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いないいない

 終電に揺られ最寄り駅で下車する。徒歩二十分の条件で選んだアパートまで、実質三十分かかる。玄関のドアに到達する頃には午前一時を回ってしまう。真新しい家の建ち並ぶ住宅街の一角、すべてが耳をひそめるなかで鍵をさしこんで回す。かちゃん、と音がしたたり落ち、夜に波紋が広がる。
 静かにドアを閉め、鍵をかけて靴を脱ぐ。寝室の戸をそっと開けると、隙間から布団が三枚敷かれているのが見える。真ん中のかけ布団が大きくずれていた。私は部屋に忍びこみ、冷たい布団を掴むと本来の位置まで戻す。
 リビングに向かう。テーブルの上には煮魚の載った皿と、スープカップと、空の茶碗が置かれている。カップをレンジで温め、お釜に残されたご飯をよそい、それも温める。テレビはうるさいのでつけない。薄暗い明かりの下、椅子たちが黙って私を見つめている。咀嚼する音が散らばって、フローリングに沈みこむ。
 食器を片づけ、風呂場でシャワーを浴びる。湯船にはしばらく浸かっていない。水を溜めるのも落とすのも音が大きくて、起こしてしまうといけないから。
 寝間着に着替えて歯を磨く。廊下の明かりを消して寝室へ。
 布団のうえにちいさくて透明な足が転がっている。それは夜のあいだ自由奔放に転げ回る。時折、私は足の位置と温度を確かめ、布団をかけたりかけなかったりする。

 穏やかな気持ちで海に潜った。波間で私を呼ぶ声を聞く。ころころ転がるような笑い声を。波はゆっくりと引いて、足元に草が生い茂り、私はちいさな手と手を繋いで歩いていた。日は傾き、長く伸びた影が仲よく三人並んでいる。私は隣を見た。左手の先に透明な手があり、透明なからだがあり、透明な顔が私にふふふと笑いかける。
 ふいに強い風が吹き、砂ぼこりに手で顔を覆う。風が止むと、そこには枯れた川の跡がうねうねと曲がりながら続くばかりだ。私の四肢はみるみる痩せ衰えていく。乾いた指の先からひびが割れ、皺が刻まれる。地の底で誰かが呻いている。
 窓から射す光に目を覚ます。天井を眺めたまま、ばたばたと慌ただしい足音を聞いた。まんま。たどたどしく言う声。そうね、まんま、食べようね。

 起き上がり、顔を洗ってパンを焼く。やかんの口から湯気が吹き出す。コーヒーの香りとトーストをかじる音が広がり、薄まって、かき消える。
 冷えたシャツに袖を通す。髭を剃り、ネクタイを締める。誰もいない部屋に向かって手を振る。行ってきます。

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No one, no one - his ghost in the dining room -
短編第184期 投稿 1000字
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    さかさま少女

     昼間は誰もいないので、ただひたすらにぼんやりとしている。いぐさの敷き詰められた天井を眺める。床の下を流れていく雲を眺める。部屋の真ん中の照明、そこから真上に飛び出した紐を揺らして遊ぶ。こっそり地袋を開けてみたりする。床板の模様は叫ぶ顔のように見えて少し怖い。
     夕方になると半透明の女の子が現れる。天井から、さかさまに立った状態で部屋に入ってくる。
     女の子はさかさまの机で勉強したりさかさまのベッドで眠ったりする。彼女には僕が見えないらしい。何度かそっと触ってみようとしたけれど、僕の手は彼女のからだをすり抜けてしまった。ふわりとした温かさだけが掌に残った。

     ある晩、黒い男が部屋に現れた。男はベッドで眠る女の子に近づき、布団を剥がし、寝間着を乱暴に脱がせ始めた。目を覚ました女の子が叫ぼうとしたけれど、寝間着の両袖で口を縛られた。やめて、と女の子が唸った。おとうさんというのが男の名前らしかった。男は黙ったまま女の子の上にのしかかった。声のない悲鳴。
     その晩から、数日に一度の割合で男は部屋を訪れた。女の子はしばらく抵抗していたけれど、何度か叩かれてそれもできなくなった。男に犯されている間、女の子は中身がなくなったみたいな目をして虚空を見つめていた。

     ある日、女の子は体調がよくないのか、昼間でも布団に潜ったままだった。意識が朦朧としているのかもしれない、口もとまで掛け布団で隠して、焦点の合わない瞳を薄く開いている。その目がふとした拍子に僕を捉え、ほんの少しだけ見開かれた。そして、布団からゆっくり手を出し、細い指をひらひらと振った。僕は突然のことに驚きながらも、どうにか手を振り返すことができた。彼女はまた目を細めて、そのまま静かな寝息をたて始めた。
     それから女の子は昼間も部屋にいることが増えた。女の子は僕にいろいろなものをくれた。ピンク色のかわいい寝間着。茶色くて甘いさくさくしたもの。たくさんの小さな絵が描かれた本。それから名前。
     はじめは口をぱくぱく動かしているだけだったけれど、少しずつ、これあげる、とか、おいしい? とか、女の子の声が聞こえるようになってきた頃のことだ。
    「あなたの名前」一冊の本を開きながら彼女は言った。「天井にいるから天井わらし。略して天ちゃん」
     天井にいるのは女の子の方なのに。僕は首を傾げた。

     夜になると黒い男がやってくる。そして女の子を犯す。僕はただそれを眺めている。空っぽの彼女を見ていると、なぜだか右手が震えるようになった。
    「天ちゃん」
     男が出ていったあと、静まり返った暗い部屋で、女の子はいつも決まって僕を呼んだ。僕に向かって手を伸ばす。僕も女の子の方に手を伸ばす。相変わらず、僕の手は彼女の手をすり抜けてしまう。ふわりとした温かさを感じる。女の子が薄く微笑む。彼女も同じように温かさを感じてくれていればいいと思う。

     よく晴れた日の午後、女の子は窓から外を眺めていた。僕も膝立ちして窓を覗きこむ。あれが学校。女の子が指さす先に四角い建物が見えた。
     女の子はひらりと足を上げ、窓枠に腰掛けた。両足を外に出してぶらぶらさせている。僕も真似をして腰掛け、突き出た板に足をのせた。女の子の差し出した手は半透明ではなくなっていた。手を繋ぐ。白くてほんのり熱を帯びていて、僕の手をきゅっと握り返してくる。
     見下ろす空には雲ひとつなかった。鳥が数羽並んで泳いでいく。
     不意に女の子のからだが窓枠を離れた。つられて僕も窓から飛び出す。彼女はするりとからだから抜けて、落ちる僕についてくる。
     女の子と僕を閉じこめていた牢獄は、すぐに小さくなってどこかわからなくなった。
    「天ちゃん」と隣で彼女が囁く。「私たち、どこに行くの」
     黙って彼女を見る。彼女の瞳のなかに僕の姿を見つける。長い髪が風にあおられて踊っている。なんだか女の子みたいな格好してるな、と僕は思う。
     ふたりで手を繋いだまま、青い空をどこまでも落ちていく。

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    the upside-down girl - their fantasy in the prison -
    合わせて:天井わらし
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      旗を立ててばかりいる

       旗を立てましょう。0を1に、FALSEをTRUEにしておきます。この区画一般の法則に従って、三歩先に忘我する鶏の如く、三秒後の私は他人であるわけですから、足下に立てられた他愛ない旗によって、ひとつの回答を得ることが可能です。
       はい、もしくはいいえ。
       私はここを訪れたことがありますか?
       YESあるいはNO.
       私はこの旗を立てましたか?
       然り、そして否。
       私はこの旗を折るべきでしょうか。
       ○かつ×。
       これは旗ですか?
       そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
       じゃあ、それはなに?
       これはひとつの回答です。回答は位置や姿勢や視点や気分によって意味が変容します。旗は立てられた瞬間に失われています。

       あなたの意思や意識や意図もまた同様に/非連続です。しかし「同様に」と/「非連続です」の狭間にある/非連続面/によって、思考の連続性は/失われます。/「あ、」と指差したあなたと/「え?」と振り向いたあなたがいます。/しかしあなたはいま/ひとりきりです。/不思議に感じたあなたは/旗を立てることを思いつきます。/なぜ思いついたか思い出せません。/何を思いついたのか思い出せません。/ただ旗がそこに立っているのを見ます。そこに仮初めの連続性が立ちあがり、すぐに揺らいで/消えます。/連続性が失われることにより、/あなたは/あ/な/た/に分割されます。/あ、は意思を持ちません。/な、には意識がありません。/た、は意図せずして足下に目印を描き出します。/つまり、旗を。

       棒が一本あったとします。葉っぱでしょうか。いいえ、葉っぱではありません。単子葉にも似ていますが、それはたわんだ二等辺三角形で、等しい角度を持つ頂点Bと頂点Cが棒に結ばれています。BとCから頂点Aに伸びる二辺はぴんとまっすぐに張っています。無風です。
       一本の棒のうち、二等辺三角形のついていない点の座標を(x,y)=(0,0)とします。棒は起点からy軸方向プラスに伸びている、つまりx軸上に直立しています。棒のもう一端の座標(0,2)に結び目Bがあり、もう一つの結び目Cは(0,1)にあります。頂点Aの座標は(1,3/2)です。長辺の長さは√5/2,人世一夜に、人並みに、富士山麓鸚鵡鳴くのでだいたい1.118といったところでしょうか。正三角形よりわずかにスリムです。
       あなたは同じ形の旗を持っています。左手と右手に、一本ずつ。それでは、あなたの左手の旗を頂点Aに立ててください。できない? なぜです? 宙空に旗は立てられないから? いいえ、旗はx軸上に立っていますが、xy平面上では倒れています。あなたはxy平面上に立ち、頂点Aに旗を立てればいいのです。頂点A´の座標は(2, 3/2, 3/2)になります。
       では次に、右手に持った旗を頂点A´に立ててください。できない? なぜです? 宙空に旗は立てられないから? 今度こそ空中でしょうって? ええ、今度も空中ですよ。頂点Aだってそう、単なる空間上の座標です。xy平面は地面ではありません。どちらの旗も空間上に静止して、しっかり立っているでしょう? あなたが立てたんですよ。もう一本立てることだって、あなたにとっては造作もないことです。一本目の旗と平行に、ただし上下は逆方向に立ててください。いえ、逆さまに立てるのではありません。一本目が逆さまなのであって、三本目はあなたの立っている向きと同じですよ。どうしても抵抗があると言うのなら、邪魔な一本目は抜いてしまいましょう。ただし、三本目を立ててからですよ。
       では続けて、抜いた旗を立てましょう。さっきと同じ要領で、二本目とは逆方向に。二本目を抜いて五本目にしましょう。三本目を抜いて六本目、四本目を抜いて七本目。頂点の座標は次のように変化します。
      (1, 2/3, 0)
      (2, 2/3, 2/3)
      (3, 0, 2/3)
      (4, 0, 0)
      (5, 2/3, 0)
      (6, 2/3, 2/3)
      (7, 0, 2/3)
       この空間の外から見れば、あなたはぐるぐると回りながら旗を立てているのですが、あなたがそれを意識することはありません。しかし意識せずとも、一本旗を立てるたび、あなたはx軸方向に進んでいるのです。角張った螺旋を描きながら。

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        去年の空で観た話

        『Ghost in the Shell』
         人間たることの証明として、選択する権利(同意するかしないか)が全面に出されている。同意は必要ないと押しつけること=殺人。この思想は権利を勝ち取ってきた西洋的なものかなと思った。
         肉体を持っていた頃の家族や、恋人(?)とのエピソードがメインに置かれているように見えた。そのせいで、後半になるにつれて「その孤独をあなたは知らない」という台詞が薄まってしまう。押井作品は顕著に、そしてアニメ甲殻機動隊も、孤独は決して過去の関係性によって埋められなかった。(SACしか観てないので、2ndは違うのかもしれないが。)「記憶ではなく、いま何をなすべきかが人を決める」と言いながら結局、かつて肉体を持っていた頃の関係が人間性や存在を保証するんだよ、みたいな作りに見えて腑に落ちなかった。
         例えば水に潜るシーンひとつとっても、アニメがそれこそGhostの深奥を覗くような印象的なシーンであるのに対し、実写版は映像がきれいで「怖い」という台詞が浮わついた薄っぺらいシーンになってしまっているように感じた。全体的に押井作品からビジュアル流用してもっとCGきれいにしましたよーという感じで、思い返してもあまりいい印象がない。
         素子の名前が出てきたときは鳥肌立ったけど。そうくるかーって。
         吹き替え版の声優陣がいつものメンツで安心感があった。ちょっとずるいと思う。
         ビートたけしは最初どうなの、と思ったけど銃を撃つとやっぱりかっこよくてずるい。見て、あれが銃撃も跳ね返すジェラルミンケースよ!

        『セトウツミ』
         ゆるい! 嫌いじゃないけど映画館で観たら後悔しそう。

        『インセプション』
         導入部で全く説明のない不親切な脚本が好みだった。ラストはお約束なんだけど最後まで見せないのが後味悪い。
         行って帰るを入れ子にして、さらに矛盾なく組み立ててあるのはよくできていると思う。映像もどうやって撮ったんだかわからないものがいくつもあってすごいなーと思うんだけど、どうも盛り込みすぎ感が否めない。仕掛けがありすぎて観ていて疲れた。
         めでたしめでたしかもしれないけど、結局どうやったのか描かれてないのが気になる。明らかに車と一緒に沈んでたじゃん。
         奥さんは名演だと思った。怖かった。

        『Rogue One: A Star Wars Story』
         悲しい結末が分かっている物語は観ていてつらい。それでもその中で美しいものは確かにあるのだなと思う。STAR WARSシリーズのドロイドたちは味があって好きだ。

        『ダンケルク』
         水と船が怖くなった。空襲が来たらその場にうずくまるしかないのだ、という事実に愕然とする。恐怖を煽る音響効果が抜群で、見終えた後も耳に残った。夢に出そうだ。異なった視点で時系列を交錯させて描くのは面白い。


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          藤井大洋『Gene Mapper -full build-』

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           近未来遺伝子工学SF. webのスタイルシートのような形式で遺伝子設計が可能となっており、主人公は色や形、器官を含めて農作物をデザインするGene Mapperという職についている。
           VRやARが日常的に使われており、それらのギミックとしての面白さが切れ味のいいフックになっている。次にその技術の影響、登場人物の人生が翻弄される恐ろしさが描かれ、最終的に進化した技術とどう向き合っていくかに繋がっていく。インターネットが滅んでPDFが過去の遺物と化しているあたり、にやりとさせられた。後半の、知識を持たぬままに技術を使用する恐ろしさは身につまされる思いがした。
           登場人物が皆色々な意味で個性的で、彼らのやり取りだけでも読んでいて楽しい。好きな登場人物はダントツでキタムラ。

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