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雨男と晴れ女

「先輩、昨日ふられたんですか?」
「は? ふられるって、そもそもふられるような相手いないし、俺」
「雨ですよ。昨日の帰り、降ってましたよね」
「なんだよ紛らわしいな……降られなかったよ。地下鉄の駅でベンチに座って本を読んでいたのがよかったのかもな」
「時間をずらすなんて。卑怯ですよ!」
「卑怯ってどういうことだ。いいところだったんだよ、本が」

「本当の雨男なら、いくら時間をずらしても外に出たとき降られるだろ」
「なるほど。つまり、そんなに雨男じゃなかったと。いわば少々雨男、あるいは多少雨男、縮めてショウ雨男、ああ、小雨男ですね」
「……雨男に比べてよくなっているはずなのに、なんだろうこの悔しさは」

「じゃあ大雨男の方がいいですか?」
「巨人っぽいな」
「土砂降り男」
「なんか服が汚れてそう」
「豪雨男」
「おお、いいな! 強そうだ!」
「弱いのでも種類によってはいいのがありますよ。霧雨男」
「なんか神秘的だな」
「秋雨男や五月雨男」
「もはや季語か」
「でも先輩は小雨男です」
「しょぼーんって感じだな」

*

「先輩」
「なんだ後輩」
「相談があるんですが」
「言ってみろ」
「これ見て下さい」
「な……なんだこれは! なぜオフィスの床にこんなボタンが!?」
「ありがとうございます」
「任せろ。で、相談って?」
「これを押したくて仕方がないんです」
「やめろ、やめるんだ! 押すなって書いてあるじゃないか!」
「ありがとうございます」
「任せろ」

「でももう我慢できません、入社した頃からずっと気になってたんです」
「落ち着け、この前オフィス移転しただろ」
「じゃあ移転した頃から気になってたんです。押してもいいですか」
「やめろ、何が起こるかわからん」
「だから押したいんです」
「いや、たぶん警報が鳴るだけだろ」
「そしたら土下座して謝ります」

「どうすれば止めれるんだ」
「そうですね……止め方がありきたりなのがいけないのかも」
「じゃあ、どういうのがいいんだ」
「アレグロで」
「意味は」
「快速に・陽気に」
「ソノボタンオシチャダメダヨッ!」
「陽気?」
「ダメダヨッ★」
「先輩、恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしいよ」

「もうちょっと違う感じでお願いします。そうですね……カンタービレとか」
「意味は」
「歌うように」
「早まるなー、そのボタンをー押してはーならーぬー♪」
「押すとどうなるんです」
「魔王ーがやってくーる♪」
「みんな見てますよ。恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしいよ」
「でも先輩うまいですね」
「任せろ、いや、任せるな」

「これもダメか。何がいけないんだ」
「ええと、喉が渇いてるのがいけないのかと」
「しょうがないな、なんか買ってきてやるよ」
「ありがとうございます」
「で、何が飲みたいんだ」
「じゃあ、赤ワインを」
「仕事中だぞ」
「赤ワインがだめなら、何でもいいです」
「じゃ、要求を」
「それは飲めません」

「ごくごく。うーん、押したい」
「え、せっかく午後ティー買ってきたのに」
「うーん、押し倒したい」
「おい、悪化してるぞ。落ち着け」
「誰をって聞かないんですか」
「ボタンだろう」
「ボタンに欲情できるほど想像力豊かじゃありませんよ」
「えっ、欲情? ああ、押しまくるって意味じゃないのか」
「えっ」

「ぽちっとな」
「あー! 押しやがった」
「……」
「……」
「何も起きませんね」
「そうだな……何を期待してたんだ?」
「課長のヅラが飛んだりとか」
「おい、本人そこにいるぞ」
「オフィスビルがロボットになったりとか」
「社員死ぬな」
「先輩が何でも言うことを聞いてくれるとか」
「……例えば?」

「じゃあ、赤ワインが飲みたいです」
「仕事中だ」
「職後でいいです」
「薬みたいに言うな。もしくは近々辞めるみたいに言うな」
「飲みに行きましょうよー先輩の驕り高ぶった財布でー」
「俺の財布はびっくりするくらい慎ましいぞ」
「だめですか?」
「俺、飲めないんだよ」
「後輩の要求が?」
「酒がだよ」

*

「せんぱーい」
「なんだ、酔っ払い」
「どーして飲んでくれなかったんですか。私の酒が飲めないんですか」
「だから酒はだめなんだって、何回言ったら」
「せんぱーい」
「……なんだよ」
「月が欠けてますよー。そういえば今日、皆既月食らしいですよー」
「へえ、あ、本当だ」
「見ていきましょうよ」
「終電までな」

「おい、雲が! いいところなのに!」
「やっぱりダメか。仕方ないよな、先輩がいるからな」
「え、俺のせい? 今曇ってるの俺のせいなの?」
「っていうか先輩なんでいるんですか」
「見ていこうって言ったのお前だろうが」
「罰として私に温かいお茶を下さい」
「自分で買えよ……」
「あ、晴れてきましたよ」
「おぉ! 赤いぞ!」
「晴れ女である私のおかげですね」
「そうかよ。そんなことばっかり言ってるとお茶やらねーぞ」
「あー、くださいよー」


* ついったからまとめ、修正。「魔王がやってくる」の元ネタはこちら
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    冬の夢

     少年は両手を口にかざして、はあっと白い息を吹きかけた。雪は降らない。代わりに自分のほっぺたがてのひらが、ぱきぱきと凍り付いて崩れ落ちてしまいそうだった。夜空に光っているあれは氷の粒だと誰かが言っていた。雪はそこで生まれるのだと。風が吹いている。刺さるような尖った風が吹きつけている。
     駅のホームで、ベンチに一人で座って誰かを待っていた。誰かが誰だか少年は知っているけれど人懐っこい笑みを浮かべるその顔を思い浮かべることもできるけれどそれが本当は誰なのかまったく思い出せなかった。その誰かがここに来るのかどうかもわからなかった。来るよ、と吹雪の止まない胸の奥のほうで戸を開けて言う声が聞こえたから、きっと来るんだと思う。
     駅の周りには大きな水晶の森が広がっている。線路はその森を切り裂くように敷かれており、誰かを悲しい気持ちにさせる夕暮れ時から広く巨大な夜の闇の向こうまで延々と続いていた。空には大きなエイが泳いでいる。なめらかな黒い肌が雲を裂いて、ゆら、ゆらと上昇、下降し、くるり宙返りしている。
     吐く息は白い。
     リンゴが食べたいなと少年は思った。彼はリンゴを一度も食べたことがない、触れたことだってない。ただどういうものかは知っている、赤くて、まるい、赤くて、あまい、すこしすっぱいかもしれない、リンゴが食べたいな、と彼は思った。
     てのひらに息を吹きかける。一瞬だけ溶けて、また固まる。
     それからチョコレートというものだって僕は知っている、と少年は思った。茶色い、茶色くて、丸かったり、四角かったり、かたいのもあれば、やわらかいのもある、それでやっぱりあまい。あまいものが食べたいのかもしれない。
     けれど、あまいって、どういう気持ちなんだろう。
     ふいに鋭い空気の塊が近づいてくる気配がして、耳が痛くなるほどの轟音があたりに響き渡った。目の前の線路を細長いチューブがごうごうと走っていく。空気がひっぱられてうにゅうと歪む。ほっぺたにひびが入った。チューブが通り過ぎると唐突に歓声が上がった。少年のほかに一人もいない駅のホームで、置き去りにされた喧騒だけがいつまでもわんわんと鳴り響いている。やがてそれも散り散りになった。静寂。
     見上げれば、エイはだいぶ高いところを舞っている。
     ここは忘れられてしまった、駅であることも、僕が座っていることも、誰かが来ることも、きっと全部忘れられてしまったんだと少年は思った。ぎっと音がして、ホームの真ん中にある大きな時計の分針が六度動いた。少年は目を閉じる。瞼の裏で何かがちかちかと光った。どこかで電話が鳴っている。けれど目を開くと光も電話の音も消えてしまう。きっとそうやって消えてしまうものが、ここにはあるんだと思った。
     それでも彼はベンチに座っていた。誰かを待つでもなく、ただそこにじっと座っていた。胸の奥のドアは閉まり、雪がどんどん積もってそれを覆い隠した。
     やがて、チューブが向かっていった線路の先から、とろりとした透明な液体が押し寄せてきた。線路は沈み、ホームの上に溢れ出す。少年の足が濡れ、からだがとぷんと飲み込まれた。
     液体の中では赤や黄色や緑の光の粒子がいくつも漂っていた。光はそこかしこで反射し、分裂した。少年が目を細める。だんだんと周囲が明るくなり始め、こぷ、と吐き出した息はもう白くなかった、水面の向こうの空にはもうエイは飛んでいない。ほっぺたに入ったひびからじわじわと液体が染み込み、彼の皮膚は溶けていった。あたたかい、と少年は思った。たぶんこれがあたたかいってことなんだろう。閉まったドア越しに声が聞こえる、朝、朝が来るよ。
     真っ赤な熱が線路の向こうからやってきた。リンゴだ、赤くて、まるい、赤くて、すこしすっぱいかもしれない。それから、あまい。

    JUGEMテーマ:小説/詩
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      ループ

       私は歩いていた。ただ、歩いていた。

       まっすぐに伸びる通路を行く。凹凸のない白い床が続いている。通路は両側を壁に挟まれており、真ん中に立って左右の腕を伸ばすとどうにか届く程度の幅だった。壁も白く、気が遠くなるほどに高い。天井が一本の黒い線にしか見えない。視線を下ろす。通路の先では、壁と床との境界線がかすれて消えている。
       長い時間ここを歩き続けていた。これまでに、薄い水色のだだっ広く平らな空間やら、上下左右の区別もつかない無重力の闇やらを歩いてきた私にとって、ここは壁や天井があるだけ幾分かマシだった。とはいえ単調な景色であることに変わりはない。すぐ飽きが来て、やがて苦痛に変わる。白く潔癖な外界に対し、私の内面ばかりが黒ずんでぐずぐずと腐っていく。
       しかし、私が腐り切る前に変化は訪れた。遥か前方、床に真っ黒な穴が空いていた。
       近づくとそこは十字路だった。ほぼ同じ幅の通路が直角に交わっている。穴に見えていたのは黒く塗られた床で、通路の重なった部分にきれいな正方形が描かれていた。境界は切れそうなほどに鋭い。
       恐る恐る黒い床に右足を出し、靴の先で何度か叩いてみる。何も起こらないが、トラップの類でないとは言い切れない。踏まないに越したことはないだろう。
       左を覗く。先は見えず、今まで自分が歩いてきたのと同じような通路だ。まっすぐ前を見る。先は見えず、今まで自分が歩いてきたのと同じような通路だ。右を覗く。先は見えず、今まで自分が歩いてきたのと同じような通路だ。
       さて、どうしたものか。
       私は左に曲がることにした。理由はない。背負っていた鞄から黒い石のかけらを取り出すと、正方形の手前に左に曲がる矢印を描いた。ループの可能性がある、と自分に言い聞かせるように。黒い正方形を踏まぬように注意して、左の通路に入る。
       そしてまたひたすらに歩く。
       これまでも何度かループに嵌ったことがあった。ドアを開けると目の前に右への曲がり角、曲がればまた右への曲がり角。曲がり角が延々と続き、くたびれて振り返ると入ってきたドアがある。あるいは雲の中へ続く上り階段。いくら踏み出しても上階へはたどり着けず、これまた振り返ると最下段に立っている。
       この通路もループなのだろうか。先ほどの長い道のりを思うと、その可能性は高い。ただ気になるのは、私の心が折れる直前に黒い交差点という変化があったことだ。それが何を意味するのか……いや、これまで歩いてきた道のりがそうであったように、この場所にもともと意味があるとは思えないのだが……。
       そんなふうにとりとめないことを考えながら歩いていると、思ったよりも早く変化は訪れた。遠くの床に、黒い正方形が見えたのである。
       私は歩を進めた。ループと判断するにはまだ早い。全く同じ形をした別の交差点かもしれない。交差点の手前で立ち止まり、正方形の周囲を確認する。
       私の描いた矢印があった。やはりループだったのだ、という安堵に似た思いが胸の内に生じ、すぐに新たな疑問がそれを打ち砕いた。矢印は正面の通路に描かれていた。正面の通路から、私から見て右に曲がるように。
       ここは本当にさっきと同じ交差点だろうか。まっすぐ進めば入り口に戻れるのか? ここで右に曲がった場合はどこにたどり着くのだろう? 今私が立っている通路に繋がっているのだろうか。
       しばらく思案した後、私はくるりと踵を返した。二つ目の交差点が一つ目の交差点と同一であってもなくても、歩いた道を引き返せばもと来た場所へ戻れるはずだ。
       来た道を歩く。錯覚だろうか、帰りの方が行きより長いように感じる。気持ちがはやり、何かに追い立てられるようにして前へ進む。
       交差点まで来ると再び矢印を探した。矢印は左手の通路にあって、正面の通路へと曲がるよう指示していた。私はそれを無視し、正方形を跨いで右の通路へと進んだ。方角はこれであっていると自分に言い聞かせた。このまま長い時間歩き続ければ、ループから脱出できる。
       しかしその先で待っていたのはまたしても交差点だった。矢印は私が立っている通路から左へ折れている。最初に私が交差点を訪れたときと同じ向きだ。私は俯き、大きく息を吐いた。呼吸を整えながら考える。おそらくこれで一周したのだろう。方角はもう当てにならない。次は矢印を逆にたどるか。体力も気力も消耗していたが歩けないほどではなかった。私はもう一度、来た道を引き返した。
       やがて黒い正方形が見え、私は一定のペースを保ってそれに近づく。矢印は右の通路にあった。右に曲がり、歩く。次の交差点では矢印は正面にあった。まっすぐ進む。次の交差点では矢印は左の通路にあった。左に曲がり、歩く。
       次の交差点の手前で私は立ち止まった。私の足と交差点の間に、左に曲がる矢印があった。また一周して、振り出しに戻ったのだ。
       しばし茫然と立ち尽くし、我に返って首を振った。まだだ。次は、矢印に従って進んでみよう。もとはと言えば迷わぬよう描いたそれに従うというのもおかしな話だ。しかし、実践することなく正しい道を否定してループから抜け出せない方が、なによりも恐ろしかった。
       左に曲がる。重い足を引きずるようにして歩く。交差点で矢印は正面の通路へ急かす。まっすぐ進む。途中でバランスを崩し、壁に手を突いた。次の矢印は右の通路へと誘う。右に曲がる。足の感覚がなくなり、体がふらふらと左右に揺れる。次の矢印は来た道を戻るよう命令する。引き返す。目が霞んできた。次の矢印はもう一度来た道を戻れと嘲笑する。引き返す。歩きながら意識が途切れ、壁にもたれかかりながら進む。
       次の矢印はさらに来た道を戻るよう私に宣告した。
       限界だった。
       目の前の光景がぐるんと回転した。壁にもたれかかろうとするが手は届かない。足は震えながら体を支えることを諦めた。私は黒い正方形の上に膝を突き、倒れ込んだ。
       がこん、と音がして正方形は沈み込んだ。トラップ、という単語が脳裏に浮かんで消えた。視界が暗転し、私の精神はふわふわとした浮遊感に包まれながら、暗闇の中をどこまでも落ちていった。

       気がつくと私は正方形の上に転がっていた。かすかに機械が唸るような音がする。上体を起こそうとして、片方の足が地についていないことに気づき、慌てて引っ込める。
       黒い正方形が、私を載せたままぐんぐん上昇している。
       恐る恐る下を覗き込むと、大分高いところまで来ていた。落ちればほぼ確実に死ぬだろう。黒い正方形は単に床の表面が塗られていたわけではなく、細長い柱の頂点だったのだと知った。その柱が下から押し出されるようにして、上に乗る私を運んでいた。
       見上げると天井はかなり太くなっていた。このまま上昇し続ければ天井に挟まれて圧死してしまうのではないか。しかし近づくにつれ、そこには遮るものがないことが分かった。壁によって切り取られた黒い空の中を、ちらちらと光る点がいくつも移動しているのが見えた。
       やがて柱は壁を越えた。上から眺める通路はただの線のようだった。線は白い平面にいくつもの升目を描いていた。柱が立っている場所から四、五マスのところで升目は途切れていて、ある交差点から線が一本だけ伸び、それも途中で消えていた。
       それらも見る見る小さくなり、升目は細かな網と化し、さらに陽炎のようにゆらゆらと揺らいだ。いつの間にか地平線は丸みを帯び、私は自分が球体の上をぐるぐるとさまよっていたことを知った。途方もなく長い時間をかけてようやく一周する巨大なループ。私はそこから脱出しようとしていたのだった。
       黒い空を見上げる。大小さまざまな球体が明滅しながら飛び回っている。柱は、その中でも一際大きな球体に向かっているようだった。遠くから放たれる強い光が球体の明暗をくっきりと分ける。表面にはグレーの染みが痣のように広がっていた。染みの形が何かに似ている。しかし私は何に似ているのかを思い出せないまま、その球体へと近づいていった。

      JUGEMテーマ:小説/詩
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        闇夜の郵便配達

         あるところに、「城」があった。
         その城の主は途方もなく広い土地を所有していた。あまりに広大であったがために、そこで暮らす者の大半が城そのものを見たことがないほどであった。彼らにとって「城」とは、時折どこからともなく現れる役人であり、その役人が唐突に公布する法令であり、また自分たちが立っている土地そのものであった。
         領地の境には長い城壁が連なっている。城壁には地域で唯一の出入り口である巨大な城門がそびえ立っており、傍らには小さな古い家がまるで虫のようにくっついて建っている。少女はその家で老夫婦と共に門番として暮らしていた。とはいえ、物心ついてからこのかた、門が開いたところを目にしたことはなかった。
         門番は本来の役割のほかに、城壁の外へ連絡を取る際の窓口としての役割も果たしている。外から来た郵便物の配達は、一年ほど前に足腰を悪くした二人に代わり、主に少女が受け持っていた。
         ある晩、三人で食卓を囲んでぬるいシチューをすすっていると、裏の扉が叩かれた。「こんな時間に、どなたかしら」と老女がしわがれた声で呟く。
        「郵便です」
         色あせた制服に身を包み、肩から革の鞄を提げた青年の姿が、扉の向こうに透けて見えるようだった。背はあまり高くなく、若くて精悍な顔に人懐っこい笑みを浮かべている。少女は返事をして席を立った。
         扉を軋ませながら開くと冷たい夜風が吹き込んだ。目の前の青年の顔に笑みはなく、一日の疲れが濃い影を落としていた。
        「遅くに申し訳ない。今日の分を終えたと思ったら、鞄の底にまだ一枚残っていてね。ええとこれは……」
         読み上げられた名は、宿で働く女性のものだった。
        「配達は明日で構わないが、遅れてしまってすまないと伝えてくれないか」
         少女は手紙を受け取って頷いた。青年はわずかに顔を綻ばせると、「おやすみ」と言って去っていった。
         扉を閉め、そばにかけてあった上着のポケットに封筒を入れると、少女は席に戻ってシチューの残りをさらった。
        「私、届けに行ってくる」
        「今からかい?」
        「うん」
         ごちそうさま、と言って立ち上がり、上着を羽織る。「道筋は覚えているな?」老人がランプを差し出し、少女の瞳をじっと覗き込んだ。「大丈夫」と答えながらそれを受け取る。

         少女は表の扉から外に出た。夜気が体を包む。老人がマッチを擦ってランプに火をつけると、仄かな明かりが石畳の道と白い漆喰の壁をうっすらと照らし出した。道は左へぐにゃりと曲がって先は闇に沈んでいる。空は底のない穴みたいに暗くてひとつの星も見えない。
         右手でランプを持ち、左手でポケットに入った封筒を確認すると、少女は一歩踏み出した。こっ、と足音が響く。周囲の闇に潜むなにかが少女の存在に気づき、いっせいにこちらを向く気配がする。そうしてじっとこちらを窺っている。かっ、と二歩目を踏み出す。こっ、こっ、かっ、こっ、少女は口の中で老人から教えてもらった夜の掟を唱えながら、一心不乱に道を進む。
        「明るい場所までは、決して周りを見回すな。決して後ろを振り返るな」
         左へぐにゃりと曲がった先の三叉路を右、坂を上って十字路を左へ折れ脇にある小さな螺旋階段を下り、トンネルを抜けて突き当りを左、この通りは右手の壁際を歩き左の茂みには近づいてはいけない、レンガのアーチの下を何度もくぐり、だんだん狭くなる通路を壁に触れないように、もう一度上り坂、さらにどん詰まりから上り階段、上りきってようやく宿の明かりが見えてくる。
         周囲を取り巻いていた気配は、建物に近づくにつれて糸巻きから糸が解けるように少しずつ消えていった。裏口のドアの前までたどり着いたとき、少女は寂しげな視線を感じた気がして振り返った。窓から漏れる光に照らされて通りが浮かび上がっているだけで、その先には静かな闇しかない。少女は闇に向かって軽く左手を振った。
         ドアをノックする。「誰だい」という冷たい声がドア越しに刺さった。「郵便です」少女がぎこちない声で手紙の宛先を告げると、少し間をおいて、ゆっくりとドアが開いた。ドアの向こうには、赤い髪を後ろで一つに結んだエプロン姿の女性が箒を構えて立っていた。少女の姿を認めて、鋭い眼差しがわずかに緩められ、再び厳しい色を帯びた。
        「こんな時間に来るなんて。驚かすんじゃないよ、まったく」
        「す、すいません」
         謝る少女に構わず、赤毛の女性は大声で宛名の女性を呼んだ。やがて色の少し褪せた金髪の女性が姿を現した。少女の持つ封筒を見て、ぱっと顔を輝かせる。
         少女は、建物の中に入らないよう注意しつつ、両手で封筒を差し出した。金髪の女性はそっと受け取ると、頬を赤らめ、大切そうに胸に抱いた。
         眩しい光の中から、彼女は少女を見た。
        「これを届けに、わざわざ?」
         半ば闇に隠れながら、少女は申し訳なさそうに頭を下げる。
        「遅くなってすみません。でもずっと待っていらっしゃったので、少しでも早く届けたくて」
        「ありがとう。でもあまり無理しちゃだめよ、この季節はすぐに真っ暗になっちゃうから……。ちゃんと帰れるの?」
        「大丈夫です」少女は胸を張って答え、「夜分遅くに失礼しました。おやすみなさい」とお辞儀をする。
        「はい、おやすみなさい」金髪の女性が柔らかく微笑み、
        「本当に気をつけて帰るんだよ!」赤毛の女性は腰に手を当てて厳しい声を上げながら、どこか心配そうに少女を見送った。

         ドアが閉まるのを確認し、少女は歩き出す。
         宿の明かりが届かないところまで来ると、突然闇が彼女ににじり寄った。見ればランプの明かりが消えかかっている。少女は慌てて走り出すが、次の瞬間、闇の中からにゅっと黒くて大きな手の影が伸び、わずかな光を握りつぶしてしまった。目の前が真っ暗になる。なにかがひたひたと少女の体を這いずり、顔を撫ぜ、真っ黒な大きな目でこちらを見ているのが感じられた。
         少女は老人の言葉を思い出していた。もし暗闇に身を置くことになったら……。
        「目を閉じろ」
         背後から少年の声が囁く。
        「見回すな、振り向くな。声を出してもいけない。頷くか首を振れ、おまえは門番の娘だな?」
         波のない湖面のように静かで冷たく、それでいてどこか懐かしい声だった。
         少女は躊躇いがちに頷く。
        「夜は明かりを切らすなよ。送ってやろう。つかまれ」
         見えない手が少女の腕を掴み、ぐっと引き寄せる。恐る恐る腕にしがみつくと、乱暴に位置をずらされた。突然足が浮き、びっくりして声が漏れそうになる。どうやら片手で持ち上げられ、おぶられているらしい。マントを羽織っているのだろうか、薄い布の感触があり、その下の体は痩せていた。ごつごつと骨ばった背中からはなんのにおいもしない。
        「いくぞ」
         歯を見せて悪戯っぽく笑うような声が、突風に吹かれ後ろに飛んでいく。少女はすぐに、風が前方から吹きつけているのではなく、むしろ自分と声の主が風となって空気を切り裂いていることに気づいた。
         たん、たん、たん、と軽やかなステップを踏んで声の主は跳ぶ。壁を蹴って屋根から屋根へ、窓枠、ベランダ、階段の手すり、ありとあらゆる出っ張りを足場にして宙を舞う。まるで重さを感じさせず、時折窓をかたかたと鳴らし、木々をざわざわと騒がせながら駆け抜ける。いつの間にか夜空には満天の星が瞬いていた。
         少女は瞼を閉じたままで、目まぐるしく変わる景色を見ていた。驚きと恐怖と快感が次から次へと体を吹き抜け、心臓が激しく脈を打つ。
         壁の間のアーチを一つとばしで下り、着地してあの茂みのすぐそばを葉を散らしながら走り、木の枝を足場に再び屋根へ、さらにそこから高い塔の上へ。塔の頂上からふわりと跳躍し、空中で静止しているような錯覚を味わう。眼下に長く長く連なる城壁が見え、まるで怪物の口のような巨大な門が見えた。門の傍らに建っている家の窓が、日の光のごとく明るく輝いている。恐らく門番の老夫婦が、明かりを灯したまま眠らずに少女の帰りを待っているのだろう。
         やがて少女を背負ったなにかはゆっくりと落下し、一つの屋根の上に降りた。そこで止まり、首を回して後ろを向いた。
        「みえてるな」
         あたりの景色は見えているのに、声の主の姿かたちは黒く煙っていて判然としない。
        「その目で光を見ると、本当の目が潰れるぞ」
         声の主は空いているほうの手で、少女の目を覆った。掌はあたたかくもつめたくもなかった。やがて視界が闇に閉ざされ、「よし」と言う声が聞こえた。

         真っ暗ななにかは壁を滑り、石畳の上に降り立った。音もなく歩き、見慣れた道で少女を下ろした。見れば、ぐにゃりと曲がった道に向こうから薄ぼんやりとした光が差している。少女となにかの立っているところまでがかろうじて陰になっていた。
         少女はもう目を閉じていなかった。少し迷うような眼差しを声の主に向ける。声の主はそれに応えるように、真っ黒で輪郭の曖昧な腕を陰から出し、かすかな光に晒した。じゅっと焼けるような音がして闇が霧散する。少女が慌てて腕を引っ張り、陰の中に戻す。腕を強く握り締めたまま、涙を浮かべた目で声の主を睨みつける。
         すると、闇の中に二つの瞳が浮かび上がった。優しい眼差しで少女を見つめてから、わずかに細められ、それは笑ったようだった。少女は黒い手が自分の頭をわしゃわしゃと撫でるのを感じた。さっきまで温度のなかった掌が今はなぜか温かい。撫でられているうちに、目じりに溜まった涙はひいていた。
         少女が光の中に歩み出る。遠く離れた窓から届く弱い光がやけに眩しい。振り返る。目の前の闇には何の姿も見出せないが、たしかにそこでなにかが息をしているのが分かる。少女は闇に向かって手を振った。手を振り返されているような温かな気配を感じたが、巻き起こった突風によって散り散りに飛ばされてしまった。
         少女はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。撫でられた頭に触れ、思いを馳せる。あのひととは、ずっと昔、わたしがまだ小さい頃に会ったことがあるのではなかったか。
         少女はしばらく漆黒の空を眺めていたが、やがて視線を下ろし、老夫婦の待つ家に向かって歩き出した。やや急ぎ足で、こっこっかっ、と足音を響かせながら。

        JUGEMテーマ:小説/詩


        * ヘリット・ダウ『夕食の食卓を片づける女性』から
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          ハサミとポトス 後編

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           葉月はビニルシートの上に寝転がって目をつむっている。腕の傷口は開いて、赤い雫がシートの上に滴っていた。荒い呼吸を整え、ゆっくりと上体を起こす。額に汗が浮いている。
           彼女の肘のあたりから、左右一本ずつ、新しい腕が生えていた。血に濡れた青白い腕だ。
           私は、あくまでも平静を装って彼女に声をかけた。
           落ち着いた?
          「うん」
           じゃ、切るよ。
          「うん」
           私は片隅に置かれていた枝切狭を手に取った。刃を開き、葉月の新しい左腕の生え際にあてがう。
           ここらへん?
          「もうちょっと内側」
           ここ? 傷に食い込むんじゃないかってくらいに、刃を密着させる。
           葉月は頷いた。私も頷いて、彼女の元の腕を傷つけないよう、そっと刃を閉じていく。途中で彼女が目をそらし、歯を食いしばる気配を感じた。
           ざくり。
           繊維質をぶちぶち切ったような感触が、刃からグリップを通じて掌に伝う。断面からこぽっと血が溢れてすぐ止まった。葉月は切れた腕の根元に右手を添えると、人差し指でぐっと傷口に押し込んだ。またちょっと出血して、彼女の腕は元通り一本になった。
          「こっちも」
           右腕を差し出す。新しい方の腕がぴくりと震えた。神経が通い始めているのだろう。時間が経つと痛みも増すのだという。私は鋏を構えた。
           ぶちぶち。ざくり。
           葉月は顔をしかめ、切り終わるとシートの上に身を横たえた。痛かったんだろうか。どれくらい痛かったんだろう。手に残る、腕を切ったときの感触を反芻しながら、私はそんなことに思いを馳せる。感触はやがてぴりぴりとした痺れに変わり、掌から浮いて消えていく。
           私は手を伸ばして薄桃色のタオルを取った。ぼうっとしている葉月の頭に載せる。彼女はにっこりと笑った。私も笑みを返してから、彼女の汗を拭き、ついで腕を、最後にシートの血を拭き取る。
          「ありがと」
           彼女は慣れた手つきで傷口にガーゼを当て、テープで止めていく。途中でふと手を止めると、「そういえば」と言って机の上の鉢植えを指差した。
          「このあいだ言ってたの、あれだよ。ポトス」



          三ヶ月くらい前、葉月の家を二度目に訪れたときのこと。
          「ポトスってわかる?」
          腕を切ったあと、葉月は私に言った。私はばくばく跳ねる心臓をなだめるため、深呼吸を一つしてから応じる。
           ポトフ?
          「洋風の煮物?」彼女はぷっと吹き出した。「ウインナーおいしいよね」
           なにがそんなに可笑しいのか、くすくす笑い続けている。私はちょっとむっとした。
           本当にそう聞こえたんだよ。
          「ごめん、桐生さんが抜けたこと言うのが面白くて」
           なんかさらりと失礼なことを言われているような。
          「気のせい気のせい。それで、ええとね、ポトス。ツタがすごく伸びる観葉植物」
           知らない。
          「うちにもあるから、今度見せてあげるよ」
           それで、ポトスがどうかしたの?
          「このまえ見ててね、この腕、ポトスみたいだなって思ったの」



           私はポトスを見た。
           赤茶色の植木鉢からツタが溢れ出していた。鉢に近い葉は緑が濃くて大きい。ツタの先端に近づくにつれ、葉は小さく、黄みがかっていく。葉の根元、茎が枝分かれしている部分をよく見ると、古い方の茎が裂けて、裂け目から新しい茎が伸びている。裂け目は茶色く変色していて、まるでかさぶたのようだ。
           本当だ。これ、葉月の腕だ。
          「似てるでしょ」
           似てる。
           私はポトスをぼんやり見つめたままで返事をした。そして爛々と瞳を輝かせながら向き直る。「な、なに?」と訝しむ葉月を半ば強引に外へ連れ出し、手を引っ張って人気のない街をぐるぐると歩いた挙句、古いビルの地下一階にへ下りていく。一番奥、明滅する蛍光灯の下、黒くて重い鉄の扉の前へ。私はなぜだかそこの鍵を持っていて、ぎぎいごんと扉を開け満面の笑みを浮かべながらその部屋に葉月を押し込んで鍵をかける。彼女の叫び声を背に私はその場を後にする。次は二日後、学校から帰る途中で立ち寄って隣の部屋に入り壁の下に開いた穴から水と食事を彼女に与える。私の姿が見えないように。彼女が私を呼ぶ。「ねえ、そこにいるんでしょ?」もちろん返事はしない。そうやって私は葉月を閉じ込め監視カメラで様子を窺いながら大切に育てる。三ヵ月後に腕が生えまた三ヵ月後に腕が生え、四本、六本、八本と彼女の腕は増えていく。そして何年もたったある日、私は鉄の扉を開けて部屋に入る。そこには増えすぎた腕に囲まれ身動きが取れなくなった葉月が横たわっている。どろりと濁った瞳で私を一瞥すると、部屋を埋め尽くす掌を風に揺れる葉のようにざわつかせる。彼女の手がいっせいに私を襲う。足をふくらはぎを腿を尻を腰を胸を肩を二の腕を頬を髪を掴み、爪を食い込ませ肉を引きちぎっていく。血に濡れた指が何本も首にかかってぎりぎりと締め上げる。私はこの上ない幸福感に満たされながら意識を失う。

          「桐生さん?」
           葉月の声がして我に返った。「どうしたの?」と覗き込む無邪気な瞳に罪悪感を覚えつつ、なんでもない、と返事をする。
           体が少し楽になってきたのだろう。彼女はシートとタオルを畳むと、立ち上がって窓を開けた。
          「喉渇いた……桐生さん、ジュース飲む?」
           飲む。
           葉月が部屋を出ていき、私はまたクッションの上に腰を下ろした。吹き込む風を頬に感じる。緑に彩られた初夏の空気が部屋の中の血のにおいをさらっていく。私の内側の黒くどろどろとした欲望も、砂のように風で崩れて飛んでいってしまえば楽なのに。そんなことを思ってみても、風は表面を撫でてほとぼりを少し冷ますだけだった。
           階段を上ってくる足音が聞こえる。ドアが開き、葉月がジュースの入ったグラスを両手に持って入ってきた。差し出された片方を受け取る。
           いただきます。
           ジュースはグレープフルーツだった。冷たくて甘酸っぱくておいしい。隣で葉月もジュースを飲んで、こくこくと喉を鳴らした。
           ふと、畳まれたシートが目に留まる。腕が包まれている分、少し膨らんでいた。私は何気なくシートの端を摘んで持ち上げる。
          「あ、ごめん、先にそれ片付ければよかった」と葉月が慌てて言い、ううん、と私は首を振った。そして少し考えてから、
           ね、この腕、ちょうだい。
          「えっ? なんで?」
           葉月の声のトーンが下がり、顔がわずかに険しくなる。
           持って帰っちゃだめかな。
          「持って帰ってどうするの?」
           うーん。土に植える、とか。
          「え? さし芽? 増やすの?」
           増えるかな?
          「増えないよ」と笑う。彼女の笑顔に私はほっとする。
           じゃあ、抽斗の奥とかに、大切にしまっておく。
          「うーん……」葉月は戸惑いと恥ずかしさが混ざったみたいな表情を浮かべた。「爪とか髪とかと一緒だよ? 汚いよ」
           そんなことないよ。きれいだよ、葉月の腕。私が思わずそう返すと、彼女の頬がほんのり赤く染まった。
          「あ、ありがとう。でも……うー、複雑だー」
           だから、ちょうだい。
          「……やっぱり、だめ」
           そっか。
          「ごめんね」
           ううん。私の方こそ、変なこと言ってごめん。よく考えたら、自分が爪とか髪とかちょうだいって言われたらちょっと嫌だし。
           申し訳なさそうに視線を落とす葉月に、私は笑いかける。それからしばらく、二人のあいだに気まずい沈黙が流れた。自分では笑っていたつもりだったけれど、もしかしたらうまく笑顔になってなかったのかもしれない。
           ねえ、葉月。私は堪え切れず沈黙を破った。
           どうして私に切らせてくれるの?
           彼女は顔を上げてから、目を細めて小首を傾げた。そしてもう一度私を見て微笑んだ。
          「腕のこと知っても普通に接してくれて、普通に見てくれるからかな」
           それから目をそらして、「さっきもきれいって言ってくれたし」と小さな声で付け加えた。また顔が少し赤くなっている。
           私は目を伏せた。胸がきりきりと締め付けられるように痛んだ。
           違うよ、葉月。私はあなたじゃなくてあなたの腕を見ているだけ、普通に接するふりをしてあなたの腕を食い物にしているだけだよ。だからいつかきっと私はあなたを壊してしまう。自らの欲望の赴くままにあなたを踏みにじってしまう。
           だから、これ以上許さないで。
           発せられない声が内側で澱のように積もっていく。
          「ありがとう」と葉月が言った。
           ううん、と私は葉月に微笑み返す。そうじゃないよ、と思った。
           葉月は恥ずかしいのを隠すように、ぎゅっと目をつぶってグレープフルーツジュースを飲み干した。



           ん、と彼女が唸った。緩慢な動きでビニルシートの上に寝転がり、パジャマの袖を肘までまくる。両腕を曲げ肘を突き出すと傷口がはっきり見えた。かさぶたが割れてじくじくと濡れている。周りの皮膚も赤く腫れていて痛そうだ。
          「つ……」
           みちみちと音を立てて傷が開いていく。どろりと濃い色の血液がこぼれ出し、ほっそりした腕を伝う。やがて骨のような白い棒が肉の隙間から現れた。肘の関節を軸にして、少しずつ手前に倒れる。膨らんだ先端がぱくりと割れ、蛹を脱した蝶の羽のように、五本の指がゆっくりと伸び始める。新しい指先から、赤い雫がぽたぽたと緑色のシートに滴り落ちた。
           私は背筋を震わせた。クッションに腰を下ろしたまま、彼女から、彼女の腕から目をそらすことができない。ふいに息苦しさを覚え、呼吸を止めていたことに気づく。大きく息を吸い込むと、血のにおいで鼻腔が満たされてくらくらした。
           ひとまわり小さいながら、しなやかで繊細な曲線を描く新しい腕。電気のついていない部屋の中で浮かび上がる、赤く濡れた、磁器製の人形のような青白い肌。
           どのくらいのあいだ見惚れていたのだろう。微動だにしない私を不審に思ったのか、彼女が呟いた。
          「ごめん、やっぱり、変だよね。気持ち悪いよね、こんなの」
           私は驚き、黙って首を横に振る。自分の動きがひどく緩慢に感じられた。私は震える声で言った。
           きれいだよ。
           それを聞いて彼女は泣いた。ぼろぼろ涙をこぼして、小さな子どもみたいにしゃくり上げた。
           私は彼女の頭にそっと触れた。そうして、泣き止むまで撫で続けた。



           靴を履いて外に出る。空は淡い橙色に染まり、庭と玄関口には濃い影が溜まり始めていた。振り返ると、サンダルを履いた葉月が開きかけたドアを支えて立っている。
           じゃ、また明日、学校で。
          「じゃあね」
           葉月はにっこり微笑みながら手を振った。私も軽く振り返す。敷石をこつこつ蹴って、門を出たあたりでドアの閉まる音が聞こえた。溜息をひとつつく。鞄を提げた左腕を、右手で強く握り締める。
           真っ赤な夕日を背に歩き出す。街はまるでオレンジのフィルターがかけられたみたいだった。足元から伸びた影法師が、行く先を音もなく這っている。私はそれを見下ろし、踏みつけようと足を前へ出す。靴の底でアスファルトを叩く音が虚しく響いた。

           家に帰って自分の部屋に入ると、ベッドの上に体を投げ出した。
           窓際に置かれたポトスの鉢植えを見やる。三ヶ月くらい前、葉月の腕を切ったあとで買ったものだった。新しい葉が次から次に生えてきて、今のところは順調に育っている。
           私は体を起こし、勉強机の上、ペン立てに刺さった古いハサミを手に取った。幼稚園に通っていた頃にもらったもので、二つの刃をとめる金具は緩まり、刃には錆が浮いている。色褪せた水色の持ち手に指を通して動かすと、しゃく、しゃく、とかすれ声みたいな音を立てた。
           鉢植えに近づき、一本の茎に刃を添える。けれど結局、刃を閉じることなく離した。そのまま、植木鉢の脇にハサミを置く。
           切れないハサミに居場所はあるのだろうか。机の奥で忘れられているならまだしも、ポトスの隣に置かれていることに意味はあるのだろうか。
           私は健気に葉を揺らすポトスを見つめて、葉月との関係が少しでも長く続くことを願った。どうか切れませんように、なんて、ハサミらしからぬ願いだな。自嘲気味に笑うと同時に、なんとなくそこに居場所を見つけたような気がして、私は安堵の息を吐いた。

          JUGEMテーマ:小説/詩




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