじさんがあたしのことをわからないみたいに、あたしもあたしのことがわからない」
会話が噛み合ってない。意識が朦朧としているんだろうか。血を洗い流そうと、消毒液を取り出す。
「あ、飛行機雲」
少女の視線を辿る。夏の終わりの空に浮かぶ雲。その隙間を縫って、一本の線が走っていた。先端の飛行機はゆっくりと水平線に向かって落ちていく。
俺はその風景を、助手席の窓ガラス越しに見ていた。ガラスにこびりついた血が入道雲と重なる。暗い赤は白によく映えた。まるで雲に血しぶきが降りかかっているようだった。
少女は左腕を上げて、「青い空と白い雲、赤い血液。床屋のくるくる」と歌うように言った。その顔はうっすらと微笑んでいる。腕から滑り落ちたひとしずくが、白線の上で弾けた。
初めて感情を見せた少女に、俺はガーゼを大量に当て、包帯でぐるぐる巻きにする。彼女は非難するような目で俺を見て、「かゆい」とこぼした。
ハンドルを握り、遥か前方を眺めながら尋ねる。時速90kmでバイパスを走る、くすんだ水色。俺の愛車。
俺は運転する合間に隣を盗み見る。助手席の少女はぐったりと体をシートに預けている。無造作に放り出された華奢な腕。何も見てないかのような瞳。アンニュイの海で溺れた人形のようだ。さっきマックでまずそうにポテトを食ってたときも、同じような目をしていた。
答えは返ってきそうにない。期待していたわけでもないが。そんなことを思っていると、「運命?」とか細い声で聞き返された。なんだ、聞こえてなかったのか?
「そう、運命。どう思う?」
一瞬、少女は首を傾げたらしかった。それから「考えたことない」と切り捨てられる。考えたことない? 考えたことないだって? さらには「それより」と声のトーンをやや上げて、話題を変えようとする始末。ちょっと待て。
「俺はさ、川の流れみたいなものなのかなって思ってるんだ」声がでかかったせいか、少女がびくりと体を震わせるのを感じた。「ありきたりだけどな」
工場の排煙みたいな嫌な雰囲気が車内に充満する。しばらくして少女は「ふうん」と小さく相槌を打った。話したければ勝手に話せば、という声が聞こえてきそうだ。
「途方もなくでかい川だ。何度も分かれて、いくつもの細い支流になる。そうかと思えば細い川どうしが合流して一つになる。俺たちは、川に流されてる空き缶とかペットボトルとか、そういうちっぽけな存在だ。でかい川の流れに逆らうことなんかできない。行き先を選んで器用に流れに乗るか、そうでなければ流れに翻弄され続けるかどっちかだ」
「ねえ」と少女は言う。「窓開けていい?」
俺は無視する。右に緩くカーブする二車線の道路の先に、海が見えた。
「近づくも離れるも流れ次第だ。ビンとフタみたいにぴったりな関係でも、流れが分かれればあっけなく壊れるし、逆にビニール袋とナイフみたいな一方的に傷つけられる関係でも、合流したままなら一緒にい続ける」
少女が窓を開ける。時速90kmの潮風が流れ込んできて、クーラーの冷気を追い出す。ハンドルが振られ、ひやりとしながらアクセルを緩める。俺はクーラーを消して、運転席側の窓を開けた。
眉をひそめ、ちらと助手席を見て、俺は思わず声を荒げた。
「おい、何してんだ」
少女は人形みたいな両腕を交差させて、半分くらい開いた窓の外に出していた。左腕の上に斜めに置かれた右腕。握られた手の下で、何かがきらりと光った。
そして彼女は、腕を勢いよくスライドさせた。
ぶしゅ、という音が聞こえた、気がした。溢れ出る鮮血。白い肌が赤く染まる。中途半端に開かれた窓ガラスを伝う。俺はハンドルを握ったまま、それらの映像を断片的に網膜に焼き付けていた。べたつく風が、鉄錆の臭いをのせて吹き込んでくる。
「腕、しまえ」声が少しかれていた。喉、渇いたな。
「汚れるよ?」少女がズレた答えを返す。
「左に寄せるから、腕けずられたくなかったら、しまえ」と言うと、沈黙の後、ずるりと腕を中に入れる音が聞こえた。一時停止用の場所を見つけ、ウインカーを左に出す。ブレーキを踏んで、ハザードをたく。かっち、かっち、と刻まれる一定のリズムが、心音を思わせる。
道路の縁に立つ、低いコンクリの壁の向こうに、海が広がっていた。エンジンを切ってドアを開ける。後部座席に積み重ねた荷物の中から、救急箱を引っ張り出す。車の後ろを回り、助手席のドアを開ける。
少女の顔は血の気が引いていて青白い。ますます人形めいている。かがんで左腕を取ると、痛かったのかその顔が歪んだ。
「なんで切った」止血しながら言う。
「わかれているの」と少女は言った。「水と油みたいな、はっきりとした境い目があるの。日常とか、現実とか言われるものは全部水の中にあって、話し声も表情もさわり心地もにおいも全部、油の膜に包まれたあたしの側には伝わってこない。ドレッシングみたいに少しのあいだだけ混ざったりするけど、すぐもとに戻る。それが本来のかたちだから」
「切るのは、境界線をなくす行為なのか?」真っ赤に染まった少女の左腕には、今つけた傷の他にもいくつかの線が走っていた。
少女は答える代わりに、「この川はどこへ流れてるの?」と尋ねてきた。突然、何のなぞなぞだ。俺は適当に「海だろ」と答える。
「境界線はなくなったりしない。あたしがあたしでなくなるか、あたしそのものがなくなるかしない限り」
「切るってことは、お前の存在を危険に晒す行為なんじゃないのか?」
「海に着いたら、そのあとはどうするの?」
ああ、さっきの運命の話か。
「着いてから考えればいいんじゃないか? そもそも、どこが海かだと思うのかもお前次第だしな。お前はどこへ行きたい?」
「……わからない」
「そうか。まあ、俺もどこへ行きたいのかよくわからないんだけどな」
「今は、海に行きたい」
「なんだ、わからないんじゃないのかよ」
「おじさんがあたしのことをわからないみたいに、あたしもあたしのことがわからない」
会話が噛み合ってない。意識が朦朧としているんだろうか。血を洗い流そうと、消毒液を取り出す。
「あ、飛行機雲」
少女の視線を辿る。夏の終わりの空に浮かぶ雲。その隙間を縫って、一本の線が走っていた。先端の飛行機はゆっくりと水平線に向かって落ちていく。
俺はその風景を、助手席の窓ガラス越しに見ていた。ガラスにこびりついた血が入道雲と重なる。暗い赤は白によく映えた。まるで雲に血しぶきが降りかかっているようだった。
少女は左腕を上げて、「青い空と白い雲、赤い血液。床屋のくるくる」と歌うように言った。その顔はうっすらと微笑んでいる。腕から滑り落ちたひとしずくが、白線の上で弾けた。
初めて感情を見せた少女に、俺はガーゼを大量に当て、包帯でぐるぐる巻きにする。彼女は非難するような目で俺を見て、「かゆい」とこぼした。
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2009.08.30 | 一話完結 | comments(0) | ↑
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